神のうちに居る私達(2)    黙示録22:1~5

 来るべき神の国には夜がありません。

神ご自身が人々を照らします(5節)。

しかし、この世には様々な暗闇が存在しています。

神の国とは全く反対の闇です。

[1]永遠のいのちが隠されている闇(1節)。

神の国には「いのちの水の川」が流れています。

これは永遠のいのちを表しています。

この世に於いては、このいのちが隠されています。

罪によって神と交わる事ができないという闇です。

[2]のろわれたものに支配された闇(3節)。

 神の国は「のろわれたものは何もない」世界です。

「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」とあります(黙示録21:4)。

この世ではそれらのものが闇となって人間を支配しています。

核戦争の恐れまで存在しています。

キリストが再臨され御国が来るまでその支配は続きます。

この地は神によって創造されました。

それは「非常に良かった」と神が満足されたものでした(創世記1:31)。

神が人間を造られた後、最初にされたことは彼らを祝福することでした(同1:28)。

それらの祝福された世界が人間の罪のために一変しました(同3章)。

のろわれたものが入ってきました。この世で生きて行くためには、神のみことばの光が必要です。

[3]神が見えないという闇(4~5節)。

 来るべき御国では、私達は直接「神の御顔を仰ぎ見る」ことができます(4節)。

しかし、この世は神を「見ないで信じる」世界です。

信仰に寄らない限りキリストが見えないという闇があります。

神が見えない・・・それは神のご計画や御旨が分からないという不安に通じます。

自分が見えないと言う愚かさにつながります。

神の光に照らされなければ、人の欠点が見えても、自分の落ち度が分かりません(マタイ7:3)。

主の救いを必要としている者であることが見えません。

神の愛と恵みの中を歩みましょう。

神は私たちに御霊を与えてくださいました

それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります

                          (Ⅰヨハネ4:13)

必死の救済手段  ルカ16:1~13

 今日の聖書に絶望的状態から、引き上げられた一人の管理人のことが記されてあります。

彼は、管理すべき主人の財産を浪費してしまいました(1節)。

これを知った主人は、彼に報告を出すように命じます(2節)。

間違いなく解任を命じられると知った彼は、必死の救済手段を考えました。

主人から借金している人々をひとりひとり呼びました。

そして、借金額の数字を少なめに書き直させたのです。

こうすることによって、解任後、自分に恩義を感じて迎えてくれる人を準備しました(5~7節)。

この行為を知った主人はこの「不正な管理人」を「抜け目がない」とほめたとあります(8節)。

この例話は、「弟子たち」つまり救われた私達に対するメッセージです。

[1]私達は神から与えられた様々なものの管理人です

 私達には神から与えられた賜物や持ち物があります。

この世に於いてはそれらの所有者ではなく、それらの管理人です。

[2]私達は、神から託されたものを賢く管理する事が求められています

例えば、私達には「富」という神から託されたものがあります(10~11節)。

どのくらい所有しているかよりも、どのように用いているかが大切です(Ⅰテモテ6:17~18節)。

また賜物や能力も時も神から託されています。

これらを「抜け目なく」(賢く)そして、思い切って主の為に用いましょう。

[3]私達管理人には「永遠の住まい」(9節)という場所が約束されています

聖書に出てくる管理人は、自分の特権を利用して、自分が迎えられるこの世の場所を確保しました。

私達には永遠の御国が備えられています。

冠が用意されています。

真の管理人として抜け目なく賢い生き方をしましょう。

私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました

からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです

かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです

私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」

(Ⅱテモテ4:7~8)

神のうちに居る私達    詩篇139:7~12

 私達は神の神殿です(Ⅰコリント6:19)。

聖霊の神が私達のうちにおられるからです。

また一方聖書は、私達は神のうちにいると述べています(Ⅰヨハネ4:13)。

神はどこにでも居られる遍在の神です。

私達はその神のうちに存在しています。

この事を信じる時、様々な主の恵みに与ることができます。

[1]神を前にしたきよい畏れがあります(7節)。

詩篇139篇の記者は「あなたを離れて・・どこへ行けましょう・・どこへのがれましょう」と言っています(7節)。

彼は、神から逃げ出したいと言っているのではありません。

むしろ潔い神の御支配の中に有ることを感謝しています。

遍在の神の導きと御支配のうちを歩む幸せがあります(10節)。

[2]神が常におられるという平安があります(8~9節)。

 記者は「天」にも「よみ」にも主は居られるという確信をのべています(8節)。

確かに主は良い境遇の中にも、万事休すというような折にも居られます。

苦難の中にある時、誘惑を受けた時、自らの弱さを認めるべきです。

その時、主はいつでもどこでも避難所となってくださいます。

[3]神の光の中を常に進む力があります(11~12節)。

 天国には夜が有りません。

太陽ではなく、神が光となって人々を照らされるからです(黙示録22:5)。

この世は思い煩いや恐れ、誘惑のある闇の世です。

しかし、信仰によって天国を体験できます。

神のみことばが心の闇を照らす光です。

遍在の神が力となって下さいます。

迷わず恐れなく進むことが出来ます。
 
共におられる主に根を張り実を結ぶ者となりましょう。

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています

・見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』」                                  (マタイ28:18,20)

神殿を建てよう  Ⅰコリント6:19~20

 ゼルバベルは困難な中で神殿を再建し、神の栄光(威厳、素晴らしさ)を現しました。

パウロは、こんな罪人のかしらが救われたという証しで神の栄光を現しました。

すべて「私の霊によって」です(ゼカリヤ書4:6)。

自然もその姿を通して神の栄光を現しています。

主は、ゼルバベルやパウロと同様に私達一人一人をも神の栄光を現す神殿としておられます。

どのようにして私達は神の栄光を現す器とされているでしょうか?

[1]私達のからだを通して

19、20節に「からだ」とあります。

「からだ」とはその人の歩み、生活を示しています。

私達は罪のために神の栄光を現すことの出来ない死んだものでした(ローマ6:23)。

救いは私達を生まれ変わらせました。

神の栄光を現す歩みが始まりました。

その歩みが神の栄光を現します。

[2]私達が聖霊を宿す神の神殿とされていることによって

 信じた者には聖霊が宿っておられます。

私達は「聖霊の宮」です(19節)。

居ながらにしてみ言葉を聞くことができます。

「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)に従って歩むことができます。

その歩みが神の栄光を現す神殿を築きます。

[3]自己を放棄することによって

「あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」(19節)。

生れつきのままの人は、自己を喜ばすことに夢中になります。

しかし、救われるとそのような生き方に空しさを感じるようになります。

神の栄光につながるものを求めましょう。

神の栄光と関係ないものは、喜んで捨てましょう。

[4]神のものとされていることによって

「あなたがたは代価を支払って買い取られたのです」とあります(20節)。

功のない罪汚れに満ちた私達を神はご自分のものとするために、キリストはご自分の血の代価を支払われました。

 私達は完全に神のものとされました(エペソ1:13)。

私達のからだ、全生涯をもって神の栄光を現しましょう

立ちはだかる山    ゼカリヤ書4:1~9

 ここにオリーブの木と7本の管のある燭台の幻が記されてあります。

当時イスラエルは捕囚から帰還して神殿建築に取り掛かっていました。

指導者ゼルバベルは、敵の襲来、味方の疲労という困難の山々を前にしていました。

そのゼルバベルを励ますためにこの幻は示されたものです。

私達も様々な困難の山に遭遇しますが、勝利に進む秘訣があります。

それは、神の事実→信仰→体験の順序で進む事です。

[1]神の事実に根を張りましょう

神の前には困難の山もいかなる問題も平地となるという事実があります。

「大いなる山よ。おまえは何者だ。

ゼルバベルの前で平地となれ。」(7節)。

先週お話しいたしました兄息子は、放蕩して帰って来た弟が父に歓迎されるという驚きの山です。

そして、彼の内には「ねたみ」という山が隠されていました。

父といっしょに喜べない山もありました。

人間の内側にある様々な汚れた思いも、主は砕いてくださいます。

[2]「わたしの霊によって」と言われる主を信じましょう

「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる」(6節)。

以前お話ししましたように、ヤコブは「わたし(神)の霊」ではなく、自分の知恵と能力でやりくりして生きていました。

しかし、行き詰まります。

その彼に神は現われてくださいました(創世記28章)。

叔父ラバンのもとで彼は取り扱われました。

そして、神無しには生きられない自分の弱さを認めました。

全てを主に委ねて生きて行く信仰に立ちました(創世記32章)。

これが「わたしの霊によって」生きる人の信仰です。

「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)

[3]山が平地となる体験があります

「頭石」がはめ込まれて神殿建築は完成しました(7節)。

単に完成しただけでなく、人々は主の恵みによって完成したことを感謝しました。

困難に耐えられない手が神の栄光のために用いられたことを喜びました(9節)。

キリストに根を張り、神の栄光のために生かされている感謝と喜びの旅を続けましょう

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