あなたは相続人   ガラテヤ3:15~29

ある日裁判所から「あなたはある富豪の相続人です」と言う通知が来たらどうでしょう。

これは期待と驚きです。

それ以上に驚くべきことに、聖書は天地の所有者である神から「あなたは相続人です」と言っています(29節)。

[1]誰が相続人でしょうか?

「アブラハムとその子孫」です(15~16節)。

神はアブラハムとその子孫に約束をしました。

神の莫大な永遠の祝福を与えるというのです(創世記12:2~3)。

ところが、その契約(約束)を受けたアブラハムから約430年後に、

神はモーセを通して「律法」を守ったら約束を相続させると言われました(17節)。

[2]なぜ神は人間に律法を与えたのでしょうか?

それは「キリストに対する信仰」を起させるためです(17~24節)。

ルカ15章には、ほうとう息子の例話があります。

父の財産を食いつぶした息子は苦しみました。

それは、父に対し、神に対して罪を犯したからです。

そして、ついに父のもとに帰ろうと決心します。

父を信じて帰った息子を、父は憐れんでもう一度子として受け入れました。

この息子は、律法(良心)を通して自分はもはや子としての資格がないことを認めました。

「律法」は私達に罪を示し、神のもとに帰ろうとの思いを起させます。

キリストを信じて赦してもらおうと思います。

その心を神は認めてくださり、私達を神の子として受け入れてくださるのです。

律法そのものにはいのちがありませんが(21節)私達に必要なものです。

[3]異邦人は神の相続人となれるでしょうか?

「キリスト・イエスに対する信仰によって」可能です(26節)。

「ユダヤ人もギリシャ人(日本人も)」キリストを信じて、「一つ」となり神の相続人になれます(28節)。

この一つとなったものが「教会」です。

神の約束の地である御国に向かって歩み続けましょう。
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繰り返される励まし ヨシュア記1:1~9

この世では「展望」とか「夢」が語られます。し

かし、聖書は「主を待ち望む者は新しく力を得る」と言います(イザヤ40:31)。

そして、信じ待ち望む者にご自身の御名の栄光を表されます。

ヨシュアは、モーセの「従者」でした(ヨシュア記1:1)。

モーセの「従者」であったために・・・

彼は、モーセの姿を見て育ちました。

モーセが神に祈る姿を見ていました。

エジプトを出て従わないイスラエルの民を忍耐持って導いているモーセの苦労を知りました。

神は荒野からカナンの地に人々を偵察にいかせました(民数記13章)。

この時、偵察に行ったヨシュアとカレブ以外の者は、カナンの地を悪く言いふらしました。

ヨシュアは約束の地に行こうと言いました。

しかし、人々は前進を拒みました。

主の御旨と思っていたことが止められるという現実にぶつかったのです。

全てこれらはモーセの従者としての訓練の時でした。

私達は主の従者です。神の宝の民です(申命記7:6)。

その私達を神は訓練されます。

モーセの従者であっても・・・

このような訓練を受けたヨシュアでした。

それでも、カナン突入を前にしてヨシュアの内には恐れがありました。

その彼を繰り返し神は励まされました。

「行け」(2節)。

約束の地を「あなたがたに与えている」(3節)。

「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(5節)。

「強くあれ。雄々しくあれ」(6節)。

「恐れてはならない。おののいてはならない」(9節)。

私達最大の「恐れ」は「あなたに命じたすべての律法を守り行え」という神の命令かも知れません(7~8節)。

しかし、神は励まされます。

「あなたが栄えるためである」と(7節)。

復活のキリストが言われます。

「あなたの神、あなたの主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである」と(9節)。

私達は日々この励ましを必要としている者です。

繰り返される主の励ましを聞いて進みましょう

信じる者に  ヨハネ20:24~31

 十字架につけられ、復活されたキリストはご自分の姿を弟子たちに表されました。

その時のトマスについて聖書は述べています。

[1]トマスは「彼らといっしょにいなかった」(24節)。

彼は信じている者たちと一緒にいるよりも、

信じない世界の人々と一緒にいることを選んだのでしょうか。

クリスチャンは、世との交わりを絶つのではありません。

しかし、キリストとの関係を損なう交わりは絶つべきです(マタイ6:33)。

[2]彼は「私は十字架につけられたキリストの釘後を見て、

指を入れて、脇に手を入れて見なければ信じない」と言いました
(25節)。

彼はこの時「私」という語を3回使っています。

私の目や手、私の判断が彼の拠り所でした。

自分で考え、自分で一生懸命生きていかなければという人です。

このような生き方は、ストレスや絶望につながります。

なぜならば、人間の判断力も完全なものではないからです。

神との関係の中で生きるように私達は創造されたものです(マタイ6:31)。


そのようなトマスに現われてくださったキリストのことばに注目しましょう。

[1]「平安があなたがたにあるように」(26節)。

この時トマスや弟子達が最も必要としていたものをキリストは与えられました。

[2]「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(27~28節)。

キリストを見てトマスは信じました。

キリストを信じようとしない人間に、キリストは憐れみ深い神です。

私達が信じる者となるように励まされます。

[3]「見ずに信じる者は幸です」(29節)

私達は、キリストの姿は見えませんが、神のことばである聖書を通して信じる幸を与えられています。

 キリストを信じ、キリストの復活の命で生きる者でありますように(31節)。

私たちの天の父  マタイ6:25~34

この世で生きいく事は、心配の連続の中を過ごしていると言っても過言ではありません。

しかし、神は心配することを戒めておられます。

[1]神は人にいのちを与えられました。

そのいのちに必要な物も与えてくださることを信じるべきです(25節)

[2]空の鳥を見るべきです。

「見る」とは「じっくりと見つめる」という意味です。

すると、神が彼らを養っておられることがわかります。

ならば、自分も神に養われていることが分かります(26節)。

[3]心配して寿命を延ばすことはできません(27節)。

心配して問題が解決することは有りません。

心配は何の役にも立たないものです(27節)。

[4]空の鳥よりも、美しい野の花よりも優れたものとして神は人間を創造されました。

それらのものよりも、もっと深い神の配慮の中に私達は活かされていることを知るべきです(28~30節)。

[5]心配は「異邦人」のすること、つまり神を知らない者のすることです。

神を知らない異邦人は、自分で備え、自分で考え、

自分で一生懸命しなければ生きていけないと思い込んでいる人間です。

そこにストレスが生じます。

時には絶望します。

神への信頼が心配を打破しながら生きる事を可能にします(31~32節)。

[6]心配に対応する方法があります。

神の国を求めることです。

つまり、神の御旨に従っていきることです。

神の義をもとめることです。

神との親しい関係の中を生きる事です(33節)。

[7]神の摂理の中を生きる、心配無用の人生があります。

想定外の事が起こっても一日一日の責任を果たしつつ、明日の事を神に委ねていきましょう(34節)。

   ほむべきかな。

   日々、私たちのために、

   重荷をになわれる主。

   私たちの救いであられる神。  (詩篇68:19)
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