神の国に入る人は?   ルカ13:18~30

聖書に出てくる「神の国」は、神が支配される場所です。

「御国」とか「天国」とも呼ばれています。

[1]神の国は、キリストを信じた人の心の中にあります

また、キリストを信じた人々の交わりの中にあります

①それは、からし種のようなものです(19節)。

小さな種が鳥の巣ができるような植物に成長します。

強い生命力があるからです。

神の国にはこのような豊かな命があります。

②パン種のようなものです(21節)。

小麦粉の中に埋もれているようですが、パン種は全体に作用してパンを変容させます。

神の国のパン種は真理のみ言葉です。

私達のうちにある神の国は拡大し、成長するという事です。

成長させてくださる神がおられるからです(Ⅰコリント3:6~7)。

[2]「神の国」は「御国」のことです

キリストが再臨されてこの世はキリストが支配する御国となります。

その神の国に入る人は「努力して狭い門から」入る人です(24節)。

入ろうとして入れない人もおります。

キリストはそのような人に「あなたがたがどこの者か、私は知らない」と言っています(25節)。

彼らは、キリストの教えを聞いていても、キリストとの関係を持たなかった人々です(26節)。

ヨハネ8章に出てくる姦淫の場で捕らえられた女性は、キリストのもとにとどまりました(9節)。

キリストとの関係の中で生きていきたいと思ったからです。

神の国に入る道は、決して“楽”な道ではありません。

しかし、キリストと共に進む“楽しい”歩みです。

キリストはそのような歩みへと私達を引っ張っておられます。

御国を慕うパウロも述べています。

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。

ただ捕らえようとして、追求しているのです。

そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」

                              (ピリピ3:12)
スポンサーサイト

クリスマスの光  ヨハネ8:12~20

キリストがこの世に来られた時代、イスラエルでは「仮庵の祭り」が行われていました。

今日の聖書の個所は、その祭りのときの出来事です。

神殿の大燭台に火がともされました。

エルサレム中が照らされたと言われています。

その灯火をバックにキリストは言われました。

「わたしは世の光です」(12節)。

神殿の火に勝ってキリストは私達を照らされる光です。

キリストの光は学者、パリサイ人を照らしました

12節に「イエスは彼らに語って言われた」とあります。

彼らとは姦淫の場で捕まえられた女性を石で打ち殺そうとしていた学者やパリサイ人です。

その彼らにキリストの光が投じられました。

「あなたがたのうちで罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい」という光です(7節)。

彼らは自分たちには罪がないと思い込んでいました。

キリストの言葉によって照らされなければ、自分の罪が見えません。

彼らは確かに光を受けました。

しかし、その光を背に逃げてしまいました(9節)。

罪は見えないだけに、大きな問題を引き起こします。

個人の祝福された生活を奪います。

幸せな家族を破壊します。

キリストの光は罪を犯した女性を照らしました

姦淫の場で捕らえられた女性は、石打ちの刑から逃れました。

しかし「女はそのままそこにいた」とあります(9節)。

つまり、逃げないでキリストのもとに留まりました。

その彼女にキリストの3つの光が投じられました。

①「わたしもあなたを罪に定めない」(11節)という光です。

人間を裁くことの出来る唯一の神であるキリストが「罪に定めない」と言われるのです。

この光を受けた人は生まれ変わります。

②「行きなさい」(11節)という光です。

再び罪を犯すかもしれないこの世にキリストは「行け」と言われました。

この世は変わりませんが、彼女が生まれ変わったからです。

③「いのちの光を持つのです」(12節)という光です。

キリストを信じた私達は、信じたその瞬間からいのちの光そのものであるキリストを持っています。

みことばであるキリストがあなたの内におられます

この世の闇路を照らすキリストがあなたと共に居られます

クリスマスの不思議  ヨハネ1:1~14

 「すべての人を照らす」まことの光であるイエス・キリストがこの世に来られました(9節)。

これは不思議な出来事です。

この事実によって私達は闇の人生から光へと変えられました。

大人になるに従い、「不思議」という感覚が薄れます。

しかし、太陽が東から上ることも、私達が生きていることも、不思議で満ちています。

毎年おとずれるクリスマスですが、これは不思議に満ちた出来事です。

14節から、そのことを見ましょう。

[1]ことばが人となった

ことばは人から発せられるものです。

しかしここでは、逆にことばが人となったとあります。

これがクリスマスの出来事です。

この「ことば」とは1節にある「ことば」です。

初めから神とともにあったイエス・キリストのことです。

みことばであるキリストが人となって来られたのです。

[2]ことばが住んだ

地上に住むのは人間や生き物です。

でもクリスマスはことばが「住まわれた」という出来事です。

キリストは肉体を持ってこの世に住んでくださいました。

しかも、この世に安住されたのではありません。

人間の生活の場に来られたという事です。

生まれた場所は農家の仕事場です。

良心に反した生活をしていたザアカイのいる場所に来られました。

サマリヤの女性の闇の生活の中に来られて語り掛けました。

ですから彼らは救われました。

[3]神の栄光を見た

この「見る」というギリシャ語は「みとどける」とか「よく見る」とも訳される語です。

人は生まれつきの罪人です。

この世の輝かしい出来事は見えても、神の栄光はよく見えません。

しかし、キリストを通して神が見えるようになりました。

生れつき目の不自由な人に光が見えたというような不思議な出来事です。

[4]最大の不思議は

「恵みとまこととに満ちておられた」お方が十字架につけられ、処刑された事です。

そのなぞの深さは、人間の罪の深さです。

裏を返すと、それが神の愛の深さになります。

神の栄光そのものであるキリストを十字架につけるほど、人間は罪深い者となってしまいました。

そんな私達のために、独り子であるキリストがこられました。

罪人のために死んでくださいました。

ここに人間の罪を贖うに十分な神の愛の深さがあります。

クリスマスの出来事を心からお祝いしましょう

実を結ぶ歩み   詩篇92篇

救われた者の歩む道は尊いものです。

み言葉を聞きながら歩む道です。

キリストにあって一致して歩む道です。

さらに、実を結びながら歩む道です。

詩篇92篇に対照的な二つの植物が出てきます。

「青草」(7節)と「なつめやし」(挿絵参照)「レバノン杉」(12節)です。

私達がキリストを信じて救われたということは、「青草」が突然「なつめやし、レバノン杉」に生まれ変わったということです。

どこが違うのでしょうか?

[1]根が違います

青草は、水が無いと育ちません。

水があるから育つのです。

根が浅いからです。

なつめやし、レバノン杉は砂漠に根を張り育ちます。

水が乏しくても、水を求める根を持っています。

キリストを信じた人は、この世の渇く水で生きるのを諦めた人です(ヨハネ4:13)。

そして、キリストのみ言葉を求めて生きる人となったのです。

砂漠のような人生でも、必ず生きていけます。

[2]実が違います

雑草が種を付けていても、ありがたいと思う人はおりません。

なつめやしの実(デイツ)は手に取ってたべたくなるようなおいしい実です。

レバノン杉は当時大事な建築材料でした。

それぞれ、人を喜ばせるものを生み出しています。

キリストを信じた者の最高の実は、神を賛美する生きざまです(1~5節)。

神を証しする生活です(15節)。

[3]なぜ存在しているかが違います

青草は、生えて来たものです。

しょせん枯れるか、抜かれる運命にあります(7節)。

しかし、なつめやしや杉の木は「植えられた」ものです(13節)。

つまり、大切に移植されたものです。

6節に「まぬけ者」という語がありますが、これは「関心がない者」の意味です。

私達は神に関心のない世界から、神のあわれみという大庭に移し替えられたものです(13節)。

実を結び、神の大庭に栄える歩みをさせて頂きましょう(14節)。

プロフィール

sawakei1

Author:sawakei1
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR