聞かれなかった祈り  ヨハネ15:5~8

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。
そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます
。」

(ヨハネ15:7)

[1]聖書には聞かれた祈りがあります

ソロモンは、王になった時、民を治める知恵を求めて聞かれました(Ⅰ列王3:9)。

アグルは貧しさも富も自分に与えず、無くてならないもので養ってくださいと祈り受け入られました(箴言30:8)。

神が与えるものよりも神ご自身を宝としたためです。

アサフは悪しき者が栄えていることを見て悩みましたが、神は祈りに答えられました(詩篇73:16)。

聖霊を求めた弟子たちの祈りは聞かれました(使徒1,2章)。

[2]聖書には聞かれなかった祈りがあります

 次のような祈りです。

イスラエルを呪えと言うモアブの王バラクの祈り(民数記22:6)。

自分たちを御国でキリストの左右の栄光の座に着かせてくださいと言うヤコブとヨハネの祈り(マルコ10:35)。

私は他の人のように不正な者でないことを感謝しますというパリサイ人の祈り(ルカ18:11)。

イシマエルを自分の子孫にして欲しいと言うアブラハムの祈り(創世記17:18)。

 昨年の聖化大会で、そのアブラハムの祈りについて語られました。

彼は、神からの祝福を約束されていました(創世記12:1)。

子孫が地の塵のように増えることを約束されました(同13:14)。

アブラハムはその約束を信じないで、妻サライと相談の上、妻の女奴隷ハガルを通してイシマエルをもうけました(16章)。

神はアブラハムが99才の時に改めてサラに子供が生まれることを告げました。

しかし、年老いた彼はイシマエルから子孫が与えられ、その祝福を願いました(17:18)。

神の答えはノーでした。

 神は私達に「私の前を歩み、全き者であれ」と言われます(17:1)。

「全き者」の祈りは聞かれます。

「全き者」とはキリストの言葉をとどめる者です(ヨハネ15:7)。

自分の良いと思う事ではなく、主の御心を最善とする者です。

祈りは聞かれます

全てをささげて主の前を歩みましょう

永遠をどこで過ごす?    ルカ16:19~31

 ここに「ある金持ち」と「貧しい人」の記事があります。

金持ちは毎日贅沢に遊び暮らしていました(19節)。

貧しい人(ラザロ)は、全身にでき物があり、金持ちの食卓から落ちるもので腹を満たしたいと思っていました。

やがて二人とも死にました。

そして、二人の行く先が分かれました。

ラザロは「アブラハムのふところ」、つまり永遠に慰められる場所に行きました。

しかし、金持ちは「ハデス」、つまり永遠の苦しみの場所に行ったとあります(22~23節)。

両者の間には「大きな淵」があります(26節)。

つまり、死によって神は変えられない私達の永遠の場所をお決めになるということです。

神はどのように二人の永遠の場所を決めたのでしょうか

金持ちが自分の兄弟たちがこんな苦しみの場所に来ないようにラザロを兄弟たちに遣わされることをアブラハムに願いました。

しかし、アブラハムは言いました。

「彼らにはモーセと預言者があります。

その言うことを聞くべきです」(29節)。

「モーセと預言者」は律法を伝えました。

①律法は神に受け入れられる唯一の義の基準です。

②その神の御旨を示す律法を人間は行う事は出来ないことを知ります(ヘブル9:27)。

③しかし、罪からの救いという助けがある事も語られています。

「わたしは決して悪者の死を喜ばない。

かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ」(エゼキエル書33:11)。

神の裁きは避けられません。

しかし、その裁きを救い主イエス・キリストが受けて下さいました。

律法は律法を守れない罪人がキリストに対する信仰によって義とされ生きる道があることを示しています。

ラザロは貧しい生活でしたが、どこかでその救いを信じていたと思われます。

永遠に対する希望を持っていたと思われます。

一方、金持ちは律法を無視し、贅沢な生活に溺れて神の憐れみを求めていませんでした。

イエス・キリストこそ私達の救い主です

憐れみ深い神です。

そのお言葉に聞き従いましょう。

「わたしの愛の中にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)

