私のことで神が崇められる  ガラテヤ1:11~24

「彼らは私のことで神をあがめていました」(24節)

ここに、パウロがガラテヤ書を記した一つの理由があります。

これは、パウロでなければ言えない言葉です。

神のことばとして訴えるものがあります。

[1]わたしのことで(12~22節)

つまり、「こんな私なのに」「こんなわたしだから」と彼は言いたいのです。

①こんなにクリスチャンを迫害した私(13節)。

彼はキリストを信じるどころか、信じる者を殺そうとしていたのです(使徒9:1~2)。

そんな人をキリストは救われます。

救われそうなユダヤ人がキリストを拒み、「除外された」異邦人が救われるのです(エペソ2:11~12)。

②こんなにユダヤ教に熱心であった私(14節)。

熱心に行動している余り、自分と周りが分からなくなることがあります。

その熱心なパウロが救われたのです。

③そんな私を神は召された(15節)。

それが「恵み」です。

④そんな私がキリストと出会った(16節)。

神は特別な啓示を与えてまでもパウロにキリストと出会うという体験を与えられました(使徒9:3~4)。

⑤そんな私だから神は異邦人に遣わされた(16~21節)

これは、私ではなく、神のご計画であるとパウロは信じました。

[2]その「わたし」のことで人々が「神を崇めた」(23~24節)。

「あのパウロだから」ではなく「あんなパウロが」ということで

人々は神を崇めました。

神は人が崇められないような方法で、ご自身のご計画を進められます。

神が崇められるために・・・・あなたも召された罪人の一人です。

スポンサーサイト

彼らの信仰を見て  ルカ5;17~26

キリストはある人の家の中で集まりを持っておられました(17節)。

そこに中風を患っている人をキリストの前に連れて行こうとした人々(マルコ福音書では4人)がいました(18節)。

しかし、家一杯の人が集まっており、病人をキリストの前に連れて行くことができませんでした。

そこで彼らは屋根を壊して、病人をキリストの前につり下ろしました(19節)。

「彼らの信仰を見て」キリストは病人に向かって「罪は赦されました」と宣言しました(20節)。

パリサイ人達はこの言葉を聞いて「神のほかに、誰が罪を赦すことができよう」と理屈を言ってキリストを批判しました(21節)。

そこでキリストはご自分が罪を赦す権威を持っておられることを示すために、病人に向かって

「起きなさい・・家に帰りなさい」と命じます(24節)。

果たして病人は直ぐに立ち上がって「神をあがめながら自分の家に帰った」とあります(25節)。

 これらの出来事から教えられる事があります。

[1]彼らは病という問題を、屋根を破るという非常手段を用いてまでも、

何が何でもキリストの前に持って行こうとしました


あきらめない信仰・・・キリストはそのような「彼らの信仰」を見ておられました。

そして、あなたの信仰を見ておられます。

[2]4人の一致した奉仕が病で倒れていた人を活かし、神を崇めるような結果に導きました

愛をもって互いに仕えましょう(ガラテヤ5:13)。

[3]私達は神の権威あるみ言葉によって罪赦され、神を崇める潔い生活ができます

病に倒れ伏していた人が、キリストの言葉通りに立ち上がりました。

ですからキリストのことばには権威があります。

姦淫の場で捕らえられた女性に向かってキリストは「私もあなたを罪に定めない。

今からは決して罪を犯してはなりません」と宣言されました(ヨハネ8:11)。

私達も、そのキリストのことばの権威に守られている者です。

罪を赦されたことを大胆に信じましょう。

罪に勝利しながら生きていけることを感謝しましょう。

わたしは、世の光です

わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8:12)

福音がいのち   ガラテヤ1:1~10

ガラテヤは現在のトルコ地方に当たります。

パウロは第2回と3回の伝道旅行でこの町に滞在して伝道しました。

その結果出来たのがガラテヤ教会です。

伝道旅行の後にパウロはガラテヤ教会に向けてこの書を記しました。

[1]この書を記したのはパウロです(1~2節)。

勿論聖書の作者は神ご自身です。

しかし、聖書は神が直接超自然的な方法で書いたものではありません。

神はパウロを「使徒」として召されました。

そのパウロは勿論感情や弱さを持った人間です。

神はそのパウロを記者としてご自分のみ言葉を記させたのです。

ですから、このガラテヤ書には、パウロの怒りが感じられます。

「驚いています」(6節)。

「のろわれるべきです」(8、9節)。

3章では「ああ愚かなガラテヤ人」とあります(1節)。

つまり、神は怒るべきことを怒る人を用いて聖書を記したと言えます。

[2]パウロの怒り(6~10節)
福音によって建てられたガラテヤ教会に福音に反することが入って来たからです。

具体的には、割礼をはじめとする儀式や律法の行いで救われるという教えです(3:1~2)。

パウロの怒りは「ほかの福音」があるのではない。

福音は「キリストの福音」ただ一つ。

それは「私達が宣べ伝えた福音」であるというものです。

この福音、つまりイエス・キリストによって私達は救われ、教会が立て上げられているのです。

現代は世の楽しみ、満足や人の言葉が救いに代わる恐れもあります。

パウロの怒りは無駄にしてはならないものです。

[3]パウロの怒りの出所(3~4節)。

それは、福音がいのち、福音しかないということです。

福音とは「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました」という事実です(4節)。

つまり、福音はキリストが私達のために何をしてくださったかという事です。

律法は、私達が救われるために何をすべきかという事です。

今も福音によって救いの門戸が開かれています。

確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:2)

羊飼いのいない羊 マタイ9:35~10:4

キリストは、12人の弟子を任命して遣わしました(10:1)。

この事には大切な意味が込められています。

[1]神の国に取り入れられる魂の収穫が多いからです(37節)。

世界中のイスラム圏の国々には、迫害を受けながらかなりのクリスチャンがいる国がたくさんあります。

しかし、日本のクリスチャンの数は1パーセント以下と言われています。

少ないでしょうか? 

キリストは言われました。

「収穫は多い」と。つまり、信じて神の国に入るように招かれている人は多くいるということです。

[2]働き人が少ないからです(37節)。

招かれている人は多いが、キリストを知りません。

その人々にキリストをつたえる人が少ないとキリストは言われました。

ですから弟子たちを遣わされました。私達も世に遣わされている働き人です。

[3]群集を見てキリストは「かわいそうに」思われました(36節)。

この世にはかわいそうと思われる人々が多くいます。

病と闘っている人がいます。大震災からまだ立ち直っていない方々もおられます。

キリストはそのような人々だけでなく、全ての「群衆」を見てかわいそうに思われました。

人々が「羊飼いのない羊」だからです。

人間にとって最も深刻な問題は、弱くて迷い易い羊でありながらイエス・キリストという羊飼いに養われていないという事です。

キリストは、かわいそうと思うだけでなく、

病の人に手を宣べ、福音を伝えるために弟子たちを遣わされました。


収穫は多いが、働き手が少ない」この世に出て行きましょう。

キリストを証しする者であります様に。
プロフィール

sawakei1

Author:sawakei1
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR