変えられたザアカイ   ルカ19:1~10

 普段私達は自分の目で立派な町並みを見ています。

しかし、鳥の目から見ると案外ごちゃごちゃした建物がある、息苦しい所と見えているかも知れません。

今日の聖書に出てくるザアカイを人々はどのように見ていたでしょうか

取税人のかしらで金持ち(2節)。

背の低い人(3節)。

木に登れる健康な人(4節)・・・・などと見ていたでしょう。

しかし、いかに恵まれた才能と財産があっても、最終的には多くの人々は彼を「罪人」と見ていました(7節)。

当時、イスラエルはローマに占領されていました。

ユダヤ人でありながら、ローマの役人という立場を利用して、彼は人々から不当な利益を得ていたからです(8節)。

何よりも、人々はキリストが彼の登った木の下に来られるまで、彼の存在に気づきませんでした。

人々からは無視された人であったとも言えます。

 ザアカイは自分をどのように見ていたでしょうか


自分はお金も地位もある、健康もある。

しかし人々からは冷たい目でしか見られていない者・・・

そんなセルフイメージ(自己評価)であったと思われます。

心の奥底で、自分をネガティブにしか見ておりませんでした。

そのような彼が木に登ってまでもキリストを見たいと願いました。

地位と財産だけでは空しさを覚えていたと思われます。

キリストはザアカイをも引き付ける“魅力”があったという事です。

彼の悪いセルフイメージは、キリストの前にもろくも崩れました。

彼はキリストを受け入れました。

なぜなら、こんな自分の前で足を止めた人がいる。

自分の名を呼んでくれた。そして、客となり食事をしたいという方がいる(5節)。

このキリストによって、彼は救われて生まれ変わりました。

々がどのように自分を見ているか、自分は自分をどのように見るか・・よりももっと大切なことがあります。

それは、キリストがあなたとどのように見ておられるかです。
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「わたしはある」という神  出エジプト記3:1~14

先々週、出エジプト記2章を通してモーセの取り扱いを見ました。

今日はその続きです。

モーセは不思議な神の摂理の中で生きてきました。

信仰によって生きる事を学びました。

イスラエルの民のために身を献げる決心をしました。

しかし、エジプト兵を殺すという失敗を犯してしまいました。

その結果、彼はミデアンの荒野で40年間の生活を強いられました。

しかし、これは彼にとってさらなる取扱いの時でした。

熱情ではなく、神のみ言葉。

自分の力ではなく神の力。

思いたちではなく神の方法・・・このような事を彼は知らされた事と思います。

そして彼はさらにこの神と相対することとなります。

改めて神はモーセにご自身を示されました。

[1]私は聖なる神である(2~5節)。

柴の木が燃えているのに焼け尽きない不思議な現象をモーセは見ました。

モーセが不用意に近づこうとしたときに、神はここに近づいてはいけない、と言われました。

神は聖なる神です。

「聖」とは“区別”の意味があります。

罪から離別された聖なる神です。

馴れ馴れしく近づくことの出来ない神です。

私達の思いに勝る神です(イザヤ55:8)。

[2]私は共に居る神である(6~12節)。

イスラエルの民を救うために神はモーセをエジプトに遣わそうとされました。

それでモーセはたじろぎました。

しかし、聖なる神が「あなたとともにいる」とも言われました。

キリストの十字架の血潮によって私達は聖なる神に近づくことができます。

神が共に居られるとの確信を持って生きる事ができます。

[3]私は「ある」という神である(13~14節)。

私達はこの世に居りますが、はかない存在です。

神が共に居なければ枯れ果てる者です。

神は永遠の昔から永遠に存在する御方です。

だれに依らなくてもご自身お一人で存在できるお方です。

しょせん、私達は枯れ果てる柴の木のような存在です。

しかし、神はそのような私達を生かし、燃やし主の御用に用いてくださいます。

この主に祈りましょう。

主よ。共にいてください

モーセを遣わしたように私をこの世におつかわしください。」

苦難の日に   詩篇77:1~12

この詩篇は、嘆きの詩です。

深刻な問題を抱えた信徒が記したものです。

たとえ信仰持っても、この世に生きている限り悩み苦しみは避けることができません。

しかし、私達のなすべきことは決して見捨てられない父なる神を見失わないことです。

この詩篇の記者がどのように苦難の日と向かい合ったかを学びましょう。

私は神に向かい声をあげて、叫ぶ」(1節)。

彼は、まず悲しみを言い表しました。

単に言い表しただけでなく叫びました。

神はきっと聞いて下さるとの確信があったからです。

私のたましいは慰めを拒んだ」(2節)。

真の慰めは神からしか来ません。

この詩篇の記者は、それ以外の一切の慰めを拒みました。

この世の「水」は、また渇くからです(ヨハネ4:13)。

私は神を思い起こして嘆き、思いを潜めて、私の霊は衰え果てる」(3節)

