キリストのうちにある私(2) Ⅱ列王5:1~5

 キリストを受け入れた人は、キリストのうちにある者です。

キリストとの交わりは、キリストのように変えられ、キリストとのいのちの関係にある者です。

切っても切れない関係にあることを先週読みました。

この関係の中で父なる神は私達を整えてくださいます。

ナアマンも整えられ、変えられました。

しかし、一気にではありませんでした。

[1]「それでナアマンは・・」(4節)

アラムの国の将軍ナアマンは重い皮膚病にかかっていました。

それを知ったイスラエルの若い娘がイスラエルの預言者の所に行くことを勧めました(3節)。

それでナアマンは、なぜかアラムの王の所に援助を申し出ます。

神のことばを語る預言者の所にすぐさま行こうとの思いが彼にはありませんでした。

[2]「そこでナアマンは・・」(5節)

そこでナアマンは、アラムの王の紹介文と金銀を携えてイスラエルの王の所に出かけます。

王の権威、金銀の力・・・この世はこのようなものが人を支配します。

彼は、神の恵みもそのようなものでうけられると思ったのでしょうか。

問題は、彼の皮膚病ではなく、彼の内側にあるもっと大きな病でした。

[3]「こうしてナアナンは・・」(9節)

預言者エリシャの招きを聞いた彼は、預言者の家にきました。

しかし、馬と戦車が一緒でなければ神の人の前に、否神の前に立てませんでした。

彼の捨てなければならないものが奥深くにあったということです。

[4]「しかしナアマンは・・」(11節)

彼の取り扱いはなおも続きます。

預言者エリシャは将軍の前に表れずに、ヨルダン川に7回身を浸せと言いました。

その無礼な態度と、愚かと思えるような要求に彼は立腹しました。

[5]「そこでナアマンは・・」(14節)

そのナアマンが、彼の家来たちに促されて遂に裸になってヨルダン川に身を浸しました。

即座に彼の悩みは解決したのです。

「きよくなった」とあります(14節)

それで・・そこで・・こうして・・しかし・・そこで・・・・このようなプロセスをナアマンはたどりました。

そしてきよくなったのです。

神はあなたをきよくしてくださいます

カギを握っているのはキリストのうちにあるあなたです

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キリストのうちにある私 ヨハネ15:1~11

 私たちは目的なしには生きられない存在です。

そして、神無しには生きられないものです。

神と共に歩むとき田原米子さんのように「生きるって素晴らしい」という人生になります。

そのキリストとの関係を、ヨハネ15章ではぶどうの木と枝の関係で表しています。

キリストを受け入れた私達とキリストとの関係は

[1]“朱に交われば”の関係です。(1~3節)

このことわざは良い意味でも悪い意味でも使われます。

キリストにある(Ⅱコリント5:17)という人は、きよいキリストに“染まって”いくものです。

なぜなら、キリストとの関係にふさわしくないものを私達は切り捨てたいと思うようになります。

その時、父なる神が「刈り込み」をしてきよくしてくださいます。

「もっと多くの実を結ぶ」クリスチャンとしてくださいます。

[2]血が通う関係です。(4~8節)

キリストは「まことのぶどうの木」です(1節)。

この「まことの」とは模型や絵ではなく「本物」「原型」という忌です。

博物館の恐竜は迫力はあっても、動きません。いのちがないからです。

キリストは本物です。

いのちがあります。

ぶどうの枝である私たちがぶどうの木であるキリストから離れると、

それは形だけの人間になってしまします。きよい動きが出来ません。

しかし、キリストにつながり続けるならば、

神は私達を通してこの世に生きるって素晴らしいという証しをさせてくださいます。

[3]切っても切れない関係です。(9~11節)

キリストは「わたしの愛の中にとどまりなさい」と言われます(9節)。

私達は、奴隷のように神につながっているのではありません。

キリストの愛の中にいるとき、私達の喜びが満ち溢れます(11節)。

その愛の中に留まりたいと思う程、キリストとは切っても切っても切れない関係があるのです。

私達は神の愛の対象として創造されたものです。

キリストのうちにある時、キリストの愛の中に生きることができます

その関係の中に永遠に生きることこそ私達の人生の目的です

生きるって素晴らしい  Ⅱコリント5:17

 証しドキュメントにある田原米子さんは17才の時に死を決意して電車に飛び込みました。

「何のために生きているのか?」

この疑問に答えるものが何もないまま生きていることの絶えられない苦しみからでした。

一命は取り留めましたが、両足切断、手は右手の指三本だけになりました。

しかし、宣教師を通して聖書を読みました。

そしてキリストを受け入れました。

彼女は「指が3本しかない」という人生から「指が3本もある」という生き方に変えられました。

国内外で「生きるって素晴らしい」というメッセージを語るようになりました。

ここで3つの事を教えられます。

[1]人間は目標なしには生きられない

当面の目標はあるかもしれません。

それは学校を卒業することであったり、仕事を成し遂げることです。

子供を育てることです。

そして、その後です。

この世を去る事しかありません。

結局、死ぬために生きている・・・こんな空しいことはありません。

米子さんが悩んだ「何のため生きているか」

これは、全ての人に襲いかかる疑問です。

[2]人間は神様との関係なしには生きられない

そのような苦しみの中で米子さんがたどり着いた素晴らしい生き方がありました。

それは、「キリストのうちにある」という人生です。

「キリストのうちにある」とはキリストとの関係の中で生きるという事です。

その入り口はキリストを受け入れるということです。

私達の罪のため十字架に架かり罪を赦し、

愛してくださったキリストを信じ、キリストにお委ねしながら生きることです。

実は、これが神に創造された人間の本来の生き方なのです。

[3]キリストのうちにあるなら、感謝なしには生きられない

生きるって素晴らしいという事です。

米子さんを苦しめた空しさは過ぎ去りました。

何よりも自分なんか生きていてもしょうがないという、神と無関係に生きようとする「罪」が消えました。

神様との関係の中で生きて行こうとする時、

「すべてが新しくなりました」という感謝の人生が始まります。

キリストを受け入れ、神の愛と励ましの中を歩みませんか?

誰でも救われるか  ローマ10:11~21

 日本人は「私の“家”は仏教です」と言います。

しかし、聖書では必ずしも親の信仰が自動的に受け継がれないことが分かります。

先週読みましたヨシヤ王は信仰持った善良な王でした。

彼の父アモンや祖父マナセは神のことばに従わない王でした。

逆に、ヨシヤの子供エホヤキムは聖書の巻物を切り刻んで火にくべるという悪行を行ないました(エレミヤ36章)。

一体誰が救われるのでしょうか。

神は誰でも救われるのでしょうか?

[1]全ての人を滅ぼすことの出来る神が「誰でも」救おうとされています

「罪の支払う報酬は死」という事は神の原則です(ローマ6:23)。

神は全ての人を滅ぼすことの出来るお方です。

しかし、「彼に信頼する者は(原文:「誰でも」が挿入)、失望させられることがない」(11節)とあります。

イスラエルも異邦人も救われます(12節)。

主の御名を呼び求めるものは「誰でも」救われます(13節)。

福音は全地に響き渡っています(18節)。

反抗する人にも神は招きの御手を伸べておられます(21節)。

[2]人間の側に選択の自由があります

救われる恵みがあります。

「主の御名を呼び求める者」(13節)は救われます。

「戸をあける」者(黙示録3:20)を神は救われます。

全ての人を滅ぼすことの出来る神が「恵み深くあられるから」こその機会です。

[3]信じた私達に求められていることがあります

「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」(14節)

「良いことの知らせ(福音)を伝える人々の足はなんとりっぱでしょう」(15節)。

「無差別テロ」は悲惨ですが、神は無差別に人を救おうとしておられます。

私達も全ての人に福音を伝えるべきです。

主の御名を呼び求める者は誰でも救われるからです。

聖書は宝物   Ⅱ歴代34:1~3

聖書は私達にとって宝物です。

ここに出てくるヨシヤ王は、その宝物を得て、宝物で幸せとなり、そして宝物を活かした人です。

[1]宝物は隠れています(1節)

聖書にも、高価な真珠を捜していて見つけた人、畑を掘っていて偶然宝物を発見した人がでてきます(マタイ13章)。

兎に角、宝は私達の目に隠されたものです。

ヨシヤ王は、父親が家来に殺され(33:24)、8才で王とならなければなりませんでした。

ショックと当惑の中で彼は当時の大祭司により神のみ言葉に教えられたと言われています(34:9)。

彼は宝を見出しました。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)。

聖書は隠された宝物です。

[2]真の宝物はその人を幸せにします(2~節)

「猫に小判」ということわざがあります。

猫に小判を差し出す人は愚かですが、小判に飛びつかない猫は賢い生き物です。

人間は真の宝でないものに飛びつき災いを買っています。

しかし、ヨシヤ王は真の宝に飛びつきました。

そのみ言葉を求めました。

宝で無い物を捨てました(3節)。

その結果「主の目にかなうことを行なって・・・右にも左にもそれなかった」とあります(2節)。

罪に支配されやすい人間にとって、これが真に自由な幸せな生き方です。

[3]真の宝物は活かされるべきです。(14~33節)。

「宝の持ち腐れ」ということわざがあります。

ヨシヤ王の行った神殿修復の工事中に「律法の書」が発見されました(14節)。

書かれた聖書は当時大変貴重な物でした。

彼はそれを読みました(19節)。

御ことばの光に従って生きて行こうと決心しました(21節)。

人々にその神のことばを聞かせました(30節)。

人々は彼に従い「主に従う道からはずれなかった」とあります(33節)。

聖書を宝物とした彼の信仰が人々を活かしたのです。

神のことばはあなたにとって宝物でしょうか?
 
神のことばの素晴らしさを知っているでしょうか? 

神のことばを人々に知らせているでしょうか?
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