新たな出発  哀歌3:22~24

先週のメッセージの続きです。

エリシャはエリヤと別れて再びヨルダン川を渡って任地であるイスラエルに入りました。

新しい出発をしました。

その為に彼はブレーキとなるものを捨てました(Ⅱ列王2章)。

私達も毎日、新しい出発をしています。

その為に、私達の過去がブレーキとなる事があります。

これは捨てるべきです。

①過去の親しみから来る人や物に対する情

神との交わりを害するような親しい人に対する情が、健全な歩みのブレーキになる恐れがあります。

エリシャは付き添ってきたエリシャとの情を断ってヨルダン川を渡りました。

アブラハムはひとり子であるイサクを奉げるように神に求められました(創世記22章)。

②過去に体験したことが無いという心配。

こんな大きな試練は今まで無かったという時の心配です。

そんな時にみ言葉を思い出してください。

「何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく・・」(Ⅰペテロ4:12)。

③過去の失敗

モーセは、イスラエルを救うという熱い思いはありましたが失敗しました(出エジプト記2章)。

40年後、神は彼をエジプトに遣わそうとされました。

しかし、彼にブレーキがかかりました。

過去の失敗が「私はいったい何者なのでしょう」という思いになったからです(出エジプト記3:11)。

④過去の栄光

エリヤは、カルメル山で主のために用いられました。

しかし、アハブ王の妃イゼベルの言葉によって逃げ出しました。

その彼に神は再出発を促しました。

しかし、「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました」と彼は反発します(Ⅰ列王19:10)。

主に用いられたのに今は駄目・・

昔は良かったのに・・・

これらの過去の栄光がブレーキとなる可能性があります。

⑤過去の罪

最大のブレーキは、過去の罪です。

ペテロはキリストを3度も否むという罪を犯しました。

しかし、キリストの憐れみと赦しを信じて立ち上がりました(Ⅰペテロ2:24)。

日々新しい主の恵みを信じて進みましょう。

私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる

主の憐れみは尽きないからだ

それは朝ごとに新しい。」(哀歌3:22~23)
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エリシャに学ぶ   Ⅱ列王2:6~14

 イスラエルが不信仰な時代に預言者として遣わされたのがエリヤでした。

彼はカルメル山でバアルの預言者たちを集めました。

そして天から火を下す祈りをささげたことで有名です(Ⅰ列王18章)。

その預言者エリヤの後継者として召されたのがエリシャです。

神はエリヤを天に上げられました(11節)。

弟子のエリシャは恩師と別れなければなりませんでした。

この別れの際にエリシャから学ぶ事があります。

[1]エリシャが求めなかったものがあります

否、求めたくても求めなかったものです。

エリヤは、別れの最後にエリシャに「あなたのために何をしようか・・求めなさい」と言いました(9節)。

エリシャはずっと自分の先生であるエリヤと一緒でした。

離れられない関係にありました(6節)。

その彼は、いつまでもエリヤと一緒に居たかったと思います。

しかし、それを求めませんでした。

また、エリヤが奇跡を起こした由緒ある外套をも求めませんでした(8節)。

エリシャが求めたのは、エリヤ先生でもエリヤの持っている物でもありませんでした。

[2]エリシャが求めたものがあります

エリシャは、エリヤを活かしている聖霊を求めました(9節)。

エリヤのような偉大な神の器を見て、自分を卑下しませんでした。

むしろエリヤのように神の栄光を現す人になりたいと思いました。

否、なれると思いました。

そのためにエリヤをエリヤのようにしている聖霊を求めたのです。

[3]エリシャはヨルダンを渡りました

エリヤが天に昇って行くのを見てエリシャは「わが父よ」と叫びました。

衣を裂いて悲しみました(12節)。

しかし、彼はその情を断ち切りました。

神の器にも情があります。

しかし、これを断ち切ることも必要です。

そして、彼はエリヤ先生と共に先ほど渡ったヨルダンを再び渡りました。

彼の働きの場へと進みました。

不信仰なイスラエルの民の所へ。

エリシャにとってどこまでも大切なものは、エリヤの内に有る聖霊、エリヤを用いられる聖霊でした。

聖霊は情があり、弱さのある人間を働き場に遣わされます。

その聖霊が信じるあなたの内にもおられます。

あなたをキリストの証人としてくださいます(使徒1:8)。

助け主聖霊  ヨハネ16:7~13

わたしが父のもとから遣わす助け主

すなわち父から出る真理の御霊が来るとき

その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26)

この聖句に神が3つの人格で表されています。

「父」「御霊」そして「わたし」つまりイエス・キリストです。

聖霊(御霊)は、父なる神がイエス・キリストを信じる者に注いでくださった助け主です。

聖霊は、私達の誤りを教え、導き信仰生活を助けてくださいます(8節)。

[1]罪についての誤りを教えます(9節)。

罪とは、警察に捕まるような犯罪だけではありません。

人間の奥底に潜む罪の原点は、神に無関心であり、キリストを「信じない」という罪です。

ここから人間は自己中心となり、罪を犯します。

[2]義についての誤りを教えます(10節)。

神の前に正しく生きようとしても、人間には不可能です。

聖書はキリストだけを義とします。

ですから、十字架に架けられ、死んでよみがえり、父なる神のもとに行かれました。

さらに、驚くべき義の世界が広がりました。

何とキリストを信じる私達罪人が神に義とされるのです(ローマ5:8~9)。

[3]審きについての誤り(11節)。

自分は神に裁かれる者だ・・・

それはある一面真実ですが、キリストの救いを受けずにそのように信じている人は誤りです。

自分は神に裁かれるような者ではない・・それも誤りです。

この世を支配し、私達を神に訴えているサタンが裁かれました。

彼の武器である病も死も、恐れも信じる者には通用しません。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)。

真理の御霊は、神から遣わされたあなたの助け主です。

やめなさい!  ルカ12:22~31

行なう事よりも、止める方が難しい事があります。

キリストは「心配するのはやめなさい」と言われました(22節)。

この「心配」というギリシャ語は「メリムナ」です。

これには2重の意味があります。

一つは、正しい心配です。

例えば相手の事を思い、配慮して祈りに導かれる正しい心配です(ピリピ2:20)。

もう一つは誤った心配です。

これは、心配すればするほど心配や思い煩いに陥る心配です(25節)。

次のような時に生じるものです。

この世の事柄に余りにもまぎれ込んでいる時(22節、ルカ8:14)。

地上のことに思いと心遣いを持ちすぎる時。

人の事に関わり、それに捕われている時。

本質的に大切ではない事に精力を浪費している時。

マルタはこの心遣いで心を乱してしまいました(ルカ10:41)。

神よりも人を喜ばせようとしている時など。

このような誤った心配に処する方法があります。

[1]自分が心配しても何の実も生じないことを認める事です

「あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。」(25~26節)。

[2]神が心配しておられる事を認める事です

「しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。

ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。」(28節)。

[3]神に委ねる事です

「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。

そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」(31節)。


あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい

神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

(Ⅰペテロ5:7)

シロアムの奇跡  ヨハネ9:1~38

今日の聖書の記事はシロアムの池で行われた癒しの奇跡です。

この記事の中に様々なやりとりや会話が出てきます。

1~7節

弟子たちは生まれつきの盲人を見ました。

そしてキリストに質問します。

「彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか」と。

キリストは彼らにこの人が罪を犯したのでもなく、両親でもありませんと言われました。

そして「神のわざがこの人に現われるためです」と答えられました。

さらに盲人にシロアムの池に行って目を洗うように命じました。

そのみ言葉に従った彼の目が見えるようになるという奇跡が起こりました(7節)。

14~33節

キリストの行った奇跡に対して、パリサイ人と盲人だった男性との間に議論が生じました。

パリサイ人は、安息日を破ってこのような奇跡を行なったイエスを罪人とします。

男性は、目を開けるような人は「神から出ておられる」人と主張します(33節)。

結局、男性はユダヤ人の交わりから追い出されました。

35~38節

追い出された男性にキリストは近づかれました。

そして「あなたは人の子(救い主)を信じますか」と語り掛けました。

彼は、自分の目を開けてくださった方をはっきりと信じていませんでした。

ですから「その方はどなたでしょうか」と質問します。

その彼にキリストは「あなたと話しているのがそれです」と答えられました。

彼はそのキリストを信じて礼拝しました(38節)

これらのことからわかることがあります 

最初のキリストと弟子たちとの会話によって、弟子たちは神のなさることに対して目が開かれました。

第2番目のパリサイ人と男性とのやり取りを通して、パリサイ人達は霊的盲人であることが分かります(41節)。

見える目があってもキリストがわからないからです。

第3のキリストと男性との会話で、目が見えるようになった男性は、さらに霊的に目が開かれたことが分かります。

あなたにとってキリストとは何でしょうか?

真に見える人となってください。
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