慈愛と忍耐と寛容の神  詩篇50篇

7節に「私は神、あなたの神である」とあります。

私達の神とはどのような御方でしょうか?

神は、「神の神」であり完全無欠な審判者です(1~6節)

最近は防犯カメラやDNA鑑定が真偽の判定に役立っています。

しかし、神こそまことの審判者です。

同時に神は慈愛と忍耐と寛容の神です。

[1]私達を贖ってくださいました(7~15節)。

羊のようにさまよっていた私達はこの「牧者であり監督者である」神のもとに帰ることができました(Ⅰペテロ2:25)。

罪から来る報酬である死の審きから救われました(ローマ6:23)。

「聞け。わが民よ」と私達に呼び掛けてくださる神の声を聞く者とされました(7節)。

「あなたを戒めよう」と神は言われます(7節)。

私達はその神の民となり、神の導きに預かるものとなりました。

ですからその慈愛の神に感謝の供え物をささげるべきです(14節)。

苦難の日には助けを呼び求めましょう(15節)。

「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられる」からです(Ⅰペテロ5:5)。

[2]この世に対する審判を延ばしておられます(16~23節)。

16節以降に神に敵対する人の姿があります。

神は審判者ですが、これらの悪に対する審判が直ぐに降るとは限りません。

それで益々悪が増長しつつあります(伝道8:11)。

しかし、このような状況の中で神は「わたしは黙っていた」と言われます(21節)。

「彼らが自分の罪を認め、私の顔を慕い求めるまで、

わたしは私のところに戻っていよう」と主は思っておられるからです(ホセア書5:15)。

そして「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する」と言われます(ホセア書14:4)。

これらのみ言葉はクリスチャンにも適用されるものです。

慈愛と忍耐と寛容の神の前を歩ませて頂きましょう
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キリストとともに(3)  Ⅰ列王19:9~18

先週に引き続き、エリヤの取り扱いを見ます。

エリヤは「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)のみ言葉に照らされ、神の治療を受けました。

[1]「わたしについて来なさい」(1~2節)

恐れの原因はキリストが共に居られるという信仰の欠如です。

あらゆる境遇の中で、共におられるキリストを見上げましょう(ヘブル4:15 7:25)。

[2]「自分を捨て」(3~8節)

逃げ出したエリヤに神は、パンと水を準備されました。

それを見て、食べて彼は「自分」を捨てました。

弱い自分を受け入れました。

神の憐れみを受け入れました。

再出発できました。

さらに、エリヤへの神の取り扱いは続きます。

[3]「日々自分の十字架を負い」(9~18節)という取り扱いです。

神は「エリヤよ。ここで何をしているのか」と2度も彼に語り掛けます。

そして彼も2度同じことを言いました。

「私は熱心に仕えて来ました。

人々は信仰を捨てている中で私だけが残りました」と。

おそらく、このように主張しながら彼は自分の言葉で「自分」の姿を知ることになったと思われます。

(1)十字架は日々負うものです

「熱心に仕えて来ました」とエリヤは言いました。

でも、あの時熱心にさせた神を彼は忘れていました。

あの時苦しみを耐えたように、今日も私達はキリストとともに十字架を負うことができます。

イエス・キリストは昨日も今日も変わらないからです。

(2)神が各々に負わせられる自分の十字架を担うベキです

「私だけが」と彼は言いました。

しかし、神はキリストのために十字架を担う7千人の内の一人であったのです。

神は、追い切れない十字架を私達には負わせません。

私達は神が負わせられる自分の十字架を担えば十分です。

自分が負うべき十字架を担いましょう

日々、キリストと共に!

