キリストとともに   Ⅰ列王19:19~21

健康診断には治療が伴うように、魂の健康診断にも治療が必要です。

それは私達が地上の生活を終えるまで続く神様の御取扱いです。

つまり、この世と言うキャンパスで、様々な出来事を教材として、

聖書と言う教科書を通して、天国に迎えられる歩みです。

 エリシャの従いを考えましょう。

(1)エリシャを導いたエリヤの従いがありました(19節)。

エリヤは、カルメル山でバアルの預言者と対決して大勝利を収めた、当時の預言者の筆頭でした(18章)。

そのエリヤに神は彼の働きを後輩であるエリシャに託すように命じられました(19:16)。

彼にとって突然の“肩たたき”でした。

エリヤは、これに従い、外套をエリシャに掛けると言う任命式を行いました。

(2)エリシャは世をすてて従いました(19節)。

彼は2頭の牛をつないだ12組(くびき)もの牛を使って耕作をしておりました。

やがてはこの農地を継ぐ大地主の息子だったかも知れません。

そのエリシャは神の召しに従いました。

(3)エリシャは独り立ちした歩みを始めました(20節)。

彼は、自分を育てたばかりでなく、信仰をも導いた両親に別れを告げます。

そして、エリヤの働きを継ぐことになります。

ヤコブも家を出て初めて一人で祈りました(創世記28:20)。

私達は教会の中でクリスチャンであるとともに、独りとなって神の前に出るクリスチャンです。

(4)後戻りしないというエリシャの従いがあります(21節)。

彼は、農耕用の牛を殺しました。

農具を薪として焼いて家族の者に食べさせました。

もうここには戻らないという彼の決心です。

子供の賛美に「福音の汽車に乗ってる・・罪の駅から出てもう戻らない・・」という曲があります。

私達の従いは、この世を出てただ御国を目指しての歩みです。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て

日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)

生涯、キリストと共に歩みましょう。
スポンサーサイト

魂の健康診断(2) 詩篇39:17~24

 健康診断をする際にはカメラやレントゲンが用いられます。

魂の健康診断は聖書のみ言葉によってなされます。

[1]み言葉は神ご自身を示す光です(17~18節)

