クリスマスの光 (2) マタイ2:1~12

クリスマスツリーには、電飾がつきものですが、キリスト誕生の出来事の中に、素晴らしい光があることを示しています。

それは、先週読みましたように人間の心の闇を照らす光です。

そして、神には出来るという光です。

[1]神には人を救う事ができます(21節)。

ディケンズが書いたクリスマスキャロルという物語があります。

主人公のスクルージは、人々から冷酷、無慈悲、守銭奴と呼ばれた人物でした。

その彼が夢で自分の過去や未来を見せられて恐ろしくなり回心しました。

やがて「ロンドンでクリスマスの楽しみ方を一番知っている男」と呼ばれるようになりました。

これは、物語ですが、キリストはどのような人をも造りかえ、神を愛し、人を愛する人に変えてくださいます。

人には出来なくても神には出来るのです。

[2]私達の回りの出来事を支配することができる(22節)。

クリスマスは、神がご計画されたことです。

処女であるマリヤにキリストが宿りました。

婚約者のヨセフは悩みました(19節)。

この不思議な「出来事」は神がご計画された事です。

私達の考えも及ばないような出来事が起こります。

その背後に神がおられます。

「神のご計画によって召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)。

悩まず、この神のご計画と御支配に信頼し委ねることが大切です。

[3]約束のみ言葉を実現することができます(23節)。

「神はわたしたちとともにおられる」という旧約聖書の約束が、クリスマスによって実現しました。

神は罪を裁くお方です。そんな神が人となってこの世に来られました。

神が歩み寄って下さったからです。

また、罪人にとって、きよい神と共に生きる事ほど窮屈なことはありません。

しかし、神がともにおられることが慰めとなり力となるのです。

クリスマスの神のみが成し得る奇跡です。

神には出来るという光に照らされて過ごせます様に。
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クリスマスの光  マタイ2:1~12

クリスマスは光の到来の出来事です。

マタイは、輝く星によってキリストの誕生が博士たちに知らされたと記しました。

ルカは主の栄光が羊飼いたちに表れてクリスマスの出来事を述べています。

ヨハネは、「光は闇に輝いている」と記しました。

しかし、マタイは唯一クリスマスの闇を記しています。

何とキリストが「ユダヤ人の王」として誕生した時に(2節)、ヘロデ王によってベツレヘム近郊の幼子たちが一人残らず殺されたというのです(2:16)。 

ヘロデの心の中にあったこの闇は全ての人間の内側に存在する闇です。

[1]自分の地位、立場を守るためには子供をも殺す闇です(16節)

昔も今も変わらない人間の欲という闇です。

ヘロデ王にとって、ユダヤを治める王は自分だけなのです。

この地位は誰にも奪われたくない・・・そんな欲望が彼を狂わせました。

[2]ヘロデ王も人々も恐れまどいました(3節)。

それは、将来に対する不安という闇です。

ヘロデにとっては人々から自分が捨てられるのではなかろうかと言う不安です。

人々は、二人の王の出現によって、世が混乱するのではないだろうかと言う不安です。

[3]ひそかに事を行なわなければならない闇です(7節)。

つまり、神よりも人を恐れる闇です。

これはさらに深い闇に陥れられます。

「人をお恐れると罠にかかる」(箴言29:25)

[4]言葉と心が裏腹という闇(8節)。

これは良心を傷つける闇です。

ヘロデは「私も行って(キリストを)拝むから」と言っていますが、実は殺すために行きたかったのです。

最も恐ろしい闇はイザヤが言っている闇です。

「彼らはやみを光、光をやみとし」と言っている闇です(イザヤ5:20)。

ルカ15章の兄息子は、自分は真面目に父に仕えてきた。

だから自分こそ歓迎され誉められて当然である。弟は戒められ捨てられて当然と思い込んでいました。

それが彼が正しいと思った光でした。

しかし、彼は父の愛という光を闇に葬り、闇を光と信じていたのです。

心の闇を照らし、私達を救うためにキリストは来られました。

これがクリスマスです。

当然なこと  ルカ15:25~32

クリスマスが近づいてきました。

子供の頃、プレゼントをもらうのが当然の日と思っていました。

クリスマスに限らず、案外“当然”と思っていることが多くあります。

ルカ15章を通して当然を見直して見ましょう。

[1]兄息子の言い張っている当然があります

彼の思っていることは、

①長年まじめに父に仕えて来た(29節) 

②その自分に対して、友達と楽しめと言って子山羊一匹下さったこともなかった(29節)

③それなのに、身代を食い尽くして帰って来た弟息子のためには子牛をほふって歓迎している(30節)

④父はその弟息子を戒めないで私をなだめ説教している(28節) 

つまり、放蕩に身を持ち崩した弟息子は戒められて当然。

私こそ歓迎され、ほめられて当然な者ではないか。

これが彼の当然です。

[2]兄息子が間違って当然と思い込んでいたことがあります。

それは、31節の父親の言葉で明らかにされるものです。

「おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ」 

小山羊や子牛どころか、全てのものを豊かに与えてくださる愛なる神が居られます。

私達は、その神に愛され、守られています。

これを当然と思い込むと、人間は神から離れます。

そして苦しみが始まります。弟息子は、その苦しみを味わいました(13~16節)。

[3]父親の当然があります

それは、32節の父の言葉です。

「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。

いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」 

父なる神は、飼い主である主御自身に心を向けて立ち帰る者を喜んで受け入れ、歓迎されます(イザヤ1:2~3)。

これを当然のようにしてくださる愛なる神を見上げましょう。

いのちの源である神に立ち帰るためにイエス・キリストがこられました。

これがクリスマスです。

神さまの約束  イザヤ9:1~7

キリストの誕生を祝うクリスマスを前にしています。

キリストの誕生は、偶然の出来事ではありません。

聖書で約束された出来事です。

イザヤは、キリストの生まれる700年も前の人物ですが、

彼も救い主キリストの誕生を記した預言者の一人です。

[1]約束されて生まれた人が聖書には出てきます。

アブラハムが99才の時に、神は彼に男の子が生まれることを約束しました(創世記17章)。

生まれたのがイサクです。

同様に、子供のいなかたマノア夫妻に神は男の子が生まれることを約束されました(士師記13章)。

約束通りサムソンが生まれました。

[2]イエス・キリストは、約束して誕生されました。

イザヤは、9章6節でキリストの事を次のように預言しています。

①男の子である。つまり人間として来られるという事です。

②力ある神である。神であるのに人間。

人間なのに神、それがイエス・キリストです。

つまり、神のことも知っている。

人間のことも分かる。

神と人間の橋渡しができる・・それがイエス・キリストなのです。

③平和の君である。

私達に平安を与えてくださる神が来られるとイザヤは預言しました。

しかし、何よりもキリストは「やみの中を歩んでいた民」の「大きな光」として来ることをイザヤは言っています(2節)。

つまり、罪に支配されたこの世に、人々の救い主として来られるという事です。

クリスマスは、私達に光と希望を与える神の約束の成就です。

[3]私達一人一人も、神の約束によって生まれた者です。

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです」(ガラテヤ4:28)。

だから、キリストは十字架にかかり、私達が滅び失せないようにしてくださいました(ヨハネ3:16)。

神の約束は確実です。

その約束のみ言葉によって、この世の暗さの中、あなたも確実な歩みをすることができます。
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