あなたは管理人(1) ルカ12:41~48

キリストは「忠実な賢い管理人」について語られました(42節)。

管理人とは、他人の財産を引き受けて、財産の保存と利用をはかる事です。

神に創造された人間は、健康を始め、賜物や才能など様々な財産を神から受けています。

さらに、私達は神の恵みにより、信仰によって救われた者です。

その結果、神の財産の「忠実な賢い管理人」となることができます。

[1]忠実な管理人の目指す姿があります(43~44節)。

管理を任された神に見られて喜ばれる者となることです。

自分に与えられたものを用いて神の栄光を表す作品となることです。

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:10)。

[2]忠実な賢い管理人となるためには?(42節)。

まず自分自身を正しく管理することです。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。

いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)。

内側をきよめて頂く事です(マルコ7:21~23)。

み言葉に照らされて生きる事です。

「まず自分の目から梁を取りのけなさい。

そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:5)。

み言葉に従って生きる事です。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)。

[3]不忠実な管理人となる誘惑があります(45~48節)。

豊作で豊かな財産を手にしたとたんに、堕落した愚かな人の譬えがあります(ルカ12:20)。

財産を預けて再び来られるキリストに目を向けるべきです。

与えられた賜物や才能の大小にかかわらず、忠実な幸いな管理人とさせていただきましょう。

それぞれが賜物を受けているのですから

神のさまざまな恵みの良い管理者として

その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(Ⅰペテロ4:10)。
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全き者であれ   ルカ15:11~24

私達は、たとえ救われても弱さや欠点、過ちがあります。

不完全な者です。

その私達に聖書は「全き者であれ」と言います(創世記17:1)。

私達は神との関係において完全な者となれます。

[1]私は絶対に父に愛されているという関係です(20~23節)

放蕩して帰って来た息子を父は抱きしめました。

息子は初めて父の愛を知りました。

無条件で愛してくれる愛です。

愛される価値の無いものを愛する愛です。

この愛は、神しかもっていない全き愛です(Ⅰヨハネ4:18)。

その愛によって神と私達との関係は完全なものとなります。

[2]私は愛をもって父に仕えていきたいという関係です

かつての息子は、父の財産が宝でした。

自分の満足が生きがいでした。

しかし、全き愛を知った息子は変わります。

無条件で愛した父に無条件で仕えて行きたいと思います。

独り子さえも惜しまず与えてくださった主に、私達は喜んで仕えていけます。

全き人となれます。

行為に於いては不完全でも、心を尽くし、思いを尽くして神と人に仕えることができます(マタイ22:37~39)。

[3]私は父を悲しませたくないとう関係です

父の愛を知った息子は変わります。

父を悲しませる罪を犯したくないという思いを持ちます。

私達は、キリストを信じても罪のない天使のように完全な人間にはなれません。

しかし、キリストを信じて赦された私達は変わります。

罪を離れ、罪を憎む性質がキリストによって与えられます。

キリストによって罪から聖められる恵みが与えられます(Ⅰヨハネ1:7~9)。

[4]私は父のようになりたいという関係です

息子は、父と共に生きていきたいと思うようになります。

そして、日々父との交わりの中で息子は変えられます。

父の品性に引かれるようになります。

私達も、主との交わりの中、あるいは試練を通して変わります。

「キリストの満ち満ちた身たけにまで」変えられます(エペソ4:12~13)。

聖書のみ言葉を信じましょう。

「あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」

(ヤコブ1:4)

囲まれる恵み  Ⅱ列王6:15~20

  イスラエルの民は荒野を火の柱と雲の柱に導かれて進みました。

柱が進むとき出発し、とどまる時待ちました。

信じる者には進むのも恵み、待つのも恵みです。

さらに、私達には囲まれる恵みがあります。

[1]私達はあらゆる敵に囲まれています(15節)。

イスラエルはアラムの戦車と軍隊に囲まれました。

私達も自然災害は勿論、病や人間関係など様々な問題に囲まれています。

エリシャの弟子はアラムの軍隊に目を奪われました。

そして、それ以上の大いなる御方である神を見失っていました(17節)。

この弟子とは逆に、敵が見えない事もあります。

これは、もっと危険です。

幸せな人生を狂わせる悪魔の誘惑があるからです。

[2]敵に囲まれた私達を主は囲んでおられます(17節)。

神の戦車が「エリシャを取り巻いて」いたとあります。

彼は、アラムの大軍よりも全能の神を信じる者でした。

「主の目は正しいものに向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる」とあります(詩篇34:15)。

神の前に正しい者とは、自らの罪を認め救い主キリストを信じる者です。

私達は弱い者です。

不完全な者です。

主に囲まれなければ進めない者です。

しかし、信じる時に主が味方してくださいます(ローマ8:31)。

そして、私達は前進できます。

[3]主はどのように私達を囲んでおられるのでしょうか(17節)。

神の軍隊は「山に満ちていた」とあります。

想定外の方法で囲まれます。

つまり「願うところ、思うところの全てを超えて」私達を守られます(エペソ3:20)。

[4]主に囲まれている者の恵みがあります

結局アラムは目が見えなくなりました。

エリシャに導かれてイスラエルの首都サマリヤのど真ん中に連れて来られました。

形勢が逆転しました。

アラムが敵に囲まれてしまったのです。

主を信じ、主に囲まれた者は完全に勝利することができるという事です。

 私達を囲んでおられるお方に目を向けましょう。

恐れるな

私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」(16節)

待つ恵み   詩篇25:1~15

イスラエルの民は、雲の柱と火の柱によって荒野を移動したことを前回読みました。

彼らはこれらの柱によって進み、そして柱が動かない時は待たされました。

進む事も待つ事も必要です。

そして神の民である私達にとって、どちらも恵みの時です。

[1]世の中の「待つ」とは・・・

進歩も前進も無い時です。

渋滞に会った時のように、イライラします。

待つ以外に何も出来ない事です。

また宝くじの幸運をあてもなく期待する事です。

[2]キリストを信じた者にとって「待つ」とは・・・

希望と期待の時です(1~3節)。

1節にある「仰いでいます」は「イライラ」の反対です。

前回読んだⅠペテロ1:13を考えましょう。

「イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」

クリスチャンの「待つ」は「ひたすら」になれる待つです。

「ひたすら」のギリシャ語には「完全」という意味があります。

完全に信頼できる神が居られます。

ですから私達もひたすらになれます。

本気で神に期待して待つことができます。

主を思う時です(4~7節)。

この数節に「あなた」や「主よ」という呼びかけがあります。

「待つ」時間のおかげで「主よ」と叫ぶ機会が与えられるのです。

悔い改めの時です(8~11節)。

8節に「罪人に道を教えられる」とあります。

私達が静まって神の前に出る時、自らの姿を教えられます。

訓練の時です(12~15節)。

15節に「主がわたしの足を網から引き出してくださる」とあります。

試練を通して、からまっている問題や葛藤から引き上げられることがあります。

その経験が力となります。

ヨナは、からみついた海藻を自分でほどきませんでした。

いたずらに苦しみもがきませんでした。

彼は祈り叫びました(ヨナ書2:2)。

そして解放されました。

彼にとって、これは善き訓練となりました。

待たされことも恵みです

「あなたの道を主にゆだねよ。

主に信頼せよ。

主が成し遂げてくださる・・・ 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。」

(詩篇37:5、7)
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