下に根 上に実  イザヤ37:31 ピリピ3:7~14

ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ」  (イザヤ37:31)

植物が根を張る「下」は見えない部分です。

「上」は見える部分です。

植物と同様に、クリスチャンにも見える部分と見えない部分があります。

このことをピリピ3章7~14節で見ましょう。

パウロは実を結んだ生涯を送りました

「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」と言っています(14節)。

かつてはクリスチャンを迫害したパウロがひたすらキリストの為に走っている姿があります。

明らかに見える彼の証しです。

パウロは根を張りました。

大切なことは、彼の生涯を支えた「根」です。

彼はどのように根を張ったでしょうか?

①自分を深く探り、真の自分の姿を知りました。

「損」であるものを「得」としていたかつての愚かな自分でした(7節)。

「義」でなかった自分が分かりました(9節)。

つまり、罪深い人間であったことを認めました。

晩年には彼は自分のことを「罪人のかしら」と呼びました(Ⅰテモテ1:15)。

罪の深さを知れば知る程、神の愛と憐れみの深さが分かります。

己の愚かさ、弱さを自覚するたびに、いかに自分がキリストを必要としているかが分かります。

神の前の自分の姿を正直に認める事が信仰生活の根となるのです。


②キリストとの関係を深める事です。

パウロは何度も「キリストを得たい」と言っています(8,12節)。

救われても、私達はさらに救い主イエス・キリストを追及するべきです。

十字架に架かられたキリスト。

日々みことばで養ってくださるキリスト。

また私達の全ての必要を満たして下さるキリストを知るべきです(ピリピ4:19)。

そのキリストとの関係は、毎日のデボーション、教会の交わり、祈りを通して深められます。

下に根を張り、上に実を結ぶ一年でありますように。
 

いっしょに喜んでください   ルカ15:11~24

 この聖書の個所は「放蕩息子」の譬えとして良く語られます。

この記事を通して教えられる事は罪の恐ろしさと神の愛です。

新約聖書ほど、罪の恐ろしさを意識させる書物はありません

罪とは神の戒めに逆らう事です(Ⅰヨハネ3:4)。

罪は不義、不正、邪悪です(Ⅰヨハネ5:17)。

放蕩息子は、父親を離れて幸せな生活が出来ると考えました。

自分を神の立場に置き、神の愛を拒否して生きる事が罪なのです。

その罪を犯させるものは「欲」です(ヤコブ1:15)。

放蕩息子は、父親のもとを離れた時に欲に支配され、「放蕩した」とあります(13節)。

神を離れた人間、つまり罪人は罪と欲に勝つことができません。

罪の結果は死です(ローマ3:23 6:23)。

 神が私達に計画された幸せを破壊し、破滅させます。

放蕩息子は、父の元を離れてこの事が分かりました。

神は罪人に御自分に立ち帰り救われる事を求めておられます

 自然界を通してご自分を示しておられます(詩篇19篇)。

そして、罪に悩むものを救おうとしておられます(詩篇18:27)。

放蕩息子はどこかでその声を聞いた罪人を表しています。

どのような罪人も神の招きに答える機会が与えられています

 苦しみの中で放蕩息子は父を思い出しました。

その父に罪を犯したことを認めました(18節)。

最早子としての資格が無いことを認めました(19節)。

これが悔い改めです。

その時、彼は「立ち上がった」とあります(20節)。

真に悔い改める者は立ちあがり悔い改めたことを実行すべきです。

そのような罪人を天の父なる神は受け入れてくださいます。

そして、真に幸せな人生が始まります。

 「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです
(Ⅰペテロ2:25)。

放蕩息子の通った道は私達が歩いてきた道です。

私達と同じように神に立ち帰り、皆でいっしょに喜ぶ人が起こされます様に。

救い主イエス・キリスト    Ⅰテモテ1:15

キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです

私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:15)

 世界で始めのクリスマスは、ベツレヘムでの夜の出来事でした(ルカ2章)。

この世の闇の中に救い主イエス・キリストは来てくださいました。

私達の心の内にも暗闇があります。

[1]見えないという闇があります

 一寸先は闇と言われるように、自分がどんな危険な状態にあるか見えない時があります。

上記のみ言葉を記したパウロは、キリスト教は間違っていると信じて、クリスチャンに暴力をふるい迫害しておりました。

「知らないでしたこと」と彼は告白しています(同13節)。

知らないで人を傷つけ、神に背く・・・それほど人間の心の中にある闇は深いものです。

何よりも、救いを与える神が見えないと言う闇があります。

[2]分からないという闇があります

 処女であったマリヤは、キリストを宿していることを御使いに告げられました。

その時、彼女は戸惑いました。

自分に突然起こった出来事が理解できませんでした。

人間には、何故自分がこんな苦しみに会うのか分からない時があります。

何のために生まれて来たか、分からない人もいます。

マリヤは、神の大きなご計画の中に自分があることを信じて平安を得ました。

[3]後ろめたいという闇があります

 パウロは自分の犯した罪と言う闇の為に苦しみました。

全ての人に後ろめたいと言う闇があります。

パウロはそのような中でキリストと出会いました。

そして「罪人を救うためにこの世に来られた」キリストを信じました。

キリストの迫害者が神と人を愛する人、聖書を記すような人に生まれ変わりました。

これが救いです。その時彼は叫んでいます。

「私はその罪人のかしらです。」と。

こんな大罪人でも赦してもらった。

あなたも赦され、全ての闇から解放される!とういうメッセージなのです。

 救い主イエス・キリストを心の中に迎えてください

人となられたイエス・キリスト  ヨハネ1:1~14

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

私たちはこの方の栄光を見た。

父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。

この方は恵みとまことに満ちておられた
。」(14節)  

新約聖書4番目の福音書を記したヨハネは、このようにクリスマスは驚くべき出来事であると言っています。

[1]ことばが人となって来られた

この「ことば」は、創世記1章で神が天地を創造された時のことばです。

神は「光があれ」ということばで光を創造されました。

天地宇宙をそのように「ことば」で創造されたのです。

その「ことば」とは、イエス・キリストのことです(1、10節)。

天地を創造されたことばであり、神であるキリストがこの世に来られた・・・これはヨハネにも私達にとっても驚くべき出来事です。

[2]神が私達の間に住まわれた

旧約の時代、神は神聖な幕屋(神殿)に住まわれるとされていました。

ところがヨハネは驚くべき体験をしました。

神であるキリストと罪深い自分たちが共に過ごしたのです。

驚くべきことに今、キリストを信じている者達の間にもキリストはおられます。

[3]私達はこの方の栄光を見た

キリストがこの世に来られた時、多くの人々はキリストを見ました。

しかし、キリストの栄光を見ませんでした。

うわべを見ておりました。しかし、ヨハネはキリストの内から輝く神の栄光を見ました。

彼はキリストの業を通して、十字架を通して、復活を通してキリストは人ではない、神ご自身であると分かりました。

[4]キリストは恵みとまことに満ちておられる

 「恵みとまこと」このようにヨハネが言ったのには理由があります。

彼は旧約の律法しか知りませんでした。

それは、自己責任と自己犠牲の世界です。

しかし、キリストは恵みとまことに満ちておられます。

だから信じられます。

信じるだけで神の子とされます(12節)。

 天地創造の神、恵みとまことに満ちた神がこの世に来られました

 私達を救い、神の子とするためです

愛そのものであるイエス・キリスト

                   Ⅰヨハネ4:7~16

 ヨハネは大胆に「神は愛です」と告白しています(16節)。

それは、神の本質が愛であるということです。

つまり、神は愛そのものなのです。

愛の本源は神ご自身です(7節)。

私達は神も神の愛も知らない者でした(7~8節)。

「愛のない者」(8節)とは「愛し続ける事の出来ない者」の意味です。

私達が持って生まれた愛には限界があります。

どんな人も、どのような時にも愛すると言う愛ではありません。

神も神の愛も知らなかった私達でした。

神は私達にご自身の愛を示されました(9~10節)。

 「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。こ

こに愛があるのです」(10節)。 

神の愛には限界がありません。

私達が罪人であっても愛されます。

否、罪人だから神は私達を愛されました。

神の愛を知った私たちは愛し合うべきです(11~12節)

「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」とヨハネは勧めます(11節)。

愛さなければならない・・というのではありません。

愛されたから愛しましょうと言うのです。

これは、私達に可能です。私達は、愛そのものである神に創造され、愛されているからです。

御霊は私たちを愛である神と一体とします(13~15節)。

信仰生活は、頭ではなく御霊によらなければ分からないことがあります。

「神は私たちに御霊を与えてくださいました。

それ(御霊)によって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」(13節)。

愛である神と私たちは一体なのです。

そのことが分かっただけでなく、御霊によって、私達は神の愛の証人となります(14節)。

クリスマスを通して、神の愛に触れる人々が起こされます様に。

神は愛です

愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」(15節)。
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