何はともあれ  ルカ12:31~34

何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい」(31節)。

「何はともあれ」とは、何がどうあっても、全てに優先して・・という意味です。

そして「求めなさい」は、私達の生きる目標となるようなものを切に求める姿を示しています。

それほどまでに私達を引き付けるものは「神の国」です。

なぜなら「あなたがた」とキリストに呼び掛けられている私達は生まれ変わっているからです。

「神の子どもとされる特権」を頂いているからです。

「神の国」は、やがて私達が召されて行く所と言う意味だけではありません。

神の国はキリストが支配される神の王国です。

この世に於いて、愛に満ちた神のご支配の中にいる人は天国を味わう事ができます。

喜んで神のご支配に身を委ねましょう。

神のみ旨に従って自分の生活を律することを学びましょう。

それが、神の国を求める人の姿です。

あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」(32節)。

父なる神が喜んでくださるのですから、何はともあれ、御国を求めましょう。

それは「狭い門」から入ることです。

「 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイ7:13~14)。

朽ちることのない宝を天に積み上げなさい」(33節)。

私達に与えられている財産は、私達の所有物ではありません。

神が私達に管理を任されたものです。

財産だけでなく、この世の全ては主のものです(詩篇24:1)。

自分に与えられているものを神のみ旨に従ってふさわしく用いましょう。

それは、宝を天に積むことになります。

その宝のある神の国に心を向けましょう(34節)。

この世の患難の中で、何はともあれ、神の国を求めましょう。

ですから、私たちは勇気を失いません

たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(Ⅱコリント4:16~17)
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信仰のアクセル  ヨシュア記6:1~20

信仰生活は、車の運転と同じです。

サイドブレーキ(障害となっているもの)を外します。

そして、アクセルを踏んで前進します(ピリピ3:13)。

私達が車を動かすのではありません。

アクセルをちょっと踏むだけで、エンジンが車を動かしてくれます。

信仰のアクセルを踏むと、人間には出来ないことが起こります。

イスラエルの民は、そのアクセルで城壁で堅く守られたエリコを陥落することができました。

[1]信仰の決心というアクセルを踏みましょう(1~7節)。

イスラエルは、ヨシュアを通して語られた神の言葉を受け入れました。

これがエリコ陥落の最初のアクセルでした。

キリストの呼びかけに「主よ」という応答でサウロは救われました。

クリスチャンとして動き出しました(使徒9章)。

信仰を決心さえすれば、聖霊が私達を動かしてくださいます。

[2]従いというアクセルを踏みましょう(8~16節)

車のアクセルは、控えめが良いです。

しかし、信仰のアクセルは大胆に踏みっ放しにしましょう。

主が働いてくださいます(Ⅱ歴代16:9)。

閉ざされた城壁を前に、イスラエルの人々に求められた従いは、黙ることと叫ぶ事でした。

6日間は黙ってエリコを一度回る事です。

このような城壁のある町を攻めることは、彼らにとって初めての体験でした。

武器はなく、ただ毎日一度回るだけです。

彼らはひたすら信じて従いました。

そして、7日目には、祭司の角笛に合わせて叫びました。

愚かな事のようですが、結局その信仰によってエリコの城壁は崩れました(20節)。

見える所によらずに、従いのアクセルを踏み続けてください!

