主を恐れよ  詩篇34:7 ヨブ記16:1~6

聖書で言う「恐れ」の範囲は広いものです。

神に敵対している人の恐れから、神を信じて愛している人の恐れまであります。

創世記16章に出てくるハガルから学びましょう。

[1]主を仰ぎ見ないハガルの恐れ

不信仰な事ですが、アブラムは妻サライの提案を受けて女奴隷ハガルによって子を儲けました。

その結果、ハガルはサライを見下げるようになります(4節)。

これがもとで、逆に彼女はサライからいじめを受けます。

そして荒野へと逃げ出しました(6節)。

ハガルが恐れたのはサライです。

自分よりも力があるからです。

災いも死も怖いものです。

しかし、神を離れた人の一番の恐れは、罪に対する刑罰です。

その彼女が荒野を恐れませんでした。

子供を宿しながら、女性一人で自分は荒野を生きていける・・・という間違った自信を持っていたからです。

[2]主を仰ぎ見たハガルの恐れ

ハガルは「彼女(女主人)のもとで身を低くしなさい」という主の声を聞きました(9節)。

この時、彼女は主を見上げて、サライの元に帰りました。

彼女の「恐れ」が変わりました。

①荒野を自分の力で生きていくことに恐れを感じました。

この恐れは、弱さを持った人間に必要な恐れです。

神無しに生きていくことへの恐れです。

彼女は自分の判断の過ちに気づいたのです。

②サライとの人間関係を恐れなくなりました。

神に従う者は、主を恐れます。

主を恐れると怖いものが無くなります(Ⅰヨハネ4:18)。

③神様のお言葉に背くことが怖くなりました。

彼女は、自分を見ておられ、自分を愛しておられる主を見上げました(13節)。

その時に、神の言葉に背くことの恐ろしさを知りました。

「主を恐れることは知識の初めである」(箴言1:7)祝福された人生の土台は、神を恐れる事です。

その時に、確信もって生きていくことができます。

私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から引き離せるものは何もありません」(ローマ8:39)
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主は聞かれた  詩篇36:6 Ⅱ歴代18:28~34

この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた」(詩篇34:6)

キリスト教は体験の宗教です。

ダビデは数々の信仰の体験をしました。

今日の個所では「呼ばわった」そして「聞かれた」という体験です。

それは、私達の通る道でもあります。

[1]この世には、主に呼ばわらなければならないような苦しい体験があります

別の面から言えば、主に呼ばわらなければいけないような幸いな体験があります。

詩篇を作り信仰深い神の器ダビデでさえも、平穏無事な生活ではありませんでした。

ヨブは、神を呼び求めても神はどこにもいないと感じるほど悩みました(ヨブ記23:8~9)。

しかし、ダビデは、この苦しみの中で自分の限界と神の恵みを体験しました。

ヨブは、苦しみを通して神の偉大さを知り砕かれました。

私達もこの世の生活においてキリストの言葉を体験します。

あなたがたは、世にあっては患難があります

しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

(ヨハネ16:33)。

苦しい体験は、キリストを体験する幸なものとなります。

[2]主に「呼ばわった」者は「主は聞かれた」を体験します

旧約聖書Ⅱ歴代18章にヨシャパテの体験があります。

彼は、ユダ王国の中で信仰深い王でした。

しかし、神の御心に反してイスラエル王国の中で最悪と言われるアハブと共に戦いに出たことがありました。

アハブの勧めに従ってヨシャパテは王の衣で戦いに出ました。

敵は彼を見ると、これがイスラエルの王だと思いました。

そしてヨシャパテを取り囲みました。

この一大事の時に、ヨシャパテはなりふり構わず、子供のように主に向かって「助けを叫び求めた」とあります(31節)。

その姿を見た敵は、これは王の姿ではないと思って彼から離れました。

世の中では「負けるが勝ち」という言葉があります。

しかし、聖書は「呼ばわるものが勝ち」と言っています。

主は聞かれるからです。

[3]呼ばわっても聞かれなかったという体験をされた方がおられます

それは、キリストです。

十字架の上でキリストは叫ばれました。

「わが神、わが神。

どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と

(マタイ27:46)。

この叫びは父なる神に聞かれませんでした。

罪の為に見捨てられなければならない私達が救われるためです。

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

(ヘブル13:5)

という主のみ言葉を私達が体験するためです。

いかなる時にも、主により頼みましょう。

主を仰ぎ見る時   詩篇34:5 詩篇32篇 

 「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」(詩篇34:5)

教会にあるシクラメンの鉢植えは、太陽の光に敏感です。

陽にあてないと花がしぼみます。

陽に当てると輝いて咲いているように見えます。

ダビデは、主を仰ぎ見る時に輝いた人生があることを述べています。

詩篇32篇を見ましょう。

[1]主を仰ぎ見ないとは・・・(3~4節)

問題を自分で握りしめて、自分で解決しようとします。

ダビデは、妻が居りながら他の女性と関係を持つという罪を犯しました(Ⅱサムエル11章)。

彼は、「黙って」、「うめいて」一人で悩みました。

自分で犯した罪も、自分の意思に関係なく降りかかってくる問題も、人の手には負えないものです。

そのような様な問題よりももっと大きな問題があります。

自分では出来ないことを認めて神の手に委ねない人間の傲慢さです。

[2]主を仰ぎ見るとは・・・(5~6節)

ダビデは「自分の罪を主に告白しよう」と決心しました。

彼は問題を自分では解決できないことを認めました。

そして赦し潔めてくださる主に問題を委ねました。

こうして彼は主を見上げ、平安を得ました。

聖書は言います。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:6)

[3]主を仰ぎ見る時輝きます

①私は今幸せですという人になります(1~2節)。

②平安に満たされます(6~7節)。

③確信に満たされます(8~11節)

ダビデは、人々に向かって「主にあって、喜び、楽しめ」と勧めています。

④何よりも主を仰ぎ見る時、輝きます(34:5)。

モーセは、幕屋で神と直接話しました。

幕屋を出た時、彼の顔は光を放っていました(出エジプト34:35)。

それは、神の輝きを反映させたものでした。

私達が主を仰ぎ見上げながら歩むとき、私達の歩みは輝いたものとなります。

神のすばらしさ、神の栄光を示すものとなります。

主を仰ぎ見ましょう

主を求めよ    詩篇34:4

私が主を求めると、主は答えてくださった

私をすべての恐怖から救い出してくださった。」

                      (詩篇34:4)

このダビデの告白の中に彼の信仰が隠されています。

ダビデは・・・・

[1]「主を」求めました

彼は「主のすばらしさ」や良き境遇を求めているのではありません。

勿論それらは主が与えてくださるものです。

しかし、ダビデはそれらよりも与え主である「主」、つまり神ご自身を求めました。

あらゆる時にダビデは「主を」ほめたたえました(1節)。

そして、あらゆるものをくださる「主を」求めたのです。

[2]「答えてくださる」主を信じました

イエス・キリストは生きておられる神です。

私達の祈りに耳を傾けてくださるお方です。

主に期待しましょう。

[3]すべての恐怖から「救い出される」ことを信じました

私達の回りには、常に平安な生活を脅かす問題があります。

どこかでストレスとなっているものがあります。

ダビデが言う「救い」とは、これらの問題がなくなる事ではありません。

そのようなものに支配されない救いです。

彼の内には苦境の中で主をほめたたえることができる平安がありました(1節)。

ハバククは、イスラエルの国から家畜がいなくなり、ぶどうが実を実らせなくなるという苦難の中で「主にあって喜び勇み」喜ぶことを体験しました(ハバクク書3:17)。

[4]キリストの十字架を見上げていました

すべての恐怖の中の最大の恐怖は、自分です。

神の前に罪を犯し、永遠の神の裁きを受けなければならない自分です。

人の目はごまかす事ができます。

しかし、神の前にダビデは自分が罪人であることを認めていました。

「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。」

(詩篇51:4)。

そんな恐ろしい罪人である自分のために、キリストは死んで下さった。

救ってくださった。

この喜びが賛美となりました。 

主を求めましょう

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