待つことを学ぶ  詩篇62:1~8

イスラエルの荒野の旅を導いたものは、雲の柱と火の柱でした。

彼らはそれらによって進むことととどまることが求められました。

アブラハムは、住み慣れた地を離れて進みました。

カインは主のみ言葉を聞いて待つことに失敗しました。

今日の聖書は、待つことで勝利したダビデの詩篇です。

[1]ダビデは待ちました(1節)。

彼は先代の王サウルに追われ、息子アブシャロムに追われる経験をしました。

そのような中で彼はじっと待ちました。

彼にとって「待つ」とは

①「黙る」事です。

神に対して祈り、つまり口を開きますが、つぶやかず疑わずひたすら黙って待ちました。

②「神を待ち望む」ことでした。

それは、神に期待することです。

[2]ダビデの「待つ」には根拠がありました(2節)。

①神が「岩」「やぐら」「救い」であるという事実です。

②自分は「ひとりの人」に過ぎないという事実です。

先週も読みましたように、人は「風がそこを過ぎると、

それは、もはやない」というはかない草花のような者です(詩篇103:15)。

だからこそ、彼は、神の存在が大きく見えました。

そして、信頼と期待がが湧いてきました。

[3]ダビデの「待つ」には余裕がありました(3~7節)。

つまり、いらいらしたり恐る恐る待っていたのではありません。

①圧倒する敵に向かっていきました(3~4節)。

そして、敵の姿を見通していました。

②自分に向かって確信持って言い聞かせました(5~7節)。

つまり、キリストにある自分を見直し、自分を励ましたのです。

③人々に向かいました(8節)。

人々に対して、「神に信頼せよ」と叫んでいます。

それは、信頼して大丈夫という事を彼自身が味わったからです。

その神があなたとも共に居られます。

「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら」(2節)
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主の同情 ルカ7:11~17

ルカ7章の初めには、百人隊長のしもべが死ぬような病気になっていることが記されています(1~10節)。

そして、11節以降に一人息子を亡くし、やもめとなっていた母親がでてきます。

私達はやがては死に直面します(ヘブル9:27)。

明日のことが分からない者です(ヤコブ4:14)。

そして、草花のように空しくはかない存在です。

「人の日は、草のよう。野の花のように咲く。風がそこを過ぎると、

それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。」(詩篇103:15~16)。
 
しかし、全能の神であるキリストは、人としてこの世に来られました。

そのような弱い私達に同情してくださる御方です。

息子を亡くした母親を「見て」、「かわいそうに思い」、「泣かなくてもよい」と言われました(ルカ7:13)。

この「かわいそうに思う」という原語は行動を伴う深い同情を表す言葉です。

キリストは、息子を納めた棺に①近づき ②手をかけ ③み言葉によって息子を起き上がらせました。

キリストは、はかない存在である私達をそのままで受け入れてくださる神です。

そして、そのままにはしておかれない愛と力に富んだ神です。

 何よりも、キリストは滅びに行くべき私達をかわいそうに思い、お救いくださいました。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。

それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)
 
その賜物を受けた者として愛と憐れみの人生を送りましょう。

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」(同10節)。

行く先を知らないで  マルコ4:35~41

 アブラハムが行く先を知らないで、主の告げられたとおりに旅立ったことを先週読みました(創世記12章)。

私達クリスチャンも今そのような旅を続けております。この旅は・・

[1]向こう岸へ渡る旅です(35節)

キリストは弟子たちに「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われました。

私達にとって向こう岸は、1日先、あるいは何十年という先の事かも知れません。

それは、より深いキリストとの交わりの世界です。

私達が今の信仰状態にとどまることなく、さらにキリストの御姿に引き上げられる地点です。

そして、真の向こう岸は永遠の神の国です。

[2]突風で死にそうな事もある旅です(37節)

キリストと旅をしているのですが、思わぬ突風も吹きます。

向こう岸である神の国に入るまでは死ぬようなこともあります。

正に行く先に何が起こるかを知らない旅を私達は続けております。

[3]信仰の訓練の旅です(38節)

恐ろしさの余り弟子たちは「わたしたちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」と叫びました。

これに対してキリストは「信仰がないのは、どうしたことです」と戒められました(40節)。

キリストは風をしかり、弟子たちもしかったのです。

なぜなら、彼らは、苦境の中で信仰によって祈ることを忘れました。

不信仰になって愚痴をこぼしてしまいました。

キリストの前にへりくだり、恐れない信仰を訓練されるべきです。

[4]主が立ち上がってくださる旅です(39節)

キリストが起き上がり風をしかりつけると、「大なぎになった」とあります。

この世では想定外のことも起こりますが、突風が大なぎになるような予期せぬことも起こります。

私達には知り得ない主の御業が待っています。

 行く先を知らない私達の乗った人生という舟にはキリストも乗っておられます。

向こう岸を目指して歩み続けましょう。

行く先を知らないで  創世記12:1~9

創世記1章で天地が創造され、神のかたちに人が造られました。

しかし、3章で最初の人アダムが罪を犯し、4章では彼の子カインに罪は伝わっていきます。

正に人間の歴史は罪の歴史とも言えます。

しかし、12章で神はアブラムを祝福の基として選び、彼の子孫から救い主を誕生させて、

人々を完全に救う計画を立てられました(2~3節)。

神はアブラム(後にアブラハム)に言われました。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、

わたしが示す地へ行きなさい」(1節)。

彼にとって、これは大変な事です。

人間は命令を受ける際にまず考えることがあります。

その一番大きなことは「なぜ」ということです。

アブラムもこの「なぜ」を考えたと思われます。

[1]なぜ住み慣れた故郷の地を出なければならないのか(1節)。

そこは、親しい親族もおり楽しく過ごせるところです。

カインが「エデンの園」を選んだように(創世記4:16)、

神の目から離れて過ごす方が楽なように感じることがあります。

しかし、神は私達に世と聖別された生活に導かれます。

[2]なぜ75才にもなった私に、神は出て行けといわれるのか(4節)。

他の人ではなく、なぜ私に?とアブラムは思ったことでしょう。

私達も、他の人よりも自分が苦労しているように見える時があります。

しかし、神のご計画は最善です。キリストは言われました。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、

自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:25)。

[3]なぜ神は行く先を告げないで出て行けと言われるのか(ヘブル11:8)。

これがアブラムにとって最大の「なぜ」でした。

私達は信じたら本当に幸せになるのか?

 一体自分の将来はどうなるのか? 

私達の生涯にはたくさんの「なぜ」があります。

「自分を捨てる」とはあらゆる「なぜ」を捨てる事です。

アブラムは「主がお告げになったとおりに」出かました(4節)。

み言葉に従って進むところに祝福があります(7節)。

確信もって人生の旅を続けることができます(9節)。
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