無くてならぬもの   使徒21:7~14

 マリヤの姿は私達に無くてならないものを教えています(ルカ10:39)。

それは、イエス・キリストであり、キリストとの交わりです。

マタイ6章に「主の祈」が記されてあります(9~13節)。

この前半でキリストは

①御名が崇められます様に。

②御国がきますように。

③みこころが行われますように と教えられました。

この事から私達にとって大切なことは私達を救うキリストの御名、キリストの支配である御国、キリストの願っておられるみこころであることが分かります。

[1]主の御名を崇めてその権威のもとに座る時、私達は立ち上がって行けます(詩篇20:7)。              
マリヤはキリストの元に「座した」のですが、理由があります。

マルタはキリストを主と呼びながら結局主に指図をし、マリヤに不満をぶつけました。

これは全ての人の中にある弱さです。

キリストの元に座らないで行動しますと挫折します。

真にキリストからの恵みを受けた人こそ、立ち上がって行けます。

御名の権威のもとにひれ伏しましょう。

[2]主の御国を求める時に勝利があります(黙示録21:7)。

御国とはキリストの支配する領域です。

私達の心の中にキリストはその御国を造り、やがて永遠の御国を建ててくださいます。

私達は、そこに進む者達です。そこを目指す時に勝利があります。

[3]主のみこころを求める時に、主の最善がなされます

3回目の伝道旅行の最後、パウロはみころと信じて危険なエルサレムに向かおうとします。

アガボという預言者は彼の危険を察しておりましたので反対しました。

カイザリヤの信徒達も泣いてパウロに思いとどまるように勧めました。

しかし、人々は結局「主のみこころのままに」と祈ってパウロを送り出しました。

こうして、宣教の働きが拡大したのです。

 主の御名を信じ、その権威にひれ伏し、御国を求めましょう。

主の御心を求めて最善の生き方をさせて頂きましょう。
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主の足もとに座る   ルカ10:38~42

 主の足もとに座ってみ言葉に聞き入っていたマリヤと、もてなしで忙しくしているマルタの姿がここにあります。

クリスチャンには、マルタ型(行動型)とマリヤ型(祈りの人)の人がいます。

一見どちらも私達に必要な事のように思われます。

しかし、キリストは「どうしても必要なことはわずかです。

いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」と言われました(42節)。

[1]教会やクリスチャンにとってどうしても一つの大事なことは、一つです。

即ち、主の足もとに座ることです。

「わずか」と「一つ」の違いは明らかです。

聖書の写本で前記のみことばのようになったことも考えられますが、本来の意味はキリストの言われたように「一つ」です。

[2]マリヤは、主の足もとに座ることを選びました

マリヤは、何となくキリストのみ言葉が聞きたくて座ったのでもなく、仕方なく座ったのでもありません。

それ以前、彼女もマルタと一緒に接待に心を配っていたと思われます(40節)。

いろいろしなければならないことがあったけれども、彼女は「座る」ことを選びました。

[3]主の足もとに座ることを「選ぶ」ためには多大の犠牲が伴います

姉からの批判を受けることも分かっていたと思われます。

忙しい時に「座る」ためには時間との戦いがあります。

また、果たしてみ言葉を聞くことが本当に大切かと言う疑問、つまり価値観との戦いもあります。

[4]主の足もとに座らなかったマルタは接待の道を選びました

しかし、そのことによってマリヤに対する不満だけでなく、キリストに対して不満をぶつける結果となりました(40節)。

彼女はキリストを「主」と呼んでいながら、自分が「主」となってキリストに指図してしまいました。

私達の主はイエス・キリストです。

そのお方の足もとに座り、礼拝し、そのみ言葉を聞きくことをおろそかにする時、私達は大事なものを失ってしまいます。

「一つ」を選びましょう。

あなたのほかに  詩篇73:21~28

 イエス・キリストは、言われました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)。

イエス・キリストは、罪人が生まれ変わる唯一の救いの道です。

時代や状況が変わっても絶対信じられる真理です。

永遠に変わらない、また渇くことのないいのちです。
 
詩篇73篇の記者はそのことを記しています。

「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。

地上では、あなたのほかに私はだれををも望みません」(25節)。

「私にとっては、神の近くにいることがしあわせなのです」(28節)。

ダビデも同じことを言っています(詩篇16:2)。
 
しかし、記者はこの結論に達するまで悩みました。

なぜなら神を恐れない人々が栄えて、平安なように見えたからです。

彼は、うわべのものに目を奪われ、見えないキリストから目を離したからです(Ⅰサムエル16:7 Ⅱコリント4:18)。

その自分を「愚かで・・あなたの前で獣のようでした」と告白しています(詩篇73:22)。

何よりも、彼をしっかりと導かれた主がおられました(23節)。

モーセも自分を導かれた主について次のように述べています。

「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。

わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。

ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった。」(申命記32:10~12)

 あなたを真の幸せへ導こうとしておられるイエス・キリストを見上げてください。

恵みによって  使徒15:1~11

 初代教会は、聖霊によって成長していきましたが、様々な問題も起こりました。

ある時は教会内部から(使徒6章)、ある時は外部からは迫害が起こりました(8章)。

15章では、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間で論争が起こりました。

異邦人クリスチャンはただキリストを信じるだけで救われるということを信じていました。

これは、律法を固く守っていたあるユダヤ人クリスチャンにとっては、受け入れがたいことでした。

このことがエルサレム教会で論議されることとなりました。

この論争で人間にとって「救い」とは何かという事が深められました。

[1]人間は神のかたちに創造されたものです(創世記1:27)。

ですから、人間はどんなに堕落してもどこかで神を求め、清い生き方をしたいと思います。

道徳が叫ばれます。

また様々な宗教もあります。

ユダヤ人は律法の行いや儀式で神に近づこうとしてきました。

[2]しかし、罪深い人間と神との間には越えられない淵があります

どのように努力しても儀式を行っても、越えられない深い淵です。

「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23前半)にある通りです。

[3]人間の側からではなく、神の側からの新しい道ができました

それがイエス・キリストの道です。

キリストは神でありながらこの世に来てくださいました。

十字架で私達の罪を担い死んでくださいました。

復活して天に帰られました。

[4]このキリストを受け入れ信じる人は救われます

キリストを通して神と交わり、永遠の御国に向かって進む者に生まれ変わります。

これが救いです。

「神の下さる賜物は、私達の主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23後半)

エルサレム教会での論争の結論は、信仰のみ、キリストのみというものでした。

ユダヤ人、異邦人に限らずすべての人は、自分の力や律法を守ることで神に立ち返る事はできません。
(使徒15:10)。

私達は「道」となって下さったキリストの「恵みにより」(使徒15:11)、「信仰によって」(15:9)のみ救われるのです

アマレクとの戦い(2)  出エジプト記17:8~16

 エジプトを出たイスラエルがアマレクと戦った記事を先週読みました。

この戦いで用いられたヨシュアは、その後戦うたびに強められました。

私達も戦うたびに成長し力強いクリスチャンとなります。

なぜなら・・・

共におられるキリストを知るからです(出エジプト記3:12)。

共に戦ってくださるキリストを知るからです(同17:16)。そして

共に戦ってくれる兄弟姉妹を知るからです

 モーセが手を上げ続けて祈っていると疲れて手が下がりました。

その時、アロンとフルが椅子となる石をモーセに持って来て座らせました。

私達には、思わぬ敵が来ますが、思わぬ助けも来ます。

また、二人でモーセの手を支えました。

教会の強さは祈り合い、支え合う兄弟姉妹で形成されているということです。

こうして、モーセは祈り続けました。

ここにも私達クリスチャンの力強い姿があります(17:11)。

モーセの姿は

[1]主に明け渡した姿です

杖は襲ってくる敵を打ち倒す武器にもなりますが、彼は持っていた杖を放棄しました。

見える武器ではなく、祈りと言う方法で戦いました。

主に明け渡した姿です。

[2]主の恵みによって戦う姿です

エジプト王パロの前でモーセはこの杖を用いて、数々の奇跡を行いました。

紅海を渡る時もこの杖が用いられました(出エジプト記14:16)。

神は奇跡の神です。

最大の奇跡はキリストの十字架による救い、つまり恵みによって私達が救われるという事です(エペソ2:8)。

主の恵みによって歩みましょう。

[3]祈り続ける姿です

モーセは手を上げ続けました。

“継続は力”という言葉がありますが、信じ続け明け渡し続けましょう。

なぜなら、主は全能の神であり、先頭を行かれる神だからです。

主は代々にわたってアマレクと戦われる」(16節)
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