想定外なこと   ルカ12:1~15

仕事や健康がなければ生きていけない・・・これは世の中では信じられている事です。

お酒が飲めなくなったという事で絶望する人もいます。  

キリストを信じているとどうでしょうか?

「あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」(Ⅰペテロ1:13)

キリストが再び来られる事が私達の唯一の望みです。

そのためルカ12章35~40節では以下のことが述べられています。

[1]備える事です

「腰に帯を締め」とあります(35節)。

何か活動する時に、長服を着ていたら帯を締めて準備が必要です。

キリストを迎える準備が大切です。

また、目を覚ましている事が大切です(37節)。

この世のことに夢中になるのではなく、キリストに目を向けるという事です。

[2]このように備えていると想定外のことが起こります

「主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓にに着かせて、そばにいて給仕をしてくれます」(37節)。

つまり、逆のことがおこなわれるのです。

キリストが私達をもてなしてくださるのです。

すでにキリストは仕えるためにこの世に来られました。

私達罪人のために贖いの代価としてご自分のいのちを与えてくださいました(マタイ20:28 ヨハネ4:10)。

天国ではさらに大きな恵みがキリストによってもたらされます。

[3]用心することです

「用心していなさい」(40節)。

つまり油断してはいけないということです。

油断していると、まさかという想定外の事がおこります。

泥棒が入る事もあります。

しかし、用心しているならば想定外の事は起こりません。

キリストも思いがけない時に来られます。

用心して目を覚まして愛する主をお迎えしましょう。

そして、喜んで主にお仕えしましょう。
スポンサーサイト

荒野の恵み  出エジプト記13:17~22

モーセがアマレクと戦う前の出来事です。

イスラエルはエジプトを脱出しました。

カナンの地に向かうためです。

その道として、神は近道ではなく、荒野の道を行くようにされました(17節)。

信仰生活にも近道があります。

それは十字架を負わないで自分が楽する道です。

しかし、この近道には思わぬ敵が隠れています。

「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39)。

信仰生活は荒野を通らなければならない時があります。

そこは、人間的な満足が得られない所です。

不平やつぶやきが出てきそうな場所です。

しかし従って行く時に、荒野には神しか与えることの出来ない恵みがあります。

[1]昼は雲の柱、夜は火の柱がありました(21節)

どちらも見えやすいものです。

私達が迷うような時にも、人々の証しが励ましとなります。

何よりも、キリストの姿が見えます。

キリストは世に勝ってくださいました。

死に勝ってよみがえられました。

天において私達のために執成しておられます。

そのお姿を思う時、私達は苦難の中を御国へと進んで行けます。

[2]神がイスラエルの前を進まれました(21節)。

確かに荒野は彼らにとって初めての道でした。

しかし、神が先頭に進んでおられました。

私達の歩む道も、すでにキリストが踏み固められた道です。

安心して進みましょう。

[3]昼も夜も進んで行ける恵みがある(21節)。

昼は順境とも言えます。

夜は逆境の道です。

キリストにより頼む限りそれらの道に差はありません。

「どんな境遇にあっても満ち足りる」ことを体験する道です(ピリピ4:11)。

[4]雲の柱、火の柱はイスラエルから離れませんでした(22節)。

この「距離」は、つかず離れずの距離です。

神について行こうとの思いをイスラエルに与える距離です。

弟子たちは、キリストの祈っている姿を通して祈りたいと思いました(ルカ11:1)。

私達にも、キリストのようになりたいとの思いが与えられます。  

私達の主は、私達の先頭を進んでおられます

今日も、御国に向かって進みましょう

祈らせてくださる神(2) 出エジプト記17:8~16

イスラエルがエジプトを脱出して最初に遭遇した外敵は、アマレク人でした(8節)。

この戦いには私達の信仰生活の秘訣があります。

[1]モーセは丘に登り、祈る決心をしました(9節)。

モーセは後輩のヨシュアに戦いの現場は任せました。

そして、彼は「神の杖」を持って祈るために丘に登りました。

これは勇気ある決断です。

杖は、数々の奇跡を起こした全能の神を思い起こすためです。

人々に神の恵みを示しつつ、彼は祈りに専念しました。

私達のあらゆる戦いのために祈りは不可欠です。

[2]ヨシュアは従いました(10節)。

このような戦いを経験した事のなかったヨシュアでした。

しかし、モーセの祈りに支えられて、彼は「剣の刃で打ち破った」とあります(13節)。

彼は自分の剣で敵を破りました。

生涯の貴重な体験となりました。

信仰生活もこの訓練の連続です。

戦うたびに私達は訓練され、力を増していきます。

[3]戦いの現実があります(11~12節)。

それは、①祈りの手が上がる時に勝利があるという事です。

②高く挙げていたモーセの手が重くなったという事です。

祈りの手が下がる時があります。

心は燃えても肉体や気力の弱さがあります(マタイ26:41)。

③そのような時に、共に祈り合う事ができます。

アロンとフルがモーセの手を支えました。

私達は一人では信仰生活を送ることはできません。

共に礼拝し、共に祈り合うことで進んで行けます。

[4]私達の戦いは悪魔との戦いです(13~16節)。

イスラエルを悩ましたアマレクは、その後も彼らを悩ましました。

今も私達に挑み、誘惑を仕掛けてくる敵がいます。

それが悪魔です。

神はその悪魔の働きを許しておられます。

同時に、私達にみ言葉という剣と祈りの手をl武器として与えておられます。

それによって、私達に勝利を体験させるためです。

共に御霊によって祈りましょう。

神に従いなさい

そして、悪魔に立ち向かいなさい

そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

祈らせてくださる神   申命記31:1~6

私達を祈らせてくださる神は、どのような御方でしょうか?
[1]神は厳しく愛されます(1~2節)
モーセは、イスラエルをエジプトから約束の地、カナンの地に向かって導いた指導者です。

その彼が、約束の地には渡って行けないと言っています。

理由は、彼の失敗です(民数記20章)。

荒野で水を求める民に神は「岩に命じれば、岩は水を出す」と彼に言いました。

彼は岩を杖で「岩を二度打った」とあります。

岩から水が出ました。

しかし、「命じる」のではなく「打った」彼を神は咎めました。

民はあたかもモーセが水を出したように感じたことと思われます。

厳しいようですが、神は指導者モーセの不信仰、不従順を厳しく示されました。

神の前に整えられた聖徒とする為です。

神は厳しく、そして愛をもって私達を正されます。

「わたしはあなたがたを聖なる者とする主である。」(レビ記20:8)。

[2]神は憐れんでくださいます(3節)

モーセは120才になってもイスラエルの民を教え、励ます気力の持ち主でした。

しかし、体力的には限界を覚えていました。

そこで神はヨシュアを後継者として備えておられました。

私達の弱さを思いやることの出来る神が共におられます(ヘブル4:15~16)

[3]神は先頭に立たれます(3節)

私達の前には大牧者であるキリストがおられます。

[4]神は見捨てないお方です(6節)。

キリストは私達の先頭を行かれますが、私達の歩調に合わせてくださいます。

罪人呼ばわりされていたザアカイの家に一泊されてまで、彼に語ってくださいました。

十字架に架けられた強盗の苦しみに寄り添ってくださいました。

あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ

主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(6節)。

 この愛と憐れみに満ちた神の存在が私達を祈らせます。

信仰のハンドル  黙示録21:1~7

信仰生活と車の運転は似たところがあります。

アクセルを踏むと重い車が動きます。

信仰のアクセルによって偉大な神の御手が動きます。

車のハンドル操作で車の向きが変わります。

信仰のハンドルで私達の生きる向きが決まります。

車のアクセルは控えめが良いです。

信仰のアクセルは思いきり踏み続けましょう。

 車のハンドルは前を見て。信仰のハンドルは上を見ることです。

つまり、この世にありながら天国を見てどのように生きるべきかハンドル操作が必要です。

[1]天国の素晴らしさを私達は「見る」ことができます(1~2節)。

ヨハネはこの1~2節で2回「見た」と証言しています。

生れつきの人間には見えません。

しかしヨハネだけでなく、救われて罪を赦された者には神の霊を持って天国を見る特権があります。

[2]天国は神と人が共に住むところです(3節)。

罪を持ったままでは、神の前に出ることは恐ろしい事です。

しかし、神の民とされ、この世で神の臨在を楽しんで来た者にとってこれは素晴らしい所です。

この世で礼拝を奉げて来た者にとって貴重な場所です。

[3]天国には涙も死も、苦しみもありません(4~5節)。

2節に「新しい」とありました。

ギリシャ語では2つの「新しい」があります。

時間的に時代的に新しいということと、内容が新鮮と言う意味の言葉です。

天国は、この世と全く違う、中身が全く新しくされた国です。

ですから、死も苦しみもありません。

[4]天国は全ての聖書の言葉が成就したところです(6節)。

聖書は、天地創造に始まります。

人間の罪の歴史です。

イスラエルの歴史です。

キリストが来られた記録です。

これらすべてが御国の完成に向かって記されました。

[5]天国は勝利者の集まりです(7節)。

私達はキリストを信じることによってこの世から救われました。

信じ続けることによって勝利者となれます。

聖書と言うマニュアルに従って、天国へのハンドルを握りましょう。
プロフィール

sawakei1

Author:sawakei1
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR