われはイエスのもの  ガラテヤ6:11~18

 私達健康を気にしている者は、健康診断を受けます。

パウロはガラテヤ人の手紙の最後で、彼らの魂に関して霊的健康診断を受けるように勧めています。

[1]キリストのために苦しみを担うものであるか(12~13節)

ガラテヤの教会には律法を守り、周りのユダヤ人と摩擦を避けようという考えが入り込んできました。

しかし、パウロはキリストの十字架に反することをするよりは、迫害を甘んじて受けることを勧めています。

[2]十字架を誇りとしているだろうか(14節)

先週出てきた「罪深い女」(ルカ7:37)にとって、

キリストは唯一自分の罪を負って下さる救い主であると信じていました。

彼女にとって、十字架は誇り、生きていく力でした。

十字架はこの世と私達との間にある防波堤のようなものです。

この防波堤は2つのものを殺します。

①防波堤の内側に居る私達にとって「世」という波は入ってきません。

なぜなら、それは死んだものです。

パウロのように「ちりあくた」に見えます(ピリピ3:8)。

②私達は十字架という防波堤を超えて世に出ていくことができません。

なぜなら、私達はキリストと共に死んだものだからです。

[3]新しく創造された者であることを信じているか(17節)。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。

古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

[4]イエスのものであることを信じているか(17節)

パウロは、「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びている」と言いました。

つまり、私の所有者はイエス・キリストであると言っています。

真実な所有者であるキリストは私達を命がけで守って下さったお方です。

これからも守り続けてくださる御方です。

あなたは誰のものでしょうか? 

魂の健康診断をおこたりませんように
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キリストを招いた人  ルカ7:36~50 

聖書に出てくるパリサイ人は、大体キリストに反感を持っています。

しかし、ここに記されているパリサイ人シモンは何と幸いな人でしょう。

彼はキリストを食事に招きました(36節)。

そこで、キリストと顔を合わせて話すことができました。

ねんごろにたとえ話をもって「愛する人」になれる光を与えられました(42節)。

キリストを愛する証人、つまり「罪深い女」の行動を間近で見ました(38節)。

 主を招いたシモンも幸いですが、この「罪深い女」と呼ばれていた女性はもっと幸いです。

彼女はキリストを主として心の内に招いていたからです。

彼女は主がシモンの家に居られることを知り家に入りました(37節)。

あふれる涙をもってキリストの足を濡らし口づけし、髪の毛で拭い、持って来た香油を献げました(38節)。

このことに気付いたシモンは、罪深い女が触っていることに気付かないキリストは預言者でなないと心ひそかに思いました(39節)。

キリストが「生ける神の御子キリスト」(マタイ16:16)であることに気付いていないのです。

「罪深い女」はこのことを教えられて信じていた幸いな人でした。

 そのシモンに対して、主はシモンの名を呼び次のような譬えを語られました。

500デナリを借りた人と、50デナリを借りた人がいました。

結局どちらも返すことができなかったので、二人とも赦されたという話です。

譬え話の後でキリストはシモンに尋ねました。

「ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか」と(42節)。

この譬えと質問を通して、シモンは「罪ある女」の幸いな行動の意味を知らされました。

それは、多くを赦された者は多く愛するということでした(45~47節)。

罪は数量的には測定できません。

本人がいかに罪の深さを自覚するかが問題です。

彼女は、自分の罪深さを教えられていました。

また、罪を赦す権威を持っておられる方(ルカ5:24)を心の内に招き、多くを赦されたことを知っていました。

主をお招きした私達が、多くを赦されたことを知り、「よけいに愛する」者でありますように(47節)。

聖霊による助け合い  ガラテヤ6:1~10

「キリストは自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」(5:1)。

ですから、私達は「御霊によって歩みなさい」と勧められています(16節)。

その歩みの一端が今年の年間標語にある「愛をもって互いに仕えなさい」(13節)ということです。

これは、6章1~10節にある御霊による助け合いです。

[1]あやまちは助け合いの場です(1節)

①「あやまち」とは、故意の罪ではなく知らないうちに神様の御心から反れて行ってしまっている事です。

本人が気付いていない批判的な言葉、傲慢な思いなどがあります。

ヨブは、正しく信仰生活をしてきましたが、

いつの間にか自分が神様よりも正しいという心を持つようになっていました(ヨブ記32:1)。

②このあやまちは「正す」ことができます。

壊れた機械が修理されるように、御霊は私達の内側の修復をしてくださいます。

③そのために「御霊の人」の「柔和な心」による修復が必要です。

ヨブは、3人の友人たちから責められている時は心を閉ざしていました。

しかし、神様はエリフを用いてヨブの傲慢な心を溶かしてゆきました(ヨブ記33章)。

④忠告した「自分自身」も自らに光を受ける機会となります。

即ち、私達はお互いに「あやまち」を通して神の前にきよくされるのです。

[2]重荷を負い合う助け合い(2~5節)

自分が出来ることと、人にしか出来ないことがあります。

私達は、人を助け仕えあうための神様からの様々な賜物を持っています。

この素晴らしい賜物が、他と比較するために用いられませんように。

また、自己のためだけに用いられませんように。

[3]教会における助け合い(6~8節)

教会は、みことばの宣教のために牧師と信徒、それぞれが助け合う場です。

これらは「善い」行いです(9~10節)。

単に自分が「良い」と思うよりも御霊による「善い」行いとなる助け合いがなされますように。

どうかお怒りにならないで   創世記18:16~33

 これ以上祈ったら怒られるのではないかと思うほど神に祈った人がいました。

アブラハムです。

「どうかお怒りにならないで」祈らせてくださいと、彼は祈りました(30節)。

なぜなら彼の甥のロトが住んでいるソドムの町を神が滅ぼされると言われたからです。

そこで彼は祈りました。

「もし50人の正しい人がいたら、その町を全部滅ぼすのですか」と(24節)。

神は滅ぼさないことを約束されました。

彼は、今度は45人、そして、40人、30人、20人・・・

最後に10人の正しい人がいたらと祈り、滅ぼさないという神の答えを引き出しました。

彼のこの熱心な祈りはどこから来たのでしょうか?

[1]神を畏れる信仰です

アブラハムは、潔い神を信じていました。

神は、罪に対して厳格な刑罰を加えるお方です。

「彼らの罪は大きい」(31節)ことを知った神は必ず彼らを滅ぼすのです。

ノアの時もそうでした(創世記7章)。

そして、やがてこの世は神の裁きに会います(Ⅱペテロ3:10)。

私達も神を畏れるべきです。

[2]神との親しい関係です

「彼(アブラハム)は神を信じた。

主はそれを彼の義と認められた」とあります(15:6)。

私達は信仰によって義とされます。

つまり、罪を裁かれる神によって罪赦され、神との親しい関係に入る事ができます。

この関係が神に向かって力強く祈る原動力となります。

[3]ロトを救いたいという愛です

アブラハムは、神に親しく、そして力強く祈れるという恵みを隣人のために用いました。

ロトが救い出されるようにとりなし、祈りました。

主は信じた者のために「新しい天と新しい地」を備えておられます。

そして、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んで」おられます(Ⅱペテロ3:9)。

私の祈りと証をとおして救われる者が起こされます様に
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