主の目 主の耳

      詩篇34:15  ルカ18:9~14       
主の目は正しい者に向き、

その耳は彼らの叫びに傾けられる
。」(詩篇34:15)

 神には「正しい者」を見守る目があります。

祈りを聞かれる耳があります。

では「正しい者」とは誰でしょうか? 

ルカ18章に神に義と認められた正しい人(取税人)がおります。

一方正しいと認められなかったパリサイ人がいます。

二人とも神の宮で祈ったのですが、二人の違いは何でしょうか?

[1]なぜ神の宮に上ったかが違います

パリサイ人は、自分は正しい人間だから神の前で祈ろうとしました。

取税人は、自分は正しくないから神に祈ろうとしました。

[2]自分の内側を見ているか、うわべを見ているかが違います

パリサイ人は、断食しささげものを正しく行っていると自画自賛しています。

取税人のような不正な事をして腹を肥やしている人間ではないことを感謝しています(11節)。

すべてうわべのことです。

取税人は、確かに不正をして人々のお金をゆすって腹を肥やしておりました。

しかし、彼はそのような自分を悲しんでいます。

心の内の苦しみを赤裸々に神に打ち明けました(13節)。

[3]神に本当に祈ったかが違います

確かに、どちらも形の上では祈りをしています。

しかし、祈りの出所が違います。

パリサイ人は自らの誇りと他を批判する心から祈り(?)ました。

取税人は、神に憐れみを求める信仰から祈りを捧げました。

[4]神に義とされたか否かが違います

パリサイ人の義は、神からのものではなく、「自任」しているにすぎませんでした(9節)。

真の義は、神から与えられるものです。

神は、取税人の祈りに表された信仰を見られました。

そして彼を義と認められました(14節)。

神が私達を正しいとされる基準は私達の行いではありません。

また、罪深さでもありません。

キリストは私達の罪の為に身代わりとなって死んでくださいました。

そのキリストを信じる信仰によって神は私達を義と認め、正しい者と見てくださいます。

これがキリストの十字架の恵みです(ローマ10:4)。

義と認められることは素晴らしい事です。

「主の目」が恐い目ではなく、生きる力になります。

潔い生活をしたいとの思いが起こされます。

祈りを聞かれる「主の耳」が平安の土台となります。

主を見上げつつ、祈りつつ進みましょう。

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愛の律法      ルカ14:1~6

 神の律法である十戒は、シナイ山でモーセを通して与えられました(出エジプト記20章)。

キリストは改めてその律法を凝縮して弟子たちに与えられました。

それは「神を愛せよ」そして「あなたの隣人を愛せよ」ということです(マタイ22:37~38)。

一見厳しい戒めのように見える十戒は、実は愛の律法だったのです。

その律法の中に今日の聖書の個所にある「安息日」のきまりがあります。

「六日間、働いて・・七日目は、あなたの神、主の安息である。

あなたはどんな仕事もしてはならない」とあります(出エジプト記20:9~10)。

つまり、「安息日」である「七日目」(現在の土曜日)は仕事をしてはならないという決まりです。

律法には目的があります

神は天地創造の働きを6日で行われ、7日は休まれたとあります(創世記2:2)。

神は、その安息を私達にも与え、私達が安心して暮らせるようにされました。

それが安息日です。

律法はこれを守ることにより、結局人間が幸せになるためのものです(申命記5:33 マルコ2:27)。

律法学者たちは安息日の目的を抜きにして、単に仕事をしてはならない日としておりました。

キリストは彼らの形式的宗教と偽善を責めておられます(14:3、5節)。

私達も一週間の中の聖日を献げ礼拝する時に祝福された歩みが与えられます。

律法を行う土台があります

それは、イエス・キリストの恵みです。

水腫をわずらっていた人(2節)をキリストは「抱いていやし、帰された」とあります(4節)。

私達は、負い切れない罪を赦していただきました。

キリストに抱かれながら御国へと向かっています。

その恵みが私達の行動の原動力です。

「殺すな」「愛せよ」と言われても私達罪人には、結局行う力はありません。

しかし、キリストの愛に抱かれる時に、聖い動機が与えられます。

キリストに従って愛して行きたいと思います。

神の律法によって幸いな人となりましょう。

あなたこそ、私の主

私の幸は、あなたのほかにはありません」(詩篇16:2)

目が開かれる時  ルカ24:13~35

イエス・キリストは復活されました。今も生きておられます。

ただ、私達の目に見えないだけです。

そのキリストに目が開かれる時があります。

その時にともに居られることがわかります。

復活のキリストに気づかない時があります

キリストが復活された日、二人の弟子達がエルサレムからエマオに向かっていました(13節)。

キリストが近づいて話しかけても彼らは、キリストに気づきませんでした。

なぜなら、キリストが十字架につけられたことで失望の中に彼らがあったからです(20節)。

失望の中でも私達はキリストを見上げるべきです。

また彼らはキリストが復活したという「話」も聞いておりました。

その事を彼らは「論じ合って」いました(15節)。

議論してもキリストは見えません。

キリストはそのことを「信じない、愚かな人たち」と嘆かれました(25節)。

信じないことは愚かな事です。

また、キリストは「聖書全体」からご自分について語られました。

神の言葉である聖書全体を読むときに目が開かれます。

復活のキリストに目が開かれる時があります

なぜなら、キリストは近づいて下さるからです(15節)。

エマオへの途上で弟子たちに語られたように、今でも語り掛けられるからです。

弟子たちは、キリストがパンを裂いて食事しようとしている時に、キリストだとわかりました。

復活のキリストは俗世間を離れた奥深い山の中に居られるのではありません。

一生懸命信仰生活に励んでいるから見えるお方でもありません。

たとえ私達の目には見えなくても毎日の衣食住の生活の中におられることがわかります。

それで、彼らの目が開かれ、イエスだと分かった

するとイエスは、彼らには見えなくなった。」(31節)

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