悔い改めよ   ルカ13:1~9

今日の聖書の個所で、二つの事が述べられています。

一つは当時起こった事件です。

他はたとえ話です。

これらに共通して言えることは「悔い改める」ということです。

[1]「悔い改める」とは

自らを省みて罪を悲しみ、神の助けを得て行いを改める事です。

キリストはしばしば悔い改めよと言われました(マタイ3:2 4:17など)。

[2]悔い改めない心は人を裁きます(1~5節)。

ピラトがガリラヤ人の血をいけにえに混ぜたという事件がありました。

そして、シロアムの塔が倒れて犠牲者が出たという事件がありました。

犠牲となった人は何か大罪を犯したのではという疑問を持った人々がいました。

その思いをキリストは否定しました。

そして「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」と言われました(3節)。

人を裁くよりも、自らを省みよということです。

[3]悔い改めには結果(実)が生じます(6~9節)。

いちじくの木はおいしい実を結びます。

同様に、悔い改めてキリストに根を下ろしたクリスチャンは実を結びます。

キリストの支配の中にあるからです。

「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子の支配に移してくださいました」(コロサイ1:13)。

実を結ぶようにキリストが神の右の座にあって執成しておられます「(コロサイ3:1)。

実を結ばないいちじくの木を主人は切り倒せと言いました(7節)。

しかし、畑の番人はもう一年待って欲しいと嘆願しました(8節)。

イエス・キリストは忍耐をもって私達を導いておられます。

神のあわれみと忍耐という特権に預かっている私達です。

そのご愛に応える者でありますように。

私達の生きざまが神と人々を喜ばせるものでありますように。

わたしは、世の光です

わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく

いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

スポンサーサイト

あなたは神の宝物(2)   コロサイ3:1~4

土の器である私達がキリストを受け入れました(Ⅱコリント4:7)。

宝を持っている尊い器となりました。

そのような私達を神は「高価で尊い」と言われます(イザヤ43:4)。

先週私達の教会では信徒修養会が持たれました。

そこで講師が語られたことです。

「私達は救われた。

そして、救われつつある。

やがて救われるであろう」

救われた私達は、神の宝物とされました。

さらに、この世にありながら御国に向かっての道を歩いています。

やがて栄化と言う完全な救があります。

 御国に向かって歩いている私達の道は

[1]天国を味わう道です(2節)

私達はイエスさまのいのちを頂いた者です。

そのいのちによって私達は地上におりながら天国の喜び、力を思う事ができます。

教会で、日常生活の中で味わう事ができます。

[2]この世に隠れた道です(3節)

「狭い門から入りなさい・・いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイ7:13~14)

[3]希望の道です(4節)

やがてキリストとお会いできるという唯一の望みがあります。

[4]キリストの執成しの中にある道です(1節)

「右の座を占める」とは主権を持っているという事です。

この世は、悪魔が働いているようですが、実はキリストの手によって操作されています。

真の主権者はキリストです。

特に、信じた私達を執成しておられます。

御国に向かう私達を励まし、教え、必要なものを与え続けておられます。

愚かといわれたナバルの言葉に発奮したダビデも、このキリストの執成しの中にありました(Ⅰサムエル25章)。

アビガイルを通して彼は悔い改めに導かれ、砕かれました。

キリストの執成しの中に有る者は聖くされていきます。

私達は神の宝物です。

さらに磨きがかけられて御国に向かう器に変えられて行きます。

救われつつある道を歩みましょう

あなたは神の宝物  イザヤ43:1~7

私達はイエス・キリストを宝として内にもっている土の器です(Ⅱコリント4:7)。

そのような私達を神は「高価で尊い」つまりご自身の宝物だと言っておられます(4節)。

[1]なぜ私達は神の宝物でしょうか

①神が創造されたからです(1、7節)。

私達も自分が作ったものには特別な愛着を覚えます。

そして、大事にします。

私達は神によって創造されました。

一人一人が愛をもって造られた者です(創世記1:27)。

神の傑作品であり宝です。

②神に贖われたものだからです(1節)。

人間は神によって神の傑作品に創造されました。

しかし、神から離れたために、その形が崩れ罪人となりました。

自己中心、空しさ、悪い行いが作品に現われてきました。

その罪人を神は神のものとする為にキリストを通して贖ってくださいました(原語:買い戻す)。

信じる者はキリストによって買い戻され救われ、再び神の宝となりました。

[2]私達はどのように神の宝物とされているでしょうか

神が私達を大事にされている証拠として

①神は私達一人一人を「名を呼んだ」とあります(1節)。

一人一人を大事にしておられるからです。

②「わたしのもの」とされています(1節)。

③「わたしはあなたとともにおり」とあります(2節)。

片時も私達一人一人と離れたくないと思っておられます。

[3]宝物とされた私達の生き方があります

それは「神の栄光のため」に生きる事です。

イエス・キリストを犠牲にしてまでも私達を自己中心な世界から買い戻してくださいました。

名前を呼んで私達一人一人を愛しておられます。

この事がわかりますと、神に喜ばれる生き方をしたいと思います。

それが、神の栄光のために生きる事です。

決して人目を引くような偉大な事をするのではありません。

あなたは神の宝物です。

親として子として、また社会の一員としてなすべきことを喜んでさせて頂きましょう。

何も出来なくても、その場に居る事を感謝しましょう。

神が喜んでくださいます。

あなたの存在が神の前に尊いものだからです。

あなたは土の器(2) イザヤ43:1~7

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」(7節)。

私達は土の器のように弱く壊れやすいものです。

たかが土の器、されどキリストを信じた私達は、素晴らしい存在です。

[1]測り知れない力が土の器の中に働いています(8~14節)。

たとえキリストを信じても「窮すること」「行き詰まること」があります。

しかし、キリストを宿している限り「行きづまること」はありません(8節)。

キリストが内にあって「私の恵みは十分」と語ってくださるからです(Ⅱコリント12:9、10)。

私達は、常に測り知れないキリストの力で生かされています。

[2]測り知れない力が土の器を通して他の人に及びます(10節)。

土の器にはいのちはありません。

しかし、内に居られるキリストのいのちが私達の周りの人々に及びます。

ピリピの町で投獄されたパウロの姿を通してキリストのいのちが、囚人や看守に及びました。

看守の家族が救われました(使徒16章)。

土の器である私達からキリストの香りが放たれます(Ⅱコリント2:15)。

私達は単なる土の器ではありません。

[3]土の器は変貌します(11~18節)

「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(16節)

この世に於いて私達は、「外なる人」である肉体と、

キリストを信じて生まれ変わった性質を持った「内なる人」を持っています(16節)。

外なる人は老化します。

朽ち果ててしまいます。

気力も記憶力も衰えます。

しかし内なる人はいよいよ信仰によって新しくされます(14節)。

しかも、その朽ち果てるような私達の体も変貌します。

私達の内におられるキリストは、死を破って復活された御方です。

その命によって私達の卑しい体も、キリストと同じ栄光の体に変えられます。
 
私達はイエス・キリストという宝を宿した素晴らしい存在です

あなたは土の器   Ⅱコリント4:7

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです
                      (Ⅱコリント4:7)

私達の内に居られるキリストは真の宝です。

私達は「土の器」です。

私達が土の器であることを考えて見ましょう。

[1]私達が神の前に遜るためです

この7節は、英訳では「私達はその宝を入れるに十分でない土の器である」と記されています。

土の器の材料は粘土ですが、人間は土以下の塵で造られました(創世記2:7)。

誇る所は何もありません。

欠けだらけの者です。

謙虚にこの事を認めましょう。

[2]私達は貧しいものであることを認めるべきです

ヨブ記は「私は裸で母の胎から出て来た。

また、裸でかしこに帰ろう」と言いました(ヨブ記1:21)。

つまり、土の器として生まれ、土の器として死んでいくものです。

マタイ20章にぶどう園の主人の言葉があります。

「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか」(15節)

園の主人が賃金のことで不平を言った労務者たちに語ったものです。

実は、このように言える人間はいません。

神のみが「自分のもの」があり「自分の思うように」出来るお方です。

しかし、イエス・キリストは神でありながら、自分のものを捨て、いのちまで取られました。

自分の思うようにではなく、父なる神の御心に従い、十字架に架かられました。

私達のために貧しくなられたのです。

私達貧しいものを豊かにするのはキリストです。

[3]私達は壊れやすいものであることを認めるべきです

以前広告に「固いものと固いものがぶつかると壊れる。

だからやさしくなろう」というメッセージがありました。

ゴリアテに勝利したダビデも、ナバルの冷たい言葉にぶつかり壊れそうになりました(Ⅰサムエル25章)。

[4]何よりも、私達は救われた罪人に過ぎないことを認めるべきです

土の器・・・それはキリストが入って下さらなかったら、中身が無いままの空しい器です。

つまり罪人です。

キリストが入ってこそ真の器の価値が出てきます。

ダビデは羊飼いであるキリストを内に持っていました。

こんな私達の内に来られた主をダビデのように賛美しましょう。

主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々にいたる」(詩篇100:5)。
プロフィール

sawakei1

Author:sawakei1
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR