マナに養われて  出エジプト記16:11~21

ペテロは、夜通し網を下しても何一つ取れませんでした。

しかし、彼はキリストの言葉通りに網を下しました。

そして驚くべき結果を体験した事を先週読みました(ルカ5章)。

み言葉は、信じる者に驚くべき結果をもたらすものです。

さらに「み言葉」について出エジプト記16章から考えましょう。

[1]み言葉は、私達を養う豊かな食物です(14~15節)。

イスラエルの民は荒野で神の与えるマナを食べて養われました(出エジプト16:15)。

否、マナが無ければ生きていけませんでした。

私達にも、試練のあるこの世の荒野ではマナというみ言葉が必要です。

パンだけでは不十分です(マタイ4:4)。

そのマナは蜜のような味でした(31節)。

彼らがやがて入ろうとしていた地は「乳と蜜の流れる地」です。

ですから、マナはカナンでの生活を思わせるような味だったとも言えます(3:8)。

み言葉を信じて生きる者にとって、神のみ言葉はマナです。

この世の試練の中でも、御国を思わせるような蜜のような幸いな味を体験させます。

[2]み言葉は、自分のものにすべきものです(16~18節)。

イスラエルの民は、荒野で「各自」マナを集めました。

聖書を自分で読みましょう。

自分に語られている聖書のメッセージに耳を傾けましょう。

そして、自分の糧としましょう。

日常生活の困難と闘う自分の武器としましょう。

[3]み言葉は、毎日読むものです(19~21節)。

神は、イスラエルの民に毎朝マナを与えました。

安息日以外は、翌日まで保存できませんでした。

日々み言葉を読み、日々養われる者となります様に。

[4]み言葉は「これは何だろう」というものです(15節)。

イスラエルの民にとってマナは見たことのない不思議なものでした。

彼らは荒野に初めてこの食物を見て「これは何だろう」と言いました(15節)。

ペテロにとって、魚のいないはずの湖に網を下すというキリストのみ言葉は不可解なものでした。

しかし、従いました。  

み言葉を祈って読みましょう。そして従いましょう。

あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる」(12節)。 

神の与える蜜の味が分かってきます。
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何一つとれませんでした  ルカ5:1~11

ガリラヤ湖(ゲネサレ湖)は鹿児島で言えば桜島以北の鹿児島湾の程の大きさです。

そして、この湖を舞台にキリストは奇跡を行ない、み言葉を語られました。

今日の聖書の個所にある様に、ペテロが召しを受け、再献身した場所でもあります(ヨハネ21章)。

キリストはみ言葉を人々に語られました。

その後に、ペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました(4節)。

これに対してペテロは、「夜通し働きましたが、何一つとれませんでした」と言います(5節)。

[1]「何一つとれませんでした」・・

これはペテロにとって絶対変えることの出来ない過去(前の夜)の事実です。

もう、今から網を下しても魚は取れない事を漁師であるペテロは知っていました。

収入ゼロの一日が始まりました。

事実ほど強いもの、こわいものはありません。

過去の事実が明るみに出た為に、思いがけず人生の狂いが生じることもあります。

しかし・・・

[2]事実は変わりませんが、本人の信仰によって結果は変わります

収入ゼロの一日が変わりました。

彼にとって、思いがけない一日が始まりました。

「おことばどおり、網をおろしてみましょう」その小さな信仰の一歩によって大きな結果が生まれました。

①奇跡的な大漁(6~7節)。

②キリストに真に触れる体験(8節)。

③キリストに従う輝かしい人生の出発(10~11節)。

[3]このような大きな結果をペテロが体験できた原因は何でしょうか

それは、ペテロが御言葉を聞いていたということです。

群衆は「押迫るように」キリストの語るみことばを聞いていました(1節)。

その時、ペテロも聞いていたと思われます。

ペテロの船からキリストはみことばを語られました(3節)。

ペテロはキリストに一番近い場所でみことばを聞く恵にあずかっていたのです。

み言葉が彼に信仰を起させたのです。

信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)


みことばを聞きましょう。

そして従いましょう。

思わぬ結果が待っています!

見よ。あなたの神を  イザヤ40:27~31

知らないという事は恐ろしいことです。

ある人がパトカーをタクシーと思って止めたそうです。

テーブルの上にあるおしぼりをバナナと思って口に入れたという話をききました。

この程度なら笑い話で済まされますが、神を知らないという事は悲劇です。

ヤコブは苦しみの中でつぶやきました。

「私の道は主に隠れている」

「私の正しい訴えは神に見過ごしにされている」(27節)。

自分がこんなに苦しんでいるのに、神は見ておられない。

私の本来の権利が無視されている・・などと。

その嘆きの原因は、私達を見ておられる神を知らないという愚かさです。

そのヤコブ、つまり私達に対して神は語っておられます。

「あなたは私を知らないのか」と(28節)。

神は私達の罪を償われた御方です(2節)。

「償う」とは埋め合わせるという意味です。

私達は犯した罪に対しては全く何も出来ない者です(詩篇49:8)。

しかし、キリストはご自分のいのちを差し出してまでも私達の罪の埋め合わせをしてくださいました(Ⅰペテロ2:24)。

神は「永遠の神、地の果てまで創造された方・・

疲れることなく・・

その英知は測り知れない」御方です(28節)。

空の鳥を養っておられる御方です。

私達はどうでしょうか。

「草は枯れ、花はしぼむ」とありますが(7節)、私達も同様です。

そんな私達を神は養ってくださいます。

永遠の先まで心配して配慮して養っておられます。

その神を見上げましょう。

栄光の体に変えられる神の御国を待ち望みましょう。

 「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、

 鷲のように翼をかって上ることができる。

 走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(31節)

あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます

どうか、あなたのおきてを私に教えてください

(詩篇119:68)

恐れてはいけません  マタイ28:16~20

キリストは墓の中からよみがえりました。

キリストは罪に勝ち、不当な審きと人々の嘲笑に勝利し、死に勝ってくださいました。

そして「恐れてはいけません」と語っておられます(10節)。

その平安をキリストは何とか私達に分かって欲しいと思っておられます。

キリストは私達を安心させるために・・・

[1]よみがえった姿を表してくださいました

復活されたキリストはマリヤたちにご自身を示されました(9節)。

何度も弟子たちに現われてくださいました。子どもは親の姿を見て安心します。

弟子たちも、キリストの復活した姿を見て安心しました。

「弟子たちは、主を見て喜んだ」(ヨハネ20:20)。

復活のキリストこそ私達の喜び、平安の原点です。

[2]私達に近づいて下さいます

キリストが葬られた墓のあるエルサレムから弟子たちはガリラヤに移動しました。

御使いがよみがえられたキリストはガリラヤに行かれることを告げたからです。

半信半疑の人もいました(17節)。

キリストを裏切ったために、キリストに合わす顔がないと打ち沈んでいたペテロもいました。

でも、そのような彼らにキリストは「近づいて来て」とあります(18節)。

キリストは、私達罪人に近づいてくださる救い主です。

私達がちょっとでも近づくならば、近づいてくださる神です(ヤコブ4:8)。

[3]一切の権威を持っていることを示しておられます

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」(18節)。

十字架に架かられる前にもキリストは嵐を静められました。

病を癒されました。

悪魔のいう事を許しませんでした。

この権威あるキリストを見上げる時、私達は平安です。

[4]私達と共に居られることを示しておられます

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(20節)

信じてください

復活のキリストがあなたと共におられます

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