キリストとともに(3)  Ⅰ列王19:1~18

クリスチャンは、この世で取り扱われて成長することを先々週学びました。

今日の個所は、エリヤの取り扱いです。

彼も「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)の

み言葉に照らされ、神の治療を受けました。

[1]「わたしについて来なさい」(1~2節)

私達クリスチャンの信仰の基本は、キリストについて行くこと、

つまり、キリストと共に歩むことです。

偶像に立ち向かうエリヤをイスラエルの王アハブの妃イゼベルは憎みます。

そしてエリヤに死を宣告しました。

この事がエリヤの耳に入るや、彼は恐れて逃げました。

恐れの原因はイゼベルではありません。

キリストが共に居られるという信仰の欠如です。

あらゆる境遇の中で、共におられるキリストを見上げましょう(ヘブル4:15 7:25)。

[2]「自分を捨て」(3~8節)

イゼベルの声を恐れて逃げてしまったエリヤは、今度は逃げたことを後悔しました。

彼は失敗した自分を受け入れられないばかりか、

その失敗を自分で始末しようとしました。

「死」で解決しようとしました。

単なる後悔は絶望を招きます(Ⅱコリント7:10)。

彼が「私は先祖たちにまさっていませんから」と言っていることは彼の心理をあらわしています。

彼のどこかに自分は先輩の預言者たちのように立派な

(完璧な)預言者であるべきだとの思いがありました。

そして、その熱心さが彼の動機の一部になっていたと思われます。

失敗は許されないと自覚していた自分がもろくも失敗してしまいました。

 この時、彼は神が備えたパンと水を「見た」とあります(6節)。

感謝なことに、彼はパンと言うよりも、

自分を見捨てない臨在の神をそこに見ました。

「見た」だけでなく、彼は食べました。

神の前に突っ張っていた自分を捨てました。

そして憐れみ深い神と、失敗してしまうごく平凡な人間である自分を受け入れました。

そして、彼は再出発しました。

自分を捨てる時、新しい出発があります

キリストとともに
 

神さまは公平? Ⅰ列王19:1~18

聖書の中には、神の公平を疑わせるような記事があります。

父と兄をだましたヤコブを神は愛されました(創世記28、32章)。

放蕩して父の財産を持ち崩した息子が父(神のこと)に受け入れられました(ルカ15章)。

マタイ20章には、ブドウ園の主人の記事があります。

人々が朝早く仕事を求めて市場に立っていました。

主人は彼らと1デナリ(日当)の約束でブドウ園の仕事に雇いました(2節)。

さらに、午前9時、午後12時と3時頃、仕事を求めていた人々をブドウ園に雇いました(3~5節)。

午後5時ごろ一日中仕事を求めて立っている人々がいました。

主人は彼らをもブドウ園に連れて行きました(7節)。

夕方、主人は賃金を支払いました。

まず午後5時に来た者たちに1デナリが支払われました。

次々に賃金が支払われたのですが、最後に朝早くから働いたものにも1デナリが支払われました。

早くから働いた者たちは「不公平だ」と怒りました。

彼らは一日中暑さの中で働いたのです(12節)。

けれども、1時間も働かなかった者と同じ賃金が支払われたからです。  

これに対して主人は答えました。

①自分は彼らと1デナリの約束をした(13節)。

②自分のものを自分の思う通りにしてはいけないのか(15節)

③自分の気前良さをなぜ妬むのか(15節)。

これは、神のなさることです。

なぜなら神は

約束を守られます

自分のものを自分の思う通りに出来るのは神のみです

神はまことに気前のよい(憐れみ深い)お方です

早くから働いたものが求めたものは働きに対する報いです。

この理屈から言えば、善い働きの無い私達罪人は、永遠の審きと言う神の報いを受けなければなりません。(ローマ6:23)。

神は約束を守られます。

今でも信じる者を赦して下さるからです。

思う通りの事が出来るお方ですが私達を赦し、愛されるお方です。

この世で最大の不公平を受けたお方がイエス・キリストです。

罪のないキリストが私達罪人に代わって神の刑罰を受けてくださいました。

その不公平不条理な愛が私達を救うのです。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです」(エペソ2:8)
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