根を張る者は実を結ぶ    詩篇13篇

 私達の教会に、洗礼受けて36年信仰生活を送っている人がいます。

最近礼拝に来られなくなりました。

高齢と持病の為にほとんど家での生活を強いられているからです。

身寄りもないために、いわゆる独居老人となり危険な事もあります。

しかし、訪問する度に彼が言う事があります。

「わたしは独りではありません。

キリストが共におられるからです」 

彼はキリストを信じ、聖書を読み祈り、出来る限り教会生活を大切にしてきました。

これらの事から得た力が現在の彼を支えていることが分かります。

 キリストに根を張るために基本的な事があります。

そしてそれが力となり実を結ぶ人生へとつながります。

根を張る者は確実な実を結びます。

詩篇13篇の記者の姿からこの事が言えます。

[1]神の愛にしっかりと根を張りました

「いつまで」という語が4回も出てきます(1~2節)。

これは苦しいことから来る不平不満ではありません。

神に愛されているからこその神への訴えです。

神の愛は苦しい時の土台です。

[2]様々な実を結びました

①確信という実を結びました。

3節に「目を注ぎ」とあります。

それは、神に見られていることが自分の救いであるという確信を示しています。

同じく3節に「答えてください」とあります。

なかなか答えてくださらない神に向かってそれでも「答えてください」という祈りです。

神は答えてくださる生きた神であるとの確信を示しています。

②主の御名を崇めるという実を結びました。

4節で、彼は敵に勝たせないでくださいと祈りました。

私のことで御名が汚されないようにという潔い心を示しています。

③常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのこと感謝せよ(Ⅰテサロニケ5:16~18)という実を結びました。

5~6節にある「拠り頼みました」「救いを喜びます」「主に歌を歌います」がこのことを示しています。

キリストに根を張る者は実を結びます

実を結ばせてくださる主が崇められます様に

誰が根を張り、実を結ぶのか  

クリスチャンは木に譬えられます。

聖書に出てくる2つの木について見て見ましょう。

[1]イザヤ37章に出てくる木。

「ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。

エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。

万軍の主の熱心がこれをする」(31~32節)。

誰が根を張るのでしょうか? 

答えは神と人の共同作業です。

イスラエルは1年、2年、そして3年と苦しい状況が続きました(30節)。

しかし、その間根を張り「残りの者」とされた人々がいました(31節)。

キリストを信じても、苦しい状況から常に解放されるとは限りません。

しかし、その試練の時こそ、キリストに深く信仰の根を張るべきです。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように」キリストを求める時です(詩篇42:1)。

しかし、一方「万軍の主の熱心がこれをする」とあります(32節)。

神は敢て私達を様々な境遇に置いて訓練し、私達がキリストに根を深く張るようにしておられます。

ある時は、「水路のそばに植わった木」(詩篇1:3)のように溢れる恵みを注がれる時もあります。

主の恵みの中、キリストに根を張りましょう。

[2]ヨハネ15章に出てくるぶどうの木

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。

人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(5節)。

誰が実を結ぶのでしょうか?  

答えは神と人の共同作業です。

実は木(幹)に生じるものではありません。

枝に実が生ります。

キリストは「ぶどうの木」であり私達は枝です(5節)。

実を結ぶのは私達です。

 しかし、キリストは言われました。

「私を離れては、あなたがたは何もすることができない」(5節)。

実はキリストによってのみ形作られるものです。

私達がぶどうの木であるキリストにつながる時のみ、「多く実を結ぶ」者となります(2節)。

キリストは枝である私達を通して、ご自分の実を結ばせようとしておられます。

キリストに根を張りましょう

そして、キリストの愛と恵みが私達の生涯を通して現されますように

主は心を見る    ルカ16:14~18

 イエス様は御許に集まった人々にたとえをもって話されました(15:1~32)。

そして弟子達にも話されました(16:1~13)。 

一部始終を聞いていた「金の好きなパリサイ人たち」が「イエスをあざ笑った」と記されてあります(同14節)。

彼らはイエス様が救い主であることを信じていませんでした。

「金の好きな・・」とはこの世と心の望むままに歩んでいた私達の姿でもあります。

そのような彼らにイエス様はなおもねんごろに語りかけられたことが分かります。

あなたがたは、人の前で自分を正しいとするものです」(15節)

確かに人は教えられなくても都合の悪い事を隠し、うそをついてまでも自分を正しいとします。

しかし神は、あなたがたの心をご存知です」(15節)

自分を正しいとしたい・・・それは自覚しなくても神はご存知です。

名誉や評判を欲し、それが満たされることがいつしか喜びとなります。

その心を神はご存知です。

律法と預言者はヨハネまでです

それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでもこれに入ろうとしています

しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びる方がやさしいのです」(16~17節)。

神の御旨である律法に従うように勧められました。

そして、福音を信じて救われる道があることを示されました。

イエス様は私達の心がいかに神の前で「憎まれ、きらわれ」ていることを見ておられます(15節)。

そのような私達にイエス様は語り掛け、教え、導いてくださいました。

このイエス様の慈愛と寛容(ローマ2:4)の故に、私達はイエス様を信じることが出来ました。

ダビデのように神の前に祈りましょう。

神よ

私を探り、私の心を知ってください

私を調べ、私の思い煩いを知ってください

私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

(詩篇139:23~24)
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