あなたの従い  ルカ5:1~11

私達は日常生活の中で様々な決断と応答を迫られることがあります。

ペテロが遭遇した状況の中で、彼の取った応答、キリストに対する従い考えましょう。

[1]失望させられるような状況の中での従い(2~3節)。

ペテロは、夜通し漁をしましたが、獲物は何もありませんでした(5節)。

その失望の中で網を洗っていました。

そのような時に、キリストは彼に舟を出して深みに漕ぎ出せと言われました。

気力、体力にも疲れた中、さらに重荷を負わせられるという状況です。

しかし、感謝なことにペテロはキリストの求めに応じました。

従う者には、大きな祝福が待っています(7節)。

[2]意に反する状況や、理屈に合わない事に面した時の応答(4~5節)。

獲物がいなかった場所に再び網を降ろせとキリストは命じました。

ペテロは漁の専門家です。

その自分がいないと分かっている湖に魚を求めて網を降ろせと言う命令です。

ここでもペテロは従いました。

キリストはどのような知恵や才能を持った人よりも勝るお方だからです。

[3]願ったりかなったりという状況の中での従い(6~8節)。

ペテロの目の前には豊かな獲物、食料がありました。

このような豊かさの中でも私達はキリストに目を向けるべきです(申命記8:11)。

[4]み言葉への従い(11節)。

「こわがらなくてもよい。あなたは人間をとるようになる」

というキリストのことばに、彼は喜んで「何もかも捨てて」キリストに従いました。

奇跡的な大漁を通して、ペテロはキリストが水の中にある魚まで見える神であることが分かりました。

恐ろしいとまで感じました(8節)。

しかし、何よりも罪を解決してくださり、神に向かってこわがらなくても良い人間とされていることに、

彼は目が開かれました。

もうキリストに従うほかない・・・喜びと感謝を持って彼はみ言葉に従いました。

自らが救われたことを思い、キリストの愛の深さに漕ぎ出しましょう。

そこにあなたの従いがあります。
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自由を得させるために  ガラテヤ5:13~15

今年の標語はガラテヤ書のみ言葉です。

この書のテーマは「行ないか信仰か」です(3:2)。

ガラテヤの信徒は信仰によって救われ恵まれていたのですが、

そこに律法の行いの必要が説かれるようになりました。

パウロはこのことを心配して、キリストの十字架で私達は全く救われ、自由だと説きました(5:1)。

私達は、キリストの贖いを通して完全に自由です。

罪から、神の刑罰から、死の恐れから、あらゆる心配から自由にされました。

しかし、その自由を間違ってはいけないとパウロは説きます。

「肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」ということです(13節)。

先週学びましたルカ15章の「よきサマリヤ人」の記事から、この「自由」について考えさせられます。

[1]強盗達の自由は律法を知らない、律法を無視した自由です。

つまり、したい放題とういう自由です。

律法や道徳はそれで完全なものではありませんが、社会の秩序の為には必要なものです。

[2]祭司、レビ人たちは律法に支配されて真の自由を失っています。

彼らは律法を知っていても、その意味を正しく知っていませんでした。

旧約聖書の律法の目的は第一に人間に罪を示すためです(ローマ3:20)。

律法に示された人は、自分が罪に勝てないことを見出します。

そこで、キリストに目が向けられます。

ですから、律法は「信仰があらわれるまでの監督」です。

またキリストに導く「守役」となります(ガラテヤ3:20文語訳)。

[3]サマリヤ人は自由に喜んで律法にある「愛せよ」を実行しました。

[4]サマリヤ人のように自由になるためにはどうしたらよいでしょうか

①キリストの贖いに100パーセント信頼することです(3:13)。

②信じた者に宿ってくださる「御霊によって歩む」ことです(5:16)。

私達は、キリストの十字架を通して全く自由な身とされました。

その恵みに応えて互いに愛し、仕える者となりましょう。

お互いを喜ぼう  ガラテヤ5:13

今年の私達の教団と教会の標語は
愛をもって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)です。

信じた私達は「互いに」という関係にあります。

ルカ10章の「善きサマリヤ人の譬え」と呼ばれるこの箇所は、「互い」について考えさせられます。

「互い」の無い世界の強盗(30節)

エルサレムからエリコに下る道は強盗がよく出没した寂しい場所でした。

「ある人」が通りかかった時、彼らはその着物をはぎ取り、半殺しにして逃げました。

互いの関係が無いという事は、相手に対して自由に悪い事が出来るという事です。

現代は、「半殺し」ではなく、自己の欲の為に相手を殺害して逃げるような事件が度々起こっています。

正にこのような暗黒の世に、キリストの救いが必要です。

「互い」の大切さを分かっておりながら実行できない人がいます(31~32節)。

祭司、レビ人は聖書の律法を知っておりました。

律法には「あなたの隣人を愛せよ」とあります(10:27)。

しかしまた、祭司は死んだ者によって「身を汚してはならない」とも書いてあります(レビ記21:1)。

自分の身を汚してまでも互いに愛することは彼にはできませんでした。

ですから彼らは「反対側」を行きました。

「見なかった」ことで良心の声から逃げる道を選んだのです。

「互い」を知っていて喜んで実行したサマリヤ人(33~35節)。

半死半生の人を見た「あるサマリヤ人」は、かわいそうに思いました。

そして、近寄り、介抱し、宿屋の費用を提供しました。

「互い」は犠牲を伴います。

「仕える」事が求められます。

このサマリヤ人の姿は、仕えあう私達の姿です。

罪に支配され半死半生の人々をキリストの所に導くクリスチャンの姿です。

キリストは「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました(37節)。

新しい年、主が与えてくださった「互い」の関係の中で仕えあい、教会を建て上げていきましょう。

あなたの宝箱   マタイ2:1~12

 暦の上ではクリスマスは12月25日ですが、

クリスチャンはお正月から初めて、毎日キリストの誕生をお祝いすべきです。

キリストが誕生した時、東方の博士たちが星に導かれて幼子キリストを見出したとあります。

今と違って、交通手段も乏しい中、遠い旅をしながら彼らはイスラエルまで来ました。

それ程彼らはキリストにお会いしたいと思いました。

また礼拝したいと思いました。

星がいよいよキリストのいる家を示した時に

「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

そして、その家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。

そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」

とあります(10~11節)。

[1]彼らはキリストを礼拝することを「この上もなく喜んだ」とあります

ここに礼拝者の模範とすべき姿があります。

礼拝はしきたりではなく喜びです。

デボーションを通してキリストとお会いすることが喜びでしょうか。

[2]「幼子を見、ひれ伏して拝んだ」とあります。

彼らが礼拝している対象は「幼子」です。

一見愚かな姿ですが、神が人となって来られたという事実を彼らはしっかりと信仰によって受け止めていました。

どんな愚かと思われ、馬鹿にされるようなことも、信仰があればできます。

[3] 「宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」とあります

イエス・キリストがわたしの大事な宝物ですという信仰の告白です。

ヘロデの宝物は最後まで自分の地位と名誉でした。

ザアカイの宝物はお金でした。

しかし彼はキリストを信じた時、財産を貧しい人に施したとあります(ルカ19章)。

パウロの宝物は「ユダヤ人」であるという誇りでした。

しかし、キリストに出会った時、それらは「ちりあくた」と化しました(ピリピ3:8)。

かつてのあなたの宝箱の中身は何だったしょうか。

キリストと出会った今、その中身は変わっているでしょうか
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