罪から救ってくださる方  

マタイ1:18~25

 今日の聖書の個所は、キリスト誕生の記事です。

マリヤとヨセフが「まだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった」とあります(18節)。

ヨセフの正しさ(20節)

彼はマリヤが身重になった時、これを彼女の不品行の罪のせいだとします。

当時このような者に対して2つの処置の仕方がありました。

一つは「さらし者」とすることです。

もう一つは「内密に去らせる」、つまり離婚状を書いて去らせることでした。

いずれにせよ、彼は律法に従い罪を正しく、そして厳しく始末する正しい人間でした。

神の正しさ(21~23節)

そのような「正しい」ヨセフに、神は彼を「思い巡らす」機会を与えました。

真に正しい判断をする機会を与えようとされたのです。

なぜなら、ヨセフ自身も、律法を良いと思いながら、自分は完全に従っていないとの自覚がありました。

律法を人間に与えた神は、罪を裁くだけでなく、「罪から救う」道を備えておられました。

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:17)。

正に、神はマリヤの胎内に救い主を宿されたのです。

預言者によって言われたことが成就するのです。

ヨセフのさらなる正しさ(24~25節)

この理解できないような、神の驚くべき救いをヨセフは受け入れました。

その結果、マリヤを「迎え入れた」とあります。

また、神が言われたように「子どもの名をイエスとつけた」とあります。

彼の“正しさ”が変わりました。

彼は罪人を義とする神を信じて受け入れました。

救い主イエス・キリストを受け入れました。

自分が正しいと思う道ではなく、あるいは自分を正しいとするのではなく、神の正しさに委ねました。

神の言われることを正しいとして、これに従いました。

キリストを信じ、キリストに従う者を神は祝福されます。
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主にある兄弟姉妹  コロサイ4:7~18

獄中書簡であるコロサイ書の最後に、パウロを支えた信者たちの名前が記されてあります。

彼らから教えられる事があります。

[1]テキコについて(7~8節)

彼はパウロの「一部始終を知る」人でした。

世の中は、相手の一部始終が分かるといやになることもあります。

教会は、全てを知っても、互いに励まされて全く一つになれる神の家族です。

[2]オネシモについて(9節)

彼はピレモン書のピレモンの奴隷として働いていた人です。

その彼がなぜか主人の元からローマに逃げ出しました。

そこでパウロと奇跡的な出会いがありました。

オネシモは回心し、やがてピレモンの元に帰りコロサイ教会に仕えました。

[3]アリスタルコについて(10節)

彼はパウロと一「一緒になっている囚人」という不可解な人です。

パウロのエペソ伝道の時に暴動がおきます(使徒19:29)。

この時、パウロと一緒であったために捕らえられました。

パウロがローマに護送される時一緒にいきました。

そして、ローマでパウロの“奴隷”という立場で囚人となりパウロと一緒にいました。

パウロ為に巻き添えとなり、パウロとのかかわり合いになることを甘んじて受けた人でした。

[4]エパフラスについて(12節)

パウロがエペソで伝道した時救われ、故郷のコロサイに帰って教会を設立した信徒伝道者でした。

[5]デマスについて(14節)

彼はこの時には「愛するデマス」ですが、後に「世を愛して離れて行った」人です(Ⅱテモテ4:10)。

反対に、マルコはパウロの働きから去った人ですが、ここでは復活してパウロのもとにいます。

やがて「役に立つ」働き人となりました(Ⅱテモテ4:11)。

お互い関係なかったこれらの人々がパウロを中心とした輪になっています。

しかし、これらの人々を一つにしたものはイエス・キリストの十字架です。

彼らの事を思えば思うほど、キリストの素晴らしさが浮き彫りにされます。

 主にある者(2)  コロサイ4:2~6

 コロサイ書3章には「主にある者」(18節)、つまりクリスチャンの姿が記されてあります。

天に目を向けて、愛し合う歩み(1~17節)。

夫婦、親子、職場の人間関係(18~4章1節)などです。

さらに4章において次のようなことが求められています。

[1]祈りなさい(2~4節)

この世には気休めの祈りがあります。

しかし、聖書は①「目を覚まして祈りなさい」とあります(2節)。

キリストがゲッセマネで祈られた時、弟子たちは眠ってしまいました(マタイ26:40)。

彼らは、キリストが何をしておられ、何を自分たちに求めておられるかに無関心でした。

目を覚ますとは、その反対です。

主の御心を求めて祈りましょう。

再び来られるキリストを待ち望み、祈りましょう。

②感謝を持って祈りましょう(2節)。

詩篇107篇にあるように、感謝は命令であり、物事の出発です。

そして武器です。 

③たゆみなく祈りましょう(2節)。

「たゆみなく」とは、「城壁を崩す」という原語の意味があります。

キリストが嵐に向かって命じたように、様々な問題に向かって祈りで戦いましょう。

④あなたの祈りを必要としている人々がいます(3~4節)。

[2]クリスチャンらしくふるまいなさい(5~6節)。

「外部の人」つまり教会外の人々のつまづきとならないように、「賢い」態度が求められます。

これは消極的な意味ですが、さらに「機会生かして」積極的に証しする必要があります(5節)。

 証しの第一は、クリスチャンの「ことば」です。

「親切」であると共に、ピリッとした「塩味」が求められます(6節)。

塩は塩しかもっていない味を持っています。

またもう一つ他の食材の味を引き立てる働きがあります。

ちょっと塩を加えると甘~いしるこになります。

この世にあってクリスチャンはクリスチャンらしい味を持つべきです。

それは、ことばに表れます。

あなたは「主にある者」です。

周りの人々に何を感じさせているでしょうか。

キリストは生きておられる  ルカ24:13~36


復活されたキリストは私達に見えるでしょうか?

勿論体にある目では見ることができませんが、信仰によって見ることができ、触れることができます。

[1]キリストから見えるようにしてくださいます

二人の弟子が悲しみに沈んでエルサレムから離れようとしていました。

そこに「イエスご自身が近づいて」彼らと歩いてくださいました(15節)。

私達が苦難を前に打ち沈んでいる時、キリストは近づいてくださいます。

ご自身を表してくださいます。

そして、キリストは彼らに話しかけられました(17節)。

彼らは自分たちの問題で夢中になっておりました。

キリストに気づきませんでした。

しかし、そんな彼らにキリストは話しかけてくださいました。

今も、憐れみ深いキリストは、私達が祈ることを忘れて不信仰になっている時でさえも、語り掛けておられます。

[2]私達が積極的にキリストに近づき、キリストが見えるようにしなければならないことがあります

①聖書を読むことです(25~27節)。

キリストを見失った彼らに、キリストは聖書を「解き明かされた」とあります。

この時、彼らは「心が燃えていた」と告白しています(32節)。

御言葉を読むとき、私達は心が燃やされるようにキリストに触れることができます。

②日常生活の中で、キリストは共に居られると信じることです。

「いっしょにお泊りください」と彼らはキリストに頼みました。

その結果、パンを割いているキリストの姿で彼らの目が開かれました。

真にキリストを見たのです。

毎日の生活の中にキリストは居られます。

心の戸を開き、キリストを受け入れ、キリストと共に歩む人に、主はご自身を表してくださいます(黙示録3:20)。

③キリストの名によって共に集まることです(33~36節)。

彼らは、エルサレムに戻りました。弟子たちが集まっているところに帰りました。

その真ん中にキリストは立たれました。

キリストは私達の見える所におられる神です。
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