わたしの主  詩篇4篇

この詩篇は3つの区分に分けられます。  

[1]信頼の祈り(1節)

この詩篇を記したダビデは、神に向かって「私の義なる神」と呼んでいます(1節)。

自分の生涯を振り返った時、彼は自分の罪、失敗を認めました。

自分は神の前に出られるような者ではない事がわかりました。

しかし、そんな自分を義とし、弁護してくださる神、「私の義」なる神が居られることも分かりました。

[2]神に反逆する者への警告(2~5節)

神に反逆しているとは、「私の栄光」(2節)ではなく社会的、個人的な栄誉を根拠としているということです。

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」とキリストは言われました(ヨハネ4:13)。

この世では「むなしいもの」や「まやかし」(2節)がいつの間にか私達の心を満たそうとして働いています。

そのような中で、神は私たちを特別に取扱い(3節)、「おそれおののけ」と警告されています(4節)。

「主に拠り頼め」と勧めています(5節)。

[3]主に信頼する者に与えられる喜び(6~8節)

この詩篇の記者は、どんなに富める収穫を得た人々よりも大きな確実な喜びを体験しています(7節)。

これは私達が信じた時に受ける永遠のいのちによる喜びです。

「明日はどんな日か私は知らない」という賛美がありますが、そんな明日をも主の手に任せられる真の平安があります(8節)。

「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。

私の主。

神は、私の力。

私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる」(ハバクク3:18~19)

イエス・キリストを「私の主」とした生涯を送らせていただきましょう
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コロサイ教会に学ぶ  コロサイ1:1~8

 使徒パウロは、3回にわたり伝道旅行をしました。

エペソで伝道した際に(使徒19章)、エパフラスが救われました。

やがて彼は自分の町コロサイに帰り教会が建てられたと言われています。

伝道旅行の後パウロは捕らわれの身となり、ローマに護送されました(使徒28章)。

そのローマの牢獄からコロサイの教会に送られたのがこのコロサイ人への手紙です。

 この手紙からコロサイ教会の姿がわかります。

[1]忠実な聖徒の集まりであった(1~2節)。

この「聖」は、「聖人」の聖ではなく「聖別」の聖です。

つまり、汚れ無き天使のような者という意味ではなく、

「神のみこころ」によってこの世から選ばれ、聖別された人々です。

神は私達自身の能力や行いによって選ばれたのではなく、

ご自身の一方的な憐れみと恵みによって私達を救ってくださいました。

コロサイの信徒は、その神の憐れみと選びに対して忠実に仕えていた人々でした。

[2]信望愛にあふれた教会でした(3~5節)。

「信」の対象はイエス・キリストです。

「望」の対象は御国です。

「愛」の対象は信じた者同士です。

信仰を強調すると対人関係が疎かになります。

人に対する愛を強調すると信仰が疎かになります。

御国にだけ目を留めると実生活が疎かになります。

信仰生活には信、望、愛のバランスが必要です。

[3]福音によって生まれた教会です(6~8節)。

彼らは「届いた」福音を「聞いて」「理解」しました。

そして福音は「広がり」ました(6節)。

このために用いられたのがエパフラスです。

パウロはコロサイに行けませんでした。

しかし、神はエパフラスを用いられました。

聖霊は彼を助けて人々に福音を理解する力を与えました。

さらに全世界に広がっていきました。私

達の教会も福音によって生まれたものです。

そして、福音を広げるために存在しています。

「キリストの仕え人」となりましょう

福音を必要としている人々のために。

御言葉を余すところなく  コロサイ1:25~28

「みことばを余すところなく伝えるためです」
(コロサイ1:25) 

このみことばが私達の教団と教会の今年の標語です。

みことばには深さがあり広さがあり、人知を超えた神様の思いが込められております。

そのみ言葉を十分に味わい、み言葉に照らされ、教えられていく一年でありますように。

[1]神のみことばは「奥義」です(26節)。

有名な画家の絵を見ると、見れば見るほど引きつけられその奥にある魅力に引かれます。

奥が深いからです。

御言葉はそれ以上です。

奥義とは秘められ、隠されているものです。

ですから、聖書を何度読んでも分からな部分がありますが、何度読んでも教えられるものです。

その意味を余すところなく聖霊によって教えて頂きましょう。

人は何かの魅力に取りつかれるものですが、私達はみ言葉の奥深さに目を注ぎましょう。

[2]神のことばはキリストご自身です(27節)。

そのキリストは「あなたがたの中におられるキリスト」であり「栄光の望み」です。

みことばの深さで支えられ、生かされている人は、キリストを内住している人です。

そのキリストがやがて私達の体も栄光の体に変えてくださいます。

[3]神のことばは私達を成長させます(28節)。

この世界は神のみ言葉で創造されました(創世記1章)。

つまり、神のみことばは形となります。暗闇を光に変える力があります(創世記1:3)。

みことばは、罪に慣れ親しんだ私達を内側から変えます。

救われた神の子を「成人」とします。

罪に打ち勝つ強いクリスチャンとなります。

思いが子供から成人になります。

「主は何を私に求めておられるか」という思いを持つクリスチャン(ミカ書6:8)です。

またパウロのように投獄されても、その機会を福音宣教の為と考えるクリスチャンになります(ピリピ1:12)。

 みことばを慕い求めましょう(Ⅰペテロ2:2)

救いを見た人  ルカ2:25~38

 私達は、目に見えない神に創造された者です。

ですから見えないものが見える可能性を持っています。

シメオンが幼子キリストを見た時もそうでした。

[1]見えない神の真実を見ました

それは、何千年も昔から預言された通りに誕生されたキリストです。

神の約束は変わらないという神の真実を見て神をほめたたえました(28節)。

また、神が人間の姿を取ってまでもこの世に来られたという、見えない神の愛を見ました。

[2]そのキリストがやがて十字架にはりつけにされる姿を見ました(34~35節)。

誕生した幼子を抱いている母マリヤに「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう」と言いました。

幼子のむごたらしい死を断言したのです。

救い主は私達の罪を負うために来られたからです。

[3]復活されるキリストを見ていました(34節)。

上述したように、マリヤに幼子の残酷な死を宣告したシメオンでしたが、それは「祝福」の言葉の一端に過ぎません。

キリストの死が復活につながっているからです。

そのような確実な救い主の誕生の為に用いられたマリヤをシメオンは祝福したのです。

[4]自らの将来と永遠の御国を見ていました(29、31~32節)。

この救い主イエス・キリストによって、罪と死が解決されます。

シメオンはその事を信じて自分の将来を確信しました。

ですから「あなたは、あなたのしもべをみことばとおり安らかに去らせてくださいます」と告白しました。

そして、世界中の信じる者が救われて祝福されている姿を見ました。

 私達は、見えないものよりも見えるものに支配されがちです。

将来の祝福された姿よりも過去の思い出が目に浮かびます。

キリストを通して与えられる救いの素晴らしさを見ましょう。 

私の目があなたの御救いを見たからです」(30節)
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