新しい生ける道  ヘブル10:19~25

イースターの聖日を迎えました。

キリストはよみがえられました。

そのよみがえりは、キリストの十字架の死を通しての出来事です。

キリストの死とよみがえりの事実は、私達にとって「新しい生ける道」です(20節)。

大胆に神の聖所に入れる道です。

つまり、私達が神と親しく交わる事の出来る道です(19節)

(1)人間は大胆ではありません(19節)。

神を離れた人間は、酒を飲んだ時、あるいは自分が馬鹿にされると、いとも簡単に大胆になれます。

ダビデは自分が好意で保護していたナバルにののしられました。

その時、部下400人で彼を殺すために出陣しました。

後程、ナバルの妻によって平穏を取り戻しましたが、彼は怒りで大胆になりました。

ペテロは、キリストのことばで大胆に湖の上を歩きましたが、風を見て沈みかけました(マタイ14章)。

また、キリストが十字架に架けられる時、人の声を恐れてキリストを拒みました。

パウロは、善と悪に対して大胆でない自分を認めています(ローマ7:18~19)。

(2)キリストは新しい道を作られました(20~21節)

旧約時代には幕屋がありました。

その至聖所に入る為には幕があり大祭司以外は入れませんでした。

しかも、大祭司でさえも罪の為の犠牲の血を携えなければ入れません。

キリストはご自分の体を割いて、血を流してこの幕を裂いてくださいました(20節)。

(3)キリストを信じる者は、大胆に神に近づく事ができます(22節)。

私達は、この新しい道を歩むことができます。

大胆に神に近づけます。

その唯一の条件は信仰です。

「全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」とあります。

(4)この道を歩む者の歩き方があります(23~25節)。

やがてキリストに会えるという希望を持って歩むべきです(23節)。

先週のメッセージにあった「所有欲」や「貪欲」ではなく愛と善行の歩みです(24節)。

「いっしょに集まる」歩みです(25節)。

新しい生ける道を通して大胆に生きましょう。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)
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安心して楽しめ   ルカ12:13~21

 今日の聖書の個所に財産に関して2人の人が出てきます。

最初の人は、兄弟に遺産を持って行かれそうになっていました。

彼は、それを必死になって取り返そうとしました(13節)。

この人に、キリストは言われました。

「どんな貪欲にも注意して、警戒しなさい」と(15節)。

他の人は、一生懸命働いて豊作となり多くの作物を得た人です。

彼は倉を新築して作物を入れました。

そして自分に言い聞かせました。

「安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と(19節)。

この人はキリストに「愚か者」と呼ばれました(20節)。

なぜなら、彼はその夜死ぬことを知っていなかったからです。

2人とも「愚か者」です。なぜでしょうか?

第一に

豊かな財や物に心奪われて、私達を養っておられる神を見失っているからです。

一生懸命働く力も、豊作も神が与えられるものです。

「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている」(詩篇14:1)。

神こそ豊かさの源です(ルカ12:22~31)。

次に

彼らは見える豊かさで、真の豊かさを見失っているからです。

彼らは「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者」なのです(20節)。

「貪欲」とは所有欲に支配され、自分のために隣人を犠牲にしても何ら意に介さない心です。

豊作を得た人の例話には、原文では「わたし」「わたしの」という語が11回も出てきます。

「わたし」の欲に支配される時、真の豊かさを失います。

真の豊かさは、神のため、人々のために喜んで生きる心です。

そこから天国に積み上げられる「朽ちることのない宝」です(12:33)

神は真の豊かさを与えられます。

キリストは十字架の上で、衣も、神である姿も奪われ、命も奪われました。

しかし、罪人を赦し、天国に導く豊かな愛を持っておられます。

そのキリストに私達は愛されている者です。

そのキリストによって安心して、楽しみながら生きる歩みがあります。

わが子よ。汝の心を我にあたえ、汝の目にわがみちを楽しめ」         
                  (箴言23:26 文語訳)

過ぎ越しの祭りで  ヨハネ13:1~15

明日自分は死ぬと分かったら何をするでしょうか。

キリストは十字架につけられる前の日、弟子たちと夕食を取りました。

「最後の晩餐」と言われる、過ぎ越しの夕食です。

そして「その愛を残るところなく示された」とあります(1節)。

 そのテーブルについていた人々はどのような人物だったでしょうか。

[1]「誰が一番偉いだろうか」という議論をしていた人々がいました(ルカ22:24)。

それ程、キリストの愛は見えないもの、分からないものです。

それでもキリストは彼らを愛し通しました。

その愛がこれらの弟子たちを生まれ変わらせたのです。

[2]キリストを知らないと言ったペテロがいました(6~10節)。

キリストは弟子たちの足を洗ってくださいました。

その時、ペテロは「私の足を洗わないで」と言います。

一見謙虚のように聞こえますが、素直にありがとうと言えない内側の傲慢さの故です。

さらに「私の足だけでなく、手も頭も洗って」と、今度は出過ぎたことを言いました。

そして、この後捕らえられたキリストを「知らない」と言いました。

結局3度もキリストを拒むことになりました(18:17)。

そんなペテロのためにも、キリストはいのちを捨ててくださいました。

その愛でペテロは立ち直りました。

内側にある心の汚れを洗ってもらったからです。

[3]キリストをお金で売ったユダがいました(2、10~11節)。

この晩餐の後に、ユダはキリストを銀貨30枚と引き換えに、

ユダヤ人の指導者たちに渡しました(18:2)。

それが分かっていても、キリストはユダの足を洗われたのです。

なんとか悔い改めて立ち直って欲しいとの愛を持っておられたからです。

この愛によって私達の歩みは変わります。

心の内にあるあらゆる汚れから解放されます。

キリストの愛で満ちたり、愛し合う者とされます。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」 
(ヨハネ13:34)

祈りは聞かれる(3)  ルカ18:1~18

「祈りは聞かれる」という題で2回話しました。

(1)キリストの名による祈りだから聞かれます(ヨハネ15:16)。

(2)だから戸を閉じて祈るべきです。

     信仰によって祈りましょう。

     祈りの原点である神を見上げましょう。

ですから・・・今日3回目のメッセージです。

いつでも祈るべきであり、失望してはならない」ことです(ルカ18:1)。

なぜなら、神は正しく報いてくださり、答えを与えてくださいます。

「まして神は、夜昼呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」とあります(7節)。

ここに「放っておかれた」やもめの話が記されてあります(3節)。

自分の悩みを聞いてもらいたくて彼女は裁判官に訴えました。

しかし、裁判官は「神を恐れず、人を人とも思わない」心の持ち主でした。

裁判官は彼女を長く放っていました。

「不正な裁判官」(6節)の裁判の基準は、法律でも道徳でもありませんでした。

わいろが横行していた時の役人です。

法律や良心ではなく、裁判で自分がいかに益を得るかが彼の基準でした。

やもめからは何の益も期待できないと知っていた彼は、彼女を「放って」置いたのです。

その裁判官が彼女を放っておけなくなりました

理由がありました。

それは彼女の「うるさくてしかたがない」しつこさでした(5節)。

何が何でもという彼女の意志に不正な裁判官が屈服しました。

「まして神は」とあります(7節)。

この「まして」とは「意外なことに」という意味を含んでいます。

神の前に金や権力は通じませんが、意外と世でも力ある「しつこさ」は神に通じます。
 
何が何でもと言う私達の祈りに、神は必ず答えをくださいます。

ご自身にとって益となる答えです。

「 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

神の下さる答えを期待して、御霊によって祈りましょう。
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