主が建てるのでなければ  詩篇127篇

 この詩篇は人間の力の不十分さ、空しさを覚えて、主に助けを求めた賛美です。

私達の人生には想定外の事が起こります。

ですから、この詩篇の記者の信仰と謙虚さが生きていく上では必要です。

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」(1節)。

当時のイスラエルの家は、それほど大きく頑丈なものではありませんでした。

それでも、そんなささやかな家でさえも主の助けと守りが無ければ建てられないと言うのです。

また、この「家」は必ずしも人の住む家だけとは限りません。

むしろ、その中にある「家庭」を意味します。

家はローンで建ちますが、家庭はローンでは築かれません。

主の助けと守り、祝福あってこそ幸せな家庭は築かれます。

主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい」(1節)。

危険に満ちたこの世で生活するためには、やはり、主の助けと導きが必要です。

主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」(2節)。

人間は眠っている時が一番無防備な時です。

しかし、主はそのような時にも守ってくださいます。

日常生活の中に常に主はおられます(黙示録3:20)。

この主を信じる時、人は真の平安を見出します。

見よ。子どもたちは主の賜物・・・若い時の子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ・・・幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は」(3~5節)。

ここにも「主が家を建てるのでなければ・・」の思いが込められています。

イスラエルが住んでいた地は島国日本と違い、常に異民族が侵入して来ました。

そのような時、子どもたちも一緒に敵と戦う事が出来ることは幸いでした。

家族同士が敵となる危険もあります。

しかし、家族が一致して問題に立ち向かって行けたら幸いです。

家族や夫婦、そして人々との一致も、主が建て上げて下さらなければ、人間の力だけでは不十分です。

主に心を向けて祈りましょう。
http://admin.blog.fc2.com/control.php?mode=editor&process=new#
あなたの重荷を主にゆだねよ。

主は、あなたのことを心配してくださる

主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)
スポンサーサイト

慈愛と忍耐と寛容の神(2) ヨナ書4章

 人間の裁判は間違う事はあっても、神こそ完全無欠な裁判官となって判決を下されます。

その神に向かって詩篇の記者は「私を救い出してください・・急いでください」と神の審判を祈っています(詩篇70:1、5)。

彼のいのちを求める者がいたからです(同2節)。

しかも、彼らは記者をあざ笑いながらそのことをしていたからです(同3節)。

 私達はたとえ自分が不当な苦しみを受けても、相手を責めることを控えるべきです。

神の正しい審判、つまり神の「義」を信頼して神に委ねることが大切です。

神に委ねた以上、神が裁くか否かもお任せすべきです。

なぜなら、神は義であると同時に慈愛の神だからです。

この事をヨナ書で神は語っておられます。

ヨナ書1章でヨナは神に背きました。

2章で彼は悔い改めます。そして3章で再び神は彼をニネベに遣わしました。

ニネベは「悪の道と暴虐な行い」の町でした(8節)。

ヨナは神が40日のうちにニネベを滅ぼすことを伝えました。

恐らくヨナは、自国を支配しているニネベの人々に対する反感も加わって、神の義を堂々と語ったことでしょう。

しかし、想定外の事が起こりました

ニネベの人々は神を信じ、悔い改めました。

王も神の憐れみを求めました(5~9節)。

結局神はニネベを滅ぼすことを思いなおされました(10節)。

4章で、この神の態度にヨナが怒ったとあります(1節)。

神がその「義」を「憐れみ」に変えられたからです(2節)。

ヨナは、神の義に関して、自らの考えを捨てられませんでした。

今こそ神の義をニネベに下すべきだと主張したのです。

彼は義と憐れみの神に全てをゆだねるべきでした。

そのヨナに神はご自分の心の底を示されました。

「わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。

そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(11節)。

神は罪を罰する御方です

つまり、義なる神です。

しかし、その審きを独り子、イエス・キリストの上に下してまでも、私達を赦して下さいました。

神は義であるとともに慈愛と忍耐と寛容の神です

ヨナのどん底   ヨナ書2:1~9

井戸の底から上を見上げると、昼でも星が見えると言われます。

ヨナは、苦しみのどん底からキリストを見上げて祈りました。

「ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って言った」(ヨナ書1:1~2)。

[1]ヨナは、神の言葉に背いて逃げ出した預言者です

彼は決して落ち度のない、失敗の無い神の器ではありませんでした。

その結果、嵐の海の中に放り出されました(1節)。

[2]ヨナは魚の腹の中から祈りました(1~3節)

神は彼に大きな魚を備えて彼を魚の腹の中にとどめました(1章17)。

彼は「魚の腹の中」を「苦しみの中」と呼び、「よみの腹」つまり「墓」と呼んでいます。

墓とは人間的な希望が全て絶たれた場所です。

自分では這い上がれないどん底を意味します。

また、そこはヨナにとって自分の罪のために落ち込んだ穴です。

しかし、彼はその穴から主に祈ることができました。

[3]ヨナは主に祈りました(4~6a節)。

「聖なる宮」を仰ぎ見たいと思ったからです。

穴が深ければ深いほど、光が良く見えます。

彼はどん底の中で光を見出しました。

それは、墓を破ってよみがえられたキリストです。

7節に「私は主を思い出しました」とあります。

彼は主の与える恵みではなく、復活の主御自身を思い出しました。

「彼の神」(1節)との関係が彼を祈りへと引き上げました。

クリスチャンは、キリストの十字架によって父なる神とゆるぎない関係があります。

この関係が私達に生きがいを与えます。

やる気をおこさせます。

また、いざと言う時の力となります。

[4]ヨナの祈りの結果があります(6b~9節)。

まだ、苦しい状況の中にありながら、穴から引き上げられたとの確信が与えられました(6b)。

「救いは主のもの」つまり救いは主から来るという確信が与えられました(9節)。
 
 私達が苦しい状況にあればあるほど、罪の深さを感じれば感じるほど、

救いを成し遂げられたイエス・キリストが輝いて見えます。

主はあなたの神です

あなたのタラント  マタイ25:14~30

キリストは、再び来られます。

25章の最初には、そのキリストの再臨を待ち望む賢いクリスチャンの姿が出てきます。

14節以降にはキリストを待ち望む忠実なクリスチャンの姿が出てきます。

旅に出た主人からしもべ達は、それぞれ5タラント、2タラント、1タラントの資金を預かりました。

[1]私達クリスチャンはキリストから「資金」を預かっています。(14~15節)。

1タラントは約20年分の賃金に当たります。

主人はしもべ達に資金を「預け」たとあります(14節)。

私達は神から様々な“資金”を預かっています。

それは、才能、健康、財産(一般的なもの)そして、賜物(教会を立て上げるためのもの)です。

これらは私達が所有するものではなく、神から“預かった”ものです。

神と自分、そして人々を喜ばせるためにあります。

また、預かった額が異なるように私達各々の持っているものは違います。

言葉で人を慰めることができます。

惜しみなく与える賜物をもって人を助けることも出来ます。

また、たとえ才能や健康が乏しくても、神を喜ばせる幸せな人生を送ることができます。

[2]「資金」の用い方を誤ると暗闇の人生です(16~30節)。

5タラントや2タラント預かった人は忠実に働いて利益を生み出し、ご主人を喜ばせています(20~22節)。

しかし、1タラント預かった人は、資金を生かそうとしませんでした。

つまり「悪いなまけ者」でした(26節)。

理由は、ご主人を厳しい「ひどい方」と受けとめていたからです(24節)。

自分のことは考えても、神を無視した人生、それは生きがいを失った暗闇へと導かれます(30節)。

ご主人との関係、即ち私達と神との関係がその人を忠実な働きへと導きます。

幸せな豊かな日々を送ることになります。

今日一日を神に喜んでもらいたいとの動機で過ごしましょう。

  私達は多くのものを神からいただいております。

  あなたのタラントを数えて見ましょう。

  それらが神と人のために生かされますように。

プロフィール

sawakei1

Author:sawakei1
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR