辛い時に  ヨハネ11:1~17

 辛い時に何を思うべきか・・・聖書の記事から考えましょう。

1節:「ある人が病気にかかっていた」

聖書では「ある人」ですが、これは私達の問題でもあります。

誰もが遭遇するような問題に、イエス・キリストがどのように介入されるかが大切なのです。

3節:「あなたが愛しておられる者が病気です」

神に愛されていても、病気にもかかりますし、災難にも合います。

大事なことは、その辛いことを通して自分が神に愛されているということをさらに体験でき、

さらに神に近づけるという事です。

「悲しみはあまりに貴いので、無駄にできません」(カウマン夫人)。

4節:「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のため・・神の子がそれによって栄光を受けるためです」

これはキリストのことばです。

私達の信じている神は真実、唯一、義であり愛の神、そして生ける神、つまり復活の主です。

たとえ辛い人生であったとしても死で終わらせるようなものではありません。

私達は辛いことを通して復活のキリストを体験的に知ることになります(Ⅱコリント1:8~9)

6節:「そのようなわけで、イエスは・・・そのおられた所になお二日とどまられた」

ある人、つまりラザロが死に瀕していることをキリストは知っていました。

しかし「そのようなわけで」ラザロの所に行かずに2日間も動かれませんでした。

結局その間にラザロは死んでしまいました(17節)。

人間の理屈から言えば、キリストはラザロの死ぬ前に行って、彼を助けるべきと思います。

しかし、私達には分からないさらに勝る神の「わけ」があることを知るべきです。

15節:「私がその場に居合わせなかったことを喜んでいます」 

結局キリストが居合わせた場は、ラザロが墓に入れられて4日目でした。

しかし、キリストはそのラザロを死からよみがえらされました(44節)。

キリストは辛いことを通してでもご自分の栄光を表されます。

そして、ご自分の栄光が現される場を喜びとされるのです。

たとえ辛くても、あなたの人生は神の栄光の為であることを知ってください。

そして、そのように信じるあなたを主は喜ばれます。

辛い時、あなたのすべてをご存じの神をほめたたえましょう(詩篇57:2)。
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私達はキリストの友  ヨハネ15:18~20

キリストはキリストにある私達を友と呼んでくださいます(14節)。

私達はキリストの友となった者です。

そのキリストの友をこの世は憎みます(18,19節)。

迫害もあります(20節)。

「この世」とは一体どのようなところかを明確に示した記事が聖書にあります。

それは、ルカ23章のキリストが十字架につけられた記事です。

33節に「そこで彼らは、“イエスと犯罪人とを”十字架につけた」とあります

 つまり、世は罪なき神と犯罪人を同じにするのです。

間違えば犯罪人が神として崇められることもあります。

何が善であり、何が悪であるかの区別があいまいにされているのがこの世です。

34節に「父よ。彼らをお赦しください。

彼らは、“何をしているのか自分でわからない”のです」とのキリストの祈りがあります。 
 
神から見たこの世の人は自分がしていることが分かりません。

神に創造されたことを知りません。

何のために生かされているのかも、永遠をどこで過ごすかも知らないで生きています。

34節後半に、「彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた」とあります

人々は、神の下さる救いよりも“着物”が良いと思います。

神なんかどうでも良い。財産、良いもの、健康、良い環境あってこその人生と思っております。

35節に「民衆はそばに立ってながめていた」とあります

 キリストの与える救いに対して心を動かさない・・その無関心が神に対する罪であることを人々は知りません。

35節後半に「指導者たちもあざ笑って言った。・・・『自分を救ってみろ』」とあります

 彼らは自分が救われなければならない罪人であることを知りませんでした。

その罪と憎しみから生じたあざ笑いです。

36~37節で、「兵士たちもイエスをあざけり・・『自分を救え』と言った」とあります

 指導者たちのあざけりは、それを聞いた人々に早速伝染しました。

まことに世は不信仰に支配されていると言えます。

そのような神を見失い、罪に汚染された世から救ってくださったキリストをほめたたえましょう。

そのキリストを宣べ伝えましょう(エペソ2:1~5)。

キリストの友として   ヨハネ15:12~17

 私達はキリストのうちにある者です。

朱に染まる、血が通う、そして切っても切れない関係の中にある者です。

さらに、キリストの友という関係の中にある者です。

[1]友は「共」である。(14~15節)

日本語の「友」と「共」は語源が一緒だそうです。

友とは共通・共有するものがあるということです。

共通する度合いによって友の関係の深さも変わります。

クリスチャンは「世の友」となる時、「神を敵」とするものも共有しますので、気を付けるべきです(ヤコブ4:4)。

キリストは私達の「共」となってくださいました。

人間の体を共有してくださいました。

悩み、苦しみだけでなく、私達の最大の悩みである罪と死に立ち向かってくださいました。

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。

それによって私たちに愛がわかったのです。」(Ⅰヨハネ3:16)。

[2]友は自分で選ぶものである。(16節)

青年達を連れて一か月のイスラエルのキブツの滞在を終えた時、

一人のユダヤ人に「来年また青年達を連れてきます。

どうぞ友達になってください」と言いました。

すると彼は険しい顔で「お前が連れてくる日本人が私の友達がどうかは、来年私が決める。

お前が決めるものではない」と言いました。

確かに彼の言う通りです。

友は自分で、自分の好みで決めるものです。

キリストは私達のすべてをご存じです。

しかし、私達神に敵対する者を友として選んでくださいました。

御自分を裏切ることが分かっているユダにでさえも「友よ」と呼び掛けられました(マタイ26:50)。

私達はキリストに選ばれたキリストの友なのです。

[3]友は愛し合うものである。(12,13,17節)

ヨブ記を見ると、彼の友人たちが重病の中にあるヨブを慰めに来たとあります。

彼らは犠牲を払ってヨブのところに来ましたが、結局ヨブを批判し彼を苦しめることになりました。

愛は友情以上のものです。

己を捨て、相手の立場に立つものです。

敢て自分の言いたいことを捨て、己を捨てて相手のために執成すものです。

教会はキリストの友として召された者達の集まりです。

私達はキリストの友として、そしてぶどうの木の枝としてキリストにつながっている者です。

折れやすい、傷つきやすい枝ですが、相手の弱さ、過ちを自分のものとします。

それを共有し愛の木つまり教会となるのです。

あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです」(15:17)

  悔い改めて生きよ

聖書:使徒4:32~5:11

 初代教会は、聖霊によって誕生し、聖霊によって成長していきました。

それは、次のような聖句で分かります。

「信じた者の群れは、心と思いを一つにして」いました(4:32)。

「主イエスの復活を力強くあかし」していました(同)。

財産を売って献げる者もあり、彼らは貧しい人々を助けました(34~37節)。

そのような恵まれた教会にも悪魔(サタン)は働きます。

アナニヤとサッピラ夫婦は、地所を売りその代金の一部を献げました。

売上金のどれだけを献げるかは自由です(4節)。

しかし、彼らは売上代金の一部ではなく、全てを献げたかのように報告しました。

しかも夫婦で共謀してごまかしたのです(5:3、8)。
 
彼らは大きな間違いを犯しました。

第一に

財産の全てを献げている人々を見て、自分達もそのようにささげているように見せかけて人々からの誉れを求めました。

第二に

人を欺きました。

アナニヤの偽りは直ぐに見破られました(3節)。

ペテロの問いに対して、サッピラは売上金全てを献げたと偽りました(8節)。

第三に

彼らは人ではなく神を欺いたことになったのです(4節)。

そのような彼らに神の審きがありました。

アナニヤもサッピラも神に打たれ「息が絶えた」とあります(5、10節)。
 
悪魔が働いているようですが、そのような中に神も働かれます。

人々は神をおそれました(11節)。

神はきよい神です。

罪をあいまいにされません。

人は神をおそれるべきです。

神をおそれる人を神は悔い改めに導かれます。

アナニヤもサッピラにも悔い改めるチャンスがありました。

ペテロを通して神は彼らがしていることに光を当ててくださったのです。

彼らは素直に悔い改めるべきでした。

神はどのような人をも生かそうとして今も働いておられます。

わたしは決して悪者の死を喜ばない

悪者がその態度を悔い改めて生きることを喜ぶ」(エゼキエル33:11)
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