4節にもあるように、祈っても平安を得られない時があります。

あるいは

神は、いつくしみを忘れたのだろうか」(9節)。

「いと高き方の右の手が変わった」(10節)などと、神に対する疑問を感じることもあります。

しかし、

私は、昔の日々、遠い昔の年々、遠い昔の年々を思い返した」(5節)。

神が過去に与えてくださった恵みを思い返しました。

「数えて見よ主の恵み」という賛美のように。

その恵みの豊かさは、現在の苦境を乗り越えさせるのに十分です。

あなたのみわざを、静かに考えよう」(12節)との思いが彼を引き上げました。

苦難の日に、このお方にすべての重荷をゆだねて忍耐強く聞き従う人は幸いです。

私の兄弟たち

さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです

その忍耐を完全に働かせなさい

そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」(ヤコブ1:2~4)

モーセの取り扱い  出エジプト記2:1~15

 「キリストとともに」という題でエリヤ、エリシャ、ヨナの取り扱われた記事を読みました。

今日はモーセの取り扱いです。

偉大な指導者モーセもキリストとともに生きる訓練が必要でした。

その内容が11節の「こうして日がたち」の中にあります。

「こうして」とは何でしょうか

[1]神様の不思議な摂理の中をモーセが生きたことです(1~10節)。

ヘブルブル人の男の子は殺せというパロ王の命令がありました(16節)。

しかし、モーセの母は生まれた彼を隠しました。

隠せなくなるとかごに入れてナイル川に流します。

そこでパロの娘に拾われました。結局モーセの母が乳母としてモーセを育てることになりました。

消えゆく小さな命が助けられ、やがてイスラエルを救出する指導者となります。

このような神様の偉大な御手が働いている世に私達は生かされています。

[2]エジプトでモーセが信仰生活をしたという事です

ヘブル11章24~25節に

「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました」

とあります。

彼は「はかない罪の楽しみ」の渦の中でも神に目を向けて生活出来ました。

「信仰によって」生きる事ができました。

この世で生きる私達にもキリストの十字架の血潮のきよい恵みが注がれています。

[3]信じただけでなくエジプトでモーセが献身したことです

彼は、イスラエルの民のために身を献げました。

エジプトは、パロの子として世的に満ちたりた生活が出来る地です。

その真っ只中で、彼は主のために苦しむことを選びました。 

ハレルヤ!

[4]「こうして」生きてきたモーセが失敗したことです(11~15節)。

イスラエルの人を救うつもりが返ってイスラエルの人だけでなく、パロの反感を買う事になりました。

彼が取った行動は、神の方法ではありませんでした。

まだ神の時がきていませんでした。

彼はミデヤンの荒野でさらに訓練を受けることになります。

「こうして」の貴重な取り扱いの歩みが続きます。

私達も同様です。

 主が共に居られる時、失敗も挫折も益とされます。

全能であり、愛なる神の御手にあることを信じて行きましょう

ルツとナオミ  ルツ記1章

苦境に立たされた時にどのように行動するか。

ルツ記はこの事に示唆を与える書です。

イスラエルのベツレヘムに住んでいたナオミの家族は飢饉に苦しめられました。

その時、彼らは神の約束の地であるイスラエルを離れて異教の地であるモアブに移住しました(1節)。

(モアブは死海をはさんで、ベツレヘムとは反対側にあります)

楽になることを求めたのですが、結果は逆でした。

ナオミの夫が死にました。

二人の息子たちはモアブの女性と結婚したのですが、息子たちは亡くなりました。

彼女は二人の嫁と別れて独りイスラエルに帰る決心をしました。

しかし、嫁のルツだけはナオミと一緒に行くことを決意し、ナオミはルツと共にイスラエルに帰りました(19節)。

ルツは異国の地で姑のナオミのために落穂ひろいして生活を支えました。

やがてルツは、落穂を拾っていた地主のボアズと結婚するという恵みに与りました。

そして、ベツレヘムで誕生したイエス・キリストの先祖となりました。

ナオミの行動は、信仰からではありませんでした。

単に苦しみから逃れようとしました。

しかし、さらに大きな苦しみが待っていました。

彼女はこの事を通して主の前に謙遜になることを学びました(21節)。

ルツは、母国を離れて姑と暮らすことを決意しました。

ナオミとは逆に、彼女は苦しむことを選びました。

彼女は、信仰によって行動したからです。

「あなたの民は私の民。あなたの神は私の神です」との告白がその事を表しています(16節)。

その決断に主は応えてくださいました。

落穂ひろいしながら、不思議な守りがありました(2:8、9)。

十分の食べ物が与えられました(2:14、15)。

主はボアズを通して彼女に豊かな慰めを与えられました。

キリストは言われました。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)。

私達の選択の基準が楽か苦しいかではなく、信仰による判断であります様に。
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