[3]アクセルを踏む前の恵みがあります

既に斥候が遣わされました(2章)。

彼らによって城壁の中にいるエリコの民は「震えおののいている」事が知らされていました(2:24)。

さらに、神は「わたしはエリコとその王、および勇士たちをあなたの手に渡した」と宣言されました。

神は、やがてイスラエルが獲得する勝利を完了形(「渡した」)という形で彼らに示しておられました(2節)。

イスラエルの民は、安心して信仰と従いのアクセルを踏めたはずです。

主は私達の遭遇するあらゆる問題の解決者です

私達がアクセルを踏んで、踏み続けることを期待しておられます

命よりも大切なもの  ヨハネ3:16

いのちが一番大切だと思っていたころ

生きるのが苦しかった。 

いのちより 大切なものがあると知った日 

生きているのが嬉しかった。」 

絵や詩を書くことで有名な星野富弘さんの言葉です。

人間は、まず命、健康、そしてお金、仕事・・と続きます。

そして、困った時に最後に「神様!」がでてきます。

しかし・・・

[1]今日の聖句はまず「神は」で始まります

旧約聖書の最初の聖句も「初めに、神が天と地を創造した」で始まります。

この世の存在、そして人間の歴史の出発も神です。

私達の人生の試練の時にまず神を覚えましょう。

主の慰めがあります。

嬉しい時にも、まず神に感謝しましょう。

もっと豊かな人生が味わえます。

神を第一に持ってきますと、神が責任をもって、あなたを支えてくださいます。

神はいのちを与え、守り、導いて下さる御方です。

[2]その神は何をされたでしょうか

「そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」とあります。

神を離れてしまった人間・・聖書では、これを「罪人」と呼びます。

罪人にとって、神は縁遠い存在です。

恐ろしい御方です。

しかし、ひとり子であるキリストが、人の姿で来られました。

十字架に架かられて、私達の罪を負われました。

神と交わる事のできる道となられました(ヨハネ14:6)。

[3]では私達は何をすべきでしょうか?

「御子を信じる者が・・」とあります。

そのキリストに信頼し、私達のすべての問題をお委ねすることです。

[4]信じたらどうなるでしょうか

「ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」とあります。

この「いのち」は「命」とは違います。

星野さんを生まれ変わらせて、神との交わりの中で生かすいのちです。

人々に喜びと感動を与えながら歩ませるいのちです。

イエス・キリストは、「命」よりも大切な「いのち」を与えるために来てくださいました

主よ あなたはどたなですか    使徒9:1~8

もし聖書を知らない人が、神なんかいないと思い込んでいたら、その人は愚かです。   

サウロ(パウロ)もかつてそのような人でした。

彼はキリストを信じている人々を処刑したいとのもくろみでダマスコに向かっていました(2節)。

そのサウロにキリストが語り掛けました。

「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と。

その時彼は「主よ あなたはどなたですか」と言いました。

彼自身「どなたか」知らない人を信じているクリスチャンを処刑したいと思っていたのです。

これは愚かなことです。

キリストを知らないという事とはどのような事でしょうか

①自分を知らないということです。

サウロは宗教に熱心に生きている人でした。

しかし、自らが罪を犯すような罪人であることを知りませんでした。

世の中では罪を犯した人を罪人とします。

しかし、聖書は罪人だから人は罪を犯すのだと言います。

②回りが見えないということになります。

おそらく当時のクリスチャン達は、サウロのように自分達を迫害する人のためにも祈っていたことでしょう。

そのような人々を処刑したいと彼は思っていました。 

彼は、自分の回りを何か色眼鏡で見ておりました。

③自分を命がけで愛しておられる神を知らないという事です。

彼は、「目が開いていても何も見えなかった」とあります(8節)。

キリストは十字架にかかり、罪を赦し、誰よりも私達を愛しておられます。

この御方を知らない人生は暗闇です。 

パウロの目が開けられました

キリストの光に打たれたサウロは、一時目が見えなくなりました(9節)。

しかし、アナニヤのとりなしで見えるようになました。

そして洗礼を受け、クリスチャンとして生まれ変わりました。

霊の目が開かれたのです。

さらに、今度は自分が迫害を受けながら「イエスは神の子である」と伝道を始めました(20節)。

 イエス・キリストは偉大な神です。

サウロのような人をも生まれ変わらせることの出来る神です。

愚かな言葉のようですが、結局彼の「主よ あなたは・」で彼は救われたのです。

なぜなら、キリストの呼びかけに彼は答えたからです。

これが彼の救いの出発となる信仰でした。

その単純な信仰で神は人を救います。

あなたの人生を暗やみから光へと造り変えます。

 キリストに問いかけましょう。

主よ。あなたはどなたですか
              
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