彼らをお赦しください  ルカ23:33~43

主の御顔は悪をなす者からそむけられ

彼らの記憶を地から消される。」(詩篇34:16)

ルカ23章には、ふたりの「犯罪人」がいます。

「犯罪人」とは、この世の法律を破って罪を犯したものです。

「悪をなす者」とは神の律法を破り罪を犯したものです。

ローマ3章には「すべての人は罪を犯したので・・」とあります(23節)。

神の前に、私達全ては犯罪人でなくても、「悪をなす者」であり「罪人」です。

 ルカ23章には様々な「悪をなす者」がでてきます。

[1]ふたりの「犯罪人」(32節)

彼らはおそらく殺人を犯した犯罪人でした。

ひとりの犯罪人は、最後までその罪を認めませんでした。

悪を行っても、それを悪と認めないという罪の恐ろしさがあります。

[2]くじを引いていた兵士たち(34節)

キリストには目もくれず、キリストの持っているものが欲しい人々です。

健康も財産も神が私達に与えてくださったものです。

私達自身の存在も、神が与えたものです。

これらを自分のものにしている「悪をなす者」となっていないでしょうか?

[3]立ってながめていた民衆(35節)

神がなさっていることを「ながめる」とは、何もしないことです。

それは「悪をなす者」となります。

キリストの恵み深さを味わいましょう(詩篇34:8)。

[4]あざ笑っていた指導者たち(35節)

指導者たちはキリストに対する妬みと憎しみから、キリストを殺しました。

憎む相手を殺した満足から来る「笑い」です。無知から来る満足です。

神に対する「無知」という罪人の姿です。

[5]キリストを十字架につけた人々(33節)

彼らは「イエスと犯罪人」を十字架につけました。

神と犯罪人との区別がつきませんでした。

「悪をなす者」とは善悪の真の判断ができない者です。

キリストから見ると「悪をなす者」とは「何をしているのか自分でわからない」存在です(34節)。

そんな私達のために、キリストは「彼らをおゆるしください。」と祈ってくださいました。

私達は神の刑罰の対象から、愛の対象とされた者です。

御子のご支配の中」に移された者です(コロサイ1:13)。

憎しみを超えて  ルカ23:33~43

 昨年NHKスペシャルで「ふたりの贖罪」が放映されました。

アメリカを憎みハワイ真珠湾攻撃の爆撃隊長となった淵田美津雄。

その日本を憎んで日本への初空襲に参加したジェイコブ・ディシーザー。

しかし、二人とも聖書を通してキリストを信じました。

不思議な神の摂理により二人は出会いました。

2人が協力して憎しみを超えてお互いの国に宣教のために生涯を奉げました。

彼らの信仰のきっかけとなった聖書のみ言葉がルカ23章にあります。

父よ。彼らをお赦しください

彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(34節)。

 この事を通して教えられる事があります。

[1]人間は憎しみに勝てません

ちょっとしたことで争いや、憎しみ、憤りに発展する事があります。

放映された番組の中で、淵田さんは「憎んではいけないと頭では分かっている。

しかし、心がついていけないのです」と言っています。

憎しみに限らず、空しさ、誘惑、不安・・・そして死。人間は勝てない敵に囲まれています。

[2]憎しみは破滅を生みます

憎しみやねたみは殺し合いになる危険なものです。

戦争をも引き起こします(ヤコブ4:1)。

[3]憎しみを超える愛があります

当時のユダヤ人の指導者に妬まれ、人々に憎まれてキリストは十字架につけられました。

それらの人々のためにキリストは祈られました。

「父よ。お赦しください」と。

憎しみを超えた愛をキリストは持っておられます。

[4]信じたら憎しみを越えられます

淵田さんもディシーザーさんもその祈りで自らの姿を示され、悔い改めてキリストを信じました。

彼らは憎しみを超えることが出来たのです。

キリストの横につけられた犯罪人も信じた時に変わりました。

憎しみの世界から天国に移されました(42節)。

憎しみ、不安、そしてあらゆる人間の敵に打ち勝ち、乗り越えて生きて行く人生があります

カインの神    創世記4:1~15

 聖書の神は「人が」つくった神ではありません。

「人を」つくられた神です。

人を創造されただけでなく、私達に愛をもって関わっておられます。

今日、そのことを見ましょう。

[1]神は人の心を見られます(4~5節)

最初に創造されたアダムの子であるカインとアベルは神に供え物をしました。

カインは自分の作った作物を、アベルは自分が養っている羊を献げました。

神はカインではなく、アベルの供え物に「目を留められた」とあります。

供え物を献げるのに、アベルは羊の初子の中で最上のものを献げました。

どのような心で献げるか神は見ておられます。

どれだけ立派な仕事をしたかよりも、神はどのような心で行ったかを見ておられます。

たとえ小さなことでも愛をもって人々に関わろうとする私達の心を神は喜んでくださいます。

[2]神は危険を知らされます(6~7節)

妬みから顔を伏せているカインに対して神は言われました。

「罪は戸口で待ち伏せしている」と。誘惑に戸を開くと危険です。

私達を愛しておられる神はその事を示してくださいます。

[3]神は罪を示されます(8~10節)

 神の警告を無視してカインはアベルを野に連れ出して殺しました。

人類最初の殺人事件です。

罪を罪と思わない人間に神は罪を示されます。

否、神だけがその事が出来るのです。

神が人を創造されたからです。

[4]神は罪人を憐れまれます(11~15節)

 罪を犯したカインに対して、その恐ろしさを神は示されました。

その時カインは「私の咎は、大きすぎて、にないきれません」と告白します。

そのカインにでさえも神は憐れみを持って関わって下さいました(15節)。

私達にも同じことが言えます。

つい罪を犯してしまいます。

そして、その後始末で悩みます。

キリストはそんな私達のために十字架について私達の罪を始末してくださいました。

今も私達に語っておられるキリストの言葉です。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい

わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

    主の目 主の耳

      詩篇34:15  ルカ18:9~14       
主の目は正しい者に向き、

その耳は彼らの叫びに傾けられる
。」(詩篇34:15)

 神には「正しい者」を見守る目があります。

祈りを聞かれる耳があります。

では「正しい者」とは誰でしょうか? 

ルカ18章に神に義と認められた正しい人(取税人)がおります。

一方正しいと認められなかったパリサイ人がいます。

二人とも神の宮で祈ったのですが、二人の違いは何でしょうか?

[1]なぜ神の宮に上ったかが違います

パリサイ人は、自分は正しい人間だから神の前で祈ろうとしました。

取税人は、自分は正しくないから神に祈ろうとしました。

[2]自分の内側を見ているか、うわべを見ているかが違います

パリサイ人は、断食しささげものを正しく行っていると自画自賛しています。

取税人のような不正な事をして腹を肥やしている人間ではないことを感謝しています(11節)。

すべてうわべのことです。

取税人は、確かに不正をして人々のお金をゆすって腹を肥やしておりました。

しかし、彼はそのような自分を悲しんでいます。

心の内の苦しみを赤裸々に神に打ち明けました(13節)。

[3]神に本当に祈ったかが違います

確かに、どちらも形の上では祈りをしています。

しかし、祈りの出所が違います。

パリサイ人は自らの誇りと他を批判する心から祈り(?)ました。

取税人は、神に憐れみを求める信仰から祈りを捧げました。

[4]神に義とされたか否かが違います

パリサイ人の義は、神からのものではなく、「自任」しているにすぎませんでした(9節)。

真の義は、神から与えられるものです。

神は、取税人の祈りに表された信仰を見られました。

そして彼を義と認められました(14節)。

神が私達を正しいとされる基準は私達の行いではありません。

また、罪深さでもありません。

キリストは私達の罪の為に身代わりとなって死んでくださいました。

そのキリストを信じる信仰によって神は私達を義と認め、正しい者と見てくださいます。

これがキリストの十字架の恵みです(ローマ10:4)。

義と認められることは素晴らしい事です。

「主の目」が恐い目ではなく、生きる力になります。

潔い生活をしたいとの思いが起こされます。

祈りを聞かれる「主の耳」が平安の土台となります。

主を見上げつつ、祈りつつ進みましょう。

愛の律法      ルカ14:1~6

 神の律法である十戒は、シナイ山でモーセを通して与えられました(出エジプト記20章)。

キリストは改めてその律法を凝縮して弟子たちに与えられました。

それは「神を愛せよ」そして「あなたの隣人を愛せよ」ということです(マタイ22:37~38)。

一見厳しい戒めのように見える十戒は、実は愛の律法だったのです。

その律法の中に今日の聖書の個所にある「安息日」のきまりがあります。

「六日間、働いて・・七日目は、あなたの神、主の安息である。

あなたはどんな仕事もしてはならない」とあります(出エジプト記20:9~10)。

つまり、「安息日」である「七日目」(現在の土曜日)は仕事をしてはならないという決まりです。

律法には目的があります

神は天地創造の働きを6日で行われ、7日は休まれたとあります(創世記2:2)。

神は、その安息を私達にも与え、私達が安心して暮らせるようにされました。

それが安息日です。

律法はこれを守ることにより、結局人間が幸せになるためのものです(申命記5:33 マルコ2:27)。

律法学者たちは安息日の目的を抜きにして、単に仕事をしてはならない日としておりました。

キリストは彼らの形式的宗教と偽善を責めておられます(14:3、5節)。

私達も一週間の中の聖日を献げ礼拝する時に祝福された歩みが与えられます。

律法を行う土台があります

それは、イエス・キリストの恵みです。

水腫をわずらっていた人(2節)をキリストは「抱いていやし、帰された」とあります(4節)。

私達は、負い切れない罪を赦していただきました。

キリストに抱かれながら御国へと向かっています。

その恵みが私達の行動の原動力です。

「殺すな」「愛せよ」と言われても私達罪人には、結局行う力はありません。

しかし、キリストの愛に抱かれる時に、聖い動機が与えられます。

キリストに従って愛して行きたいと思います。

神の律法によって幸いな人となりましょう。

あなたこそ、私の主

私の幸は、あなたのほかにはありません」(詩篇16:2)
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