基本に帰る  ガラテヤ3:11~14

道を迷った時は出発点に帰れと良く言われます。

ガラテヤ教会の人々は迷わされていました。

福音から離れそうになっていました。

パウロは彼らを「愚かなガラテヤ人」と叱責しています(1節)。

しかし、彼らに信仰の出発点である基本に帰るように勧めています。

はじめ彼らには

[1]十字架につけられたキリストが示されました(1節)。

それは、呪われた姿です(13節)。

誰が呪われたのでしょうか?

神を離れ罪を犯して生きてきた私達一人一人です。

十字架のキリストの姿は将来の私達の姿です。

しかし、私達の代わりにキリストは呪われてくださいました。

[2]神の言葉を信仰持って聞いて、信仰生活が始まりました(2,5節)。

今あなたの部屋で火災警報がなったら信じるでしょうか。

たいていの場合、まさかと思ってしまいます。

私達は幸いにも、神の言葉に信頼をおいて受け入れました。

神の備えた救いに避難できたのです。

[3]聖霊による出発点があった(3,5節)

私達が信仰生活始められたのは「奇跡」です。

この「奇跡」という原語はダイナマイトと同じ言葉です。

罪に流されて生きていた私達が神に向かって生きるようになりました。

ダイナマイト以上の聖霊の働きに寄ります。それは奇跡です。

[4]アブラハムの子孫となりました(6~14節)。

私達異邦人が、信仰によってアブラハムの子孫となったことを「知りなさい」とあります(7節)。

私達は神の祝福を約束されたイスラエル民族ではありません。

しかし、アブラハムが神を信じたように(創世記15:6)、

私達もイエス・キリストを信じることによって神の祝福を得られる民となったことを知るべきです。

律法の呪いから解放されたことを知るべきです。

私達自身が神の祝福の対象となっているだけでなく、

周りの人々を祝福する存在となっていることを知るべきです(創世記12:3)。

迷わず、この基本に立って進みましょう。

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死んだ そして生きた(2) ガラテヤ2:19~21

神を離れた人間は、霊的には死んだ者です。

やがて体が死に、そして永遠の審きという死を迎えます(ローマ6:23)。

そんな私達が信仰によって救われました。

その私達は

[1]義とされています(16節)。

単に情状酌量というのではありません。

無罪、つまり実は罪を犯さなかったという審判を神から受けたのです。

これが、キリストの十字架の血潮の恵みです。

[2]新しく生まれ変わりました

19節に「私は、神に生きるために」とパウロは言っています。

神に背を向けて生きていたパウロも私達も、神のみ言葉に従って生きようと思うようになります。

罪をきらい、潔い生涯を送りたいと思います。

内側が新しく生まれ変わっているのです。

 同時に、「神に生きる」ことの出来ない「私」(20節)を見出します。

その「肉」といわれる「私」は自分の力で神の律法を行なってまでも潔い生活をしたいと思います。

しかし、パウロはそれをあきらめました。

律法に死んだのです。

そして、素晴らしい道を見出しました。

[3]キリストと共に死ぬことができます(20節)。

それは、無力、無能な自分を認め、キリストに自分を明け渡すことです。

それが、キリストと共に死ぬことです。

キリストの命を持っている者は、キリストと共に死ぬことができます。

人の声、名声、この世の誉れなど悪魔の様々な誘惑がこの世では聞こえます。

しかし、それらに対して死にながら生きる事ができるのです。

[4]キリストと共に生きることができます(20節)。

「キリストがわたしのうちに生きておられるのです」

という確信をもって生きる事ができます。

キリストのために生きることが喜びとなります。

見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。

行け。その地を所有せよ
。」(申命記1:8)

罪を犯し、罪に支配される私達のために、

神は確実なきよい生涯を準備してくださいました。

それを私達は信仰によって所有することができます。

死んだ そして生きた  ガラテヤ2:15~21

19~20節に「死んだ」と「生きた」という語が繰り返されています。

16節からこの事を考えましょう。

[1]人間は「死んで」、「死んで」そして「死んだ」という存在です。

ローマ6章23節に「罪から来る報酬は死です。

しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」とあります。

ここにある「死」は3つの意味を示しています。

①生まれながらの死です。

神に背を向けている人間は神に受け入れられない存在です。

「義」と認められる人は一人もいません。

全ての人は神の前に「罪人」なのです。

だから人を憎み、ねたみます。

これがエスカレートしますと犯罪に至ります。

「律法」による正しい行いをしようとしても、神は認めてくださいません。

②肉体の死です。

そして③永遠の刑罰による死です(ヘブル9:27)

[2]イエス・キリストは「死んだ」そして「生きた」お方です

「キリスト・イエスを信じる信仰」とありますが、

キリストは信仰の対象となれるお方です。

「信仰」というギリシャ語には「真実」という意味もあります。

人は真実なものに信頼を置くことができます。

キリストは十字架で殺され、そして復活されました。

死んで生きたお方です。

なぜなら、罪の報酬を受ける必要のない、潔い神だからです。

ですから私達は、このキリスト・イエスに信仰を持つことができます。

キリストを信じたら、驚くべきことがおこります。

[3]私達は「死んで」「生きて」そして「生きた」という存在に変えられます

なぜなら、キリストは十字架にかかって「死の報酬」を私達に代わって受けて下さいました。

そのキリストによって私達は罪が赦されます。

義とされます。

そして、キリストの命が注がれます。

その愛に応えて神の栄光のために生きていこうと思うようになります。

つまり、死んでいた私達は生きて、そして永遠に生きるのです。

どうぞ、このキリストの恵みの中を生きていってください。

私は神の恵みを無にはしません」(21節)

パウロの大胆さ ガラテヤ2:1~14

使徒の働きを読みますと、パウロは3回伝道旅行を行なっています。

第1回の旅行から帰ると、異邦人もユダヤ人の習慣である割礼(旧約聖書にある儀式)を行なわなければ救われないということを語る者が現われました(使徒15章)。

そこで、この問題をエルサレムにいる使徒とや長老たちと話し合う事になりました。

これがエルサレム会議です。

結論は異邦人もユダヤ人も信仰によって救われるということでした。

その結果、2章において彼はますます大胆に福音を語ります。

[1]大胆に信ぜよ(1~5節)。

2節でパウロは「私の宣べ伝えている福音」と言っています。

セールスマンは、自分が売っている商品は確かなものだという確信が無ければ成功しません。

パウロにも確信がありました。

自分が信じて、自分が救われて生まれ変わったという経験があるからです。

この福音こそ全ての人を救うという絶対的な確信がありました。

だから「譲歩せず」(5節)大胆に語りました。

[2]大胆に相手を受け入れよ(6~10節)。

6節で彼は「神は人を分け隔てなさいません」と言っています。

この世には差別や偏見があります。

パウロは、長老たちや使徒たち、

即ち先輩格の人々に対し自らを卑下するところがありませんでした。

働きは違っても、お互いに神に召されている。

場所は違っても、神に愛されていると大胆に信じたからです。

キリストにあって私達は大胆に相手を受け入れ、一致を保つ事ができます。

[3]大胆に戦え(11~14節)。

11節にパウロが「面と向かって抗議しました」とあります。

なぜなら、信仰だけで救われることを説くはずのペテロが

福音にふさわしく「まっすぐ歩まない」のを見たからです。

ペテロの過ちは福音の真理に関わることでした。

ですからパウロは大胆にペテロに抗議しました。

福音に直接関係ないことで争う事は禁物です。

しかし、真理のためには大胆になることが必要です。

福音に反することを大胆に取り除きましょう。

そして、福音のために大胆に戦いましょう。

邪魔をしないで   マタイ19:13~15

 キリストに祈ってもらいたくて、子どもたちが連れて来られました。

しかし、弟子たちは親たちを叱りました。

キリストはそれに対して「邪魔をしないでわたしのところに来させなさい」といわれました(14節)。

この記事について考えましょう。

[1]子どもたちが「連れて来られた」(13節)。

これは幸いなことです。

教会にも子どもたちが連れて来られて、み言葉を聞く機会が与えられています。

親は子供に知的教育だけでなく、霊的な魂の教育を施す責任があります。

そのような子どもが救われて、自分の意思で教会に来るようになります。

そして、また自分の子どもたちを連れてきます。

これは地上の「御国」(14節)の姿です。

[2]弟子たちは「彼らをしかった」(13節)。

理由はいろいろ考えられます。

弟子たちは忙しいキリストを思いやり子どもたちを退けたのかも知れません。

しかし、その“思いやり”は主の御心ではありませんでした。

あるいは、子供たちが来るには難しい場所だと考えたのかもしれません。

これも正しい判断ではありませんでした。

神様の目で子どもを正しく見る必要があります。

[3]キリストのなさったことは以下のことです(14~15節)。

①「私のところに来させなさい」と言われました。

子供も大人も全ての人をキリストは招いておられます。

②「天の御国はこのような者たちの国なのです」と言われました。

子どもは自分の弱さを知っています。

ですから、親に全く信頼しています。

御国は神に絶対的に信頼する者たちの国です。

③「手を彼らの上に置いて」祝福されました(15節)。

子どもたちには何をしているか分からなかったと思います。

し かし、キリストは親たちの信仰を受け入れて子供たちを祝福しました。

親の信仰が子供たちの将来を祝福されたものとします。

万軍の主よ

なんと幸いなことでしょう

あなたに信頼するその人は。  (詩篇84:12)
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