神のなさることは「むずかしい」とあります。

人間には理解できないことがあります。

ヨハネ9章で生れつきの盲人を見た弟子たちは、これは誰かの罪のせいだと考えました。

ある人は、愛の神がどうして生れつき不幸な人間を生まれさせるのか分からないと言います。

キリストはこれらの人の目を開かれます。

キリストは言われました。「神のわざがこの人の現われるためです」と。

み言葉を通して、神ご自身と神のなさることが分かります。

[2]神が見えるとこの世の人々の姿が見えます(19~22節)。

詩篇の記者は、神に敵対することの恐ろしさが分かりました。

それは、神のさばきに価する者であることを認めました。

神は愛です。しかし、罪は憎まれる神です。

私達が救われたのは神の恵みとあわれみ以外のなにものでもありません。

[3]み言葉の光で自分の健康診断を受けよう(23節)。

詩篇の記者は、み言葉を通して神を見ました。

そして、世の人の姿を見ました。

引き続いて、彼は自分にみ言葉の光を向けました。

「神よ。私を探り、私の心を知ってください」調べてくださいと。

[4]み言葉の光は、診断で終わりません(24節)。

病院に行くのは、最初は診断が目的です。

しかし、診断の結果を聞くべきです。必要ならば治療を受けるべきです。

詩篇の記者は「わたしをとこしえの道に導いてください」と祈りました。

「とこしえの道」は意訳すると「平安への道」です。魂が健康な時は平安があります。

これは魂の健康を求めて治療を受けたい人の祈りです。

 この平和に導くお方はイエス・キリストです。

そのみ言葉がいやします(ヤコブ1:21)。

キリストとの交わりが私達を強めます。 

そのキリストと共に歩みましょう。

人の歩みは主によってたしかにされる

主はその人の道を喜ばれる」(詩篇37:23)。

イエスを拝した  ヨハネ9:1~12

 確かに、罪には刑罰と言う苦しみが伴います。

しかし、この世の苦しみ全てが罪の結果とは断定できません。

弟子たちは生まれつきの盲人を見ました。

その時、彼らは彼の盲目を「誰の罪の結果なのか」とキリストに尋ねました(2節)。

この時、弟子たちの目も霊的に盲目となっていました。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。

神のわざがこの人に現われるためです」とキリストは言われました(3節)。

キリストは世の光として世に来られた神です。

この時・・・

[1]弟子たちに「神のわざ」が現われました

このみ言葉により、弟子たちの目が開かれたのです。

すべての災禍の原因が何であれ、その苦しみを神はご自身の栄光に変えられることを彼らは見ました。

霊的に目が開かれました。

[2]盲人の目に「神のわざ」が現われました

「シロアムの池で洗いなさい」と言われたキリストのことばを信じて従った盲人は

「見えるようになって、帰って行った」とあります(7節)。

この時、キリストはご自身が、人間に口や耳を造り、またそれをいやすことの出来る神であることを示されました(出エジプト4:11)。

[3]さらに目の開かれた人の上に「神のわざ」が現われました

パリサイ人たちは安息日にこのような行いをしたキリストを非難しました(16節)。

盲人であった人の両親を責めました(19節)。

両親を始め人々はイエスをキリスト(救い主)と告白することを恐れていました。

なぜならキリストを信じる者はユダヤ人の交わりから追放されると決められていたからです(22節)。

パリサイ人たちは、目を開かれた人を責めました。

しかし、彼は大胆にも自分の目を開けた人が「神から出た方」であることを告白しました(32~33節)。

その結果、彼は追放されました。キリストはその人を見つけ出して言われました。

「あなたは人の子(神である救い主)を信じますか」と。

彼は「信じます」と言って「イエスを拝した」とあります(35~38節)。

 罪人が救われ、どのように反対されてもこの世に於いてキリストを拝することができるのは「神のわざ」です。

信仰の父アブラハム  

         ヘブル11:8~12  17~19  
先週アブラハムがひとり子イサクをささげた記事を読みました。

そのアブラハムは新約聖書でも取り上げられています。

[1]ユダヤ人にとってアブラハムはどのような存在でしょう

ヨハネ8章を見ますと、キリストは彼らを自由にするといわれました。

すかさずユダヤ人は反発します。

「私達はアブラハムの子孫であって‥誰の奴隷になったこともありません」(31~33節)。

確かに、イスラエルの民の先祖はアブラハムです。

彼らはその子孫です。

彼らは神に選ばれたアブラハムの子孫であることが誇りとなっていました。

[2]キリストにとってアブラハムは

キリストは「あなたがたがアブラハムの子どもなら、

アブラハムのわざを行ないなさい」と言われました(ヨハネ8:39)。

つまり、アブラハムは私達の模範として選ばれたということです。

彼のわざ(生きざま)の中心は信仰です。

「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」(ローマ4:3)とあります。

アブラハムのように、単純にキリストを信じる私達はアブラハムの子孫です。

救われた神の民です。

[3]私達にとってアブラハムは

ヘブル11章からみて見ましょう。

①従順の信仰の模範(8節)

②御国に望みを置く信仰の模範(9節)

③神のみ言葉に立つ信仰の模範(11~12節)

④献げる信仰の模範(17節)

⑤復活の信仰の模範(18~19節)

アブラハムは私達の信仰の父です。

その信仰に学び、御国に望みを置き、この世の旅路を進みましょう

アブラハムのささげもの  創世記22:1~14

創世記12章で、神はアブラハムに突然言われました。

故郷を離れて「わたしが示す地へ行きなさい」(創世記12:1)。

ここからアブラハムの信仰の訓練が始まりました。

争いを避けるための甥のロトとの別れ(12章)。

神の約束に対する不信仰との戦い(16章)。

ロトの救出(18章)などです。

そして、22章で最も大きな試練を受けました。

奇跡的に与えられたひとり子イサクをモリヤの山でいけにえとして神にささげよということでした(22章1節)。

彼はその声に従い、イサクを連れてモリヤに出かけました。

イサクを殺して奉げようとした時、神は止めました。

アブラハムの信仰を受け入れられたからです(12節)。
 
アブラハムは一体何を神にささげ、何を委ねたのでしょうか

神の声を聞いたアブラハムは、イサクを連れて「朝早く」出かけたとあります(3節)。

朝起きたら、いろいろしたいことがあります。

しかし、彼はまず神がして欲しいことを優先しました。

そして、神が言われたモリヤへと出発しました。

神への従いの第一歩は神の祝福の入り口です。

途中でイサクが聞きます。

「いけにえの羊は、どこにあるのですか」と(7節)。

イサクにとっては全く理解できない父の行動だったからです。

この問いかけにアブラハムは答えました。

「神ご自身が…備えてくださるのだ」と(8節)。

つまり、アブラハムは自分の行く先を全く委ねておりました。

しかし、何よりもアブラハムがささげたものは、イサクそのものでした。

「あなたの愛しているひとり子イサクを・・・ささげなさい」と神は言われました(2節)。

この「愛している」は厳密に訳すと「いよいよ愛するようになった」という意味です。

アブラハムにとってイサクは“目の中にいれても痛くない”かわいい存在となっていたのです。

そのイサクを彼はささげました。

これは、自分にとって第一のものは神ご自身であるという信仰の表明です。

 信じ従う者には神の祝福があります。

試練の中、主に従いましょう。

「主の山の上には備えがある」からです(14節)。
プロフィール

sawakei1

Author:sawakei1
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR