都上りの身支度 コロサイ3:3~17

信仰生活は楽しいものであり、どのような人にも可能です。

なぜなら、キリストご自身が素晴らしいお方であり、十字架でしてくださったことが素晴らしいからです。

又、信仰生活のゴールである天の都が素晴らしい所だからです。

その都に向かって身支度をしましょう。

[1]行く場所によってふさわしい服が決まります(4節)。

私達は「栄光のうちに」神の前に出るものであり、すでに「天の所にすわらせて」もらっています(エペソ2:6)。

キリストの前に出るためにふさわしい衣(心構え、品性と行い)に着かえましょう。

[2]着かえるためにまずすべきことは、脱ぐことです(5~8節)。

普段着の上に礼服を着ることは出来ません。

まず、汚れた服を脱ぐことです。

私達は何を脱ぐべきでしょうか? 

「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼり・・・」(5節)。

「怒り、憤り、悪意、そしり・・恥ずべきことば」(8節)とあります。

これら生まれつき身に着いたものを脱ぐべきです。

秘訣は17節にあるように「主イエスの名によって・・主によって」です。

つまり①主により頼み 

②主に倣って(コロサイ3:10)

③主の栄光のために という信仰です。

[3]脱いだら着ることです(9~17節)。

私達の着る服は 「新しい人」(10節)です。

それは「同情、慈愛・・」(12節)、忍び合い、赦し合い・・」(13節)、

「愛」(14節)、「キリストの平和」(15節)「賛美・・」(16節)、「感謝」(17節)です。

しかも、これらの服は神様が私達の為にすでに用意しておられます。

マタイ22章には王の宴会に突然招かれた客が礼服を着ていなかった為に放り出された記事があります(8~14節)。

厳しい処置のようですが、実は王は宴会の席に礼服を準備しておりました。

放り出された人は、その王の服を拒否したのです。

私達はやがて天の都で愛するキリストにお会いします。

あなたの服は汚れていないでしょうか? 

都上りの身支度をしましょう
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キリストにある歩み(3)  コロサイ2:16~3:2

信仰生活の出発点はキリストを受け入れることであり、

受け入れた人はキリストにあって歩むことで成長します(2:6)。

キリストにある歩みは可能です。

先週見ましたように

①キリストが素晴らしいお方だからです。

そして②キリストがしてくださったことが素晴らしいからです。

さらに、③信仰生活の歩みの目標が素晴らしいからです。

それは地上のものではなく、「天にあるもの」だからです(3:2)。

[1]地上のものとは(16~23節)

それは、「用いれば滅びるもの・・人間の戒めと教えによるもの・・

肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないもの」です(2:22~23)。

たしかに旧約のイスラエルの人々には神が与えた律法や儀式がありました。

しかし、それらは真の救いを与えるキリストを示すものでした。

儀式そのものには罪人を救う力はありませんでした(16~17節)。

人間の考え出したものは、一見安心を与えるようなものがありますが、絶対大丈夫というものがありません。

[2]天にあるものとは

天とはキリストが引き上げられた場所です(Ⅰテモテ3:16)。

キリストはそこから私達を引き上げて下さることができます。

ですから、天とは私達の国籍です。

永遠の住家です(ピリピ3:20)。

そこには滅びない私達の財産があります(ヘブル10:34~39)。

そして、何よりもそこにはキリストが「神の右の座を占めておられます」(3:1)。

「神の右の座」とは①権威と支配の場です(Ⅰペテロ3:22)。

キリストは、巨大地震が起こるか否かを含めてこの世のあらゆる事を支配し、コントロールしておられます。

②信じた私達のために執成しをし、必要なものを提供していてくださいます(ローマ8:33~34)。

このイエス・キリストを見上げましょう。

天にあるものを思いつつ、キリストにある歩みを続けましょう。

キリストにある歩み(3) コロサイ2:8~15

「キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」(2:6)。

キリストを受け入れる決心をした人は、信仰生活に進むことが大切です。

信仰と日常生活は別々ではありません。

信仰によって生活することは可能であり、楽しいものです。

なぜなら

[1]キリストには「神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っている」からです(9~11節)。

もともと人は神のかたちに創造された者です(創世記1:27)。

神の持っておられるきよい性質を宿すものとして創造されました。

その人間が堕落して神のご性質を失いました。

イエス・キリストはそのかたちを宿したお方です(9節)。

しかもそのかたちを私達に付与することの出来るお方です(Ⅱコリント3:18)。

私達はキリストのように歩める者とされています。

[2]キリストが十字架によってしてくださった事があるからです(12~15節)。

①キリストを受け入れた者がキリストと共に死んで、共によみがえらされています。

新しく神の子として出発できるようにされました(12~13節)。

②私達を罪に定める証書が無効となりました(14節)。

③私達を恐れさせている人間の敵が「捕虜」となりました(15節)。

檻の中のライオンが怖くないように、死も病も最早怖いものではありません。

④自分の内側にある敵が「捕虜」となりました(11節)。

それは「肉」とか「己」と言われる堕落した人間の罪の性質です。

その敵がキリストの十字架によって解決されます。

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、

十字架につけてしまったのです」(ガラテヤ5:24)。

勿論、キリストを受け入れた私達には弱さがあり、試練もあります。

食欲など正しい欲望も必要です。

これらは十字架に釘づけられたものではありません。

弱さを共に認め、共に祈り合う歩みも必要です。

み言葉は、キリストにあって正しく歩むことを教えます。

「主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」と。

キリストにある歩み コロサイ2:8~15

コロサイ1章で御子イエス・キリストについて、また福音について基本的な事を学びました。

この2章を読んでいきますと、順次のようなことについてパウロは述べております。

[1]教会はキリストの愛によって結び合わされたもの(1~2節)。

パウロはコロサイだけでなく、他の教会のことを思い「苦闘している」と述べています(1節)。

しかも、牢獄の中で彼は教会を思い「苦闘」していました。

それほど教会はパウロにとって、否キリストにとって大切な存在です。

なぜなら、教会は「キリストの血をもって買い取られた神の教会」だからです(使徒20:28)。

教会はキリストの十字架の愛によって結び合わされたものです(2節)。

世の仲良しグループや同志の集まりではありません。

罪赦された者達によるキリストの体を形成する共同体です。

[2]教会に結び合わされたものは、キリストが分かります(2~3節)。

キリストは「奥義」です。

隠されたものですが、教会の交わりの中にキリストがおられます(マタイ18:20)。

そこでお互いがキリストを知ることになります。

[3]キリストが分かると、信仰が堅くなります(5節)。

[4]信仰が堅くなると、キリストによって歩めるようになります(6~7節)。

「キリストにあって歩む」(6節)とは7節にあるような次のような歩みです。

①キリストの中に根ざした歩み。

この「根ざし」は受身の進行形です。

「キリストの中に根を下ろさせていただきながら」という意味です。

聖書を読み、教会生活をしていると根がキリストに向かって伸びていくのです。

そして

②その人の人格が「建てられ」実をを結ぶ歩みになります。

③信仰がさらに堅くされます。

④感謝にあふれる歩みとなります。

なぜなら、キリストが自分を贖ってくださったという事が土台となっているからです。

木は根で支えられています。

信仰の根をキリストにしっかりと下させていただきましょう。

そしてキリストにあって歩む者とさせていただきましょう。

ヨハネの質問  マタイ11:2~6

聖書には、キリストの弟子のヨハネとキリストに洗礼を授けたヨハネが登場します。

後者はバプテスマのヨハネと呼ばれています。

そのバプテスマのヨハネについて学びましょう。

彼はキリストの前に遣わされて人々に悔い改めを説き、人々に洗礼を授けていました(マルコ1:4~5)。

キリストご自身も彼から洗礼を受けられました。

私達の模範となるために、「すべての正しいことを実行する」ためです(マタイ3:15)。

ヨハネは、直接キリストが救い主であると人々に紹介しました。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と(ヨハネ1:29)。

そのヨハネが投獄されます。

当時ガリラヤ地方の領主であったヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロデヤを妻としていました(マルコ6:16~17)。

そのことをヨハネは責めて悔い改めを迫りました。

ヘロデはこれを聞き入れずにヨハネを投獄しました。

その牢獄の中から、ヨハネはキリストに質問しました。

「おいでになるはずの方は、あなたですか。

それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」という質問です(マタイ11:3)。

この質問には様々な意味が込められています。それは

ヨハネ自身の質問であったという事です

人々に悔い改めを説き、キリストに洗礼を授け、人々にこのお方が救い主であると示したヨハネです。

そんな彼も、投獄という苦難の中で疑問が湧きました。

私達も状況によっては信仰に立って行けない弱さを感じることがあります。

クリスチャンとなっても誘惑の無い世界を生きているのではないということです。

彼は、即座にこの疑問をキリストにぶつけました

つまり自分で悩み、考えなかったことです。

全ての問題の解決の源はイエス・キリストです。

③彼は、キリストからの解答、つまりみ言葉を与えられました

私達がキリストに求める時、キリストは今でもみ言葉によって答えてくださいます。

聖書の言葉は私達に平安をもたらします。

だれでも、私につまずかない者は幸です」(6節)
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