信じ続けなさい  

 マルコ5:21~24  35~43 

 公生涯のイエス・キリスト名声は高まり、そのもとには常に大勢の人々が集まってきました(21節)。

その中に、ユダヤ教の会堂管理者ヤイロがおりました。

彼は名誉も何も捨ててキリストの「足もとにひれ伏し」懇願しました(22節)。

娘が死にかけていたからです。

キリストは彼と出かけられましたが、

使いの者がやって来て、娘が死んだことを告げます。

「なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」と(35節)。

キリストを信じない者にとって、死は終わりです。万事休すの出来事です。
 
しかし、キリストはヤイロに言われました。

「恐れないで、ただ信じていなさい」。

「恐れないで」とは文法上からすれば「今、恐れるのを止めて」という意味です。

キリストを見上げる時、今私達は恐れから解放されます(ヨハネ14:1 ローマ8:31)。

「信じていなさい」は「信じ続けなさい」という意味です。

このキリストのみ言葉に対して、ヤイロは正しく応答しました。

再び彼はひれ伏してキリストに嘆願します。

「私の娘がいま死にました。

でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。

そうすれば娘は生き返ります」(マタイ9:18)。
 
信じた者にとって、死は終わりではありません。

キリストによって私達は「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。

死よ。おまえのとげはどこにあるのか」という事が出来るのです(Ⅰコリント15:55)。

キリストはヤイロの娘を起き上がらせました(42節)。

イエス・キリストは罪に打ち勝ち、死に勝利した神の国の王です。

病人をいやし、私達をあらゆる思い煩いから解放してくださる救い主です。

そのキリストのみ言葉に応答しましょう。

「恐れないで、ただ信じていなさい」(36節)。
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主を待て  創世記4:5~16  

 「待ちぼうけ」という古い日本の歌があります。

これは中国の説話を北原白秋が歌にしたものです。

あてにならない「待つ」ことの愚かさが歌われています。

聖書には真の「待つ」態度があります。

以前読みました創世記4章のカインは自分の献げものが受け入れられませんでした。

しかし、弟アベルの献げものは受け入れられたのです。

そこで彼はアベルを殺しました。

彼に語られた神の言葉と彼の応答を見ると、「待つ」事の大切さが分かります。

7節:「あなたが正しく行ったのであれば・・・」

この時、カインは受け入れられたアベルをうらやましく見ていました。

アベルの供え物よりも、一生懸命育てた自分の供え物(作物)を見ていました。

もし、自分が正しい動機で献げたか否か、静まって考えていたら結果は違っていました。

真の「待つ」とは自分の心と向き合う事です。

12節:「土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。

    あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となる


神の言葉を無視してカインは弟アベルを結局殺しました。

そして、その罪を犯した結果、彼が受ける報いが告げられました。

彼はその刑罰が恐ろしくて「私の咎は、大きすぎて、にないきれません」と言いました(13節)。

彼は罪の結果よりも、自分が犯した罪の大きさを見るべきでした。

そうすることで彼は神の憐れみによって生まれ変わるチャンスがあったのです(詩篇139:23)。

15節:「そこで主は、彼に出会う者が、誰も彼を殺すことのないように一つのしるしをくださった

アベルを殺したことで復讐されるのではとの彼の恐れに対して神は憐れみを施されました。

「待つ」とは、神の言葉の前にへりくだることです。

神はへりくだる者に恵みを与えられます(ヤコブ4:6)

 様々な事を通して自分の心と向き合いましょう。

主を見上げましょう。

主を待つ時があります様に。

 私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
 
 主のあわれみは尽きないからだ。

 それは朝ごとに新しい。
 
 「あなたの真実は力強い。

  主こそ、私の受ける分です」と。

 私のたましいは言う。

 それゆえ、私は主を待ち望む。


(哀歌3:22~24)

私達の雲と火の柱  Ⅱ歴代15:1~15

イスラエルが荒野を旅行中、彼らは主の臨在である雲と火の柱が進む時に出発しました。

また、とどまる時には宿営しました(民数記9:17)。  

この事は、私達の信仰生活においても進むことと、待つことの大切さを示しています。

[1]「進む」とは神の言葉への応答です

Ⅱ歴代14章で、アサはユダ王国の王となりました。

偶像を取り除きました。

しかし、クシュ人が攻めてくるという苦境に陥りました。

彼は祈りを持って勝利します。

そのような勝利の後に神の言葉がアサに臨みました(15:1~7)。

勝った後・・・その時がサタンの働く時です。

それで、主はアサにみ言葉を与えました。

さらに油断することなく、「強くあって欲しい」とのみ言葉でした(7節)。

この言葉で彼は「奮い立って」信仰を新たにしました(8節)。

単に状況を見て奮い立つこともあります。

感情的に奮い立つこともあります。

大切なことは、み言葉によって行動することです。

アサは、み言葉に応答して進みました。

アサが奮い立って進んだ結果は、喜んで主を慕い求め、喜んで主に仕えている民の姿です(15節)。

さらに、主は彼らに「安息を与えられた」とあります(15節)。

[2]「待つ」とは単にじっとしていることではありません

キリストが十字架に架けられるのを「立ってながめていた」人々がいました(ルカ23:35)。

彼らはキリストに何の危害も加えませんでしたが、キリストから何の恵みも受けませんでした。

私達の主は再びおいでになります。

そのキリストを「待つ」という事は、キリストの前に立つことを願い、備えることです。

試練を耐えることです。

証し人として福音を伝えることです。

また「待つ」とは、神の声を聞いて祈り、自らの心を振り返ることです。

「神よ。私を探り・・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、

私をとこしえの道に導いてください」(詩篇139:23~24)。

あなたは雲の柱、火の柱を見ているでしょうか。

待っているでしょうか。

また進んでいるでしょうか。

カインとアベル   創世記4:1~16

 旧約聖書の創世記は、天地創造や人間の創造に始まります。

また、罪がこの世に入った記録でもあります。

4章では、カインが弟アベルを殺すというこの世で最初の殺人事件が起こりました。

彼らは平凡な家族の一員であり、日常の生活を営んでいたと思われます(1~2節)。

そのような中で、カインがアベルを殺すという悲しむべき事件が起こりました(8節)。

この事件の経過を見ますと以下のようになります。

[1]カインとアベルは、神に供え物をしました(3~5節)。

カインは自分が耕作している畑から作物を、アベルは自分の飼っている羊を献げました。

しかし、神はアベルの供え物に「目を留められ」ましたが、カインの供え物は受け入れられませんでした。

その原因は彼らの供え物の違いではなく、供える彼らの心の内にあったと思われます。

アベルは羊の中の良いものを選んで献げましたが、カインは単に「持って来た」とあります。

カインはそこで神の前にへりくだり、感謝を持って献げるという心を育てるべきでした。

[2]カインは、「ひどく怒り、顔を伏せた」とあります(5節)。

[3]神はカインに語り掛けられました(6~7節)。

・「なぜ、あなたは憤っているのか」と。

 カインの心は自分の行為を受け入れてくれない神に不満を持っておりました。

 アベルを妬ましく思いました。

 彼が自分の内にある不信仰とねたみの罪を認めるチャンスでもありました。

・「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる」と言われました。

 ここで彼は神に対して感謝の無い自分の心を見るべきでした。

 神の言葉に応答してへりくだる時に豊かな恵みがあります。

 そして、その人は変えられるのです。

・「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている」と警告されました。

 彼は、これらを無視して罪を犯してしました。

確かに人間はこの世において誘惑を受けます。

しかし、自分の弱さを認め、キリストの警告を受け入れ、キリストの御言葉で勝利することもできます。

世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(Ⅰヨハネ5:5)。
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