アマレクとの戦い   出エジプト記17:8~16

 イスラエルがエジプトを出て、モーセに導かれてシナイ半島の南端近くまで来ました。

そこでイスラエルは突然襲って来たアマレクと戦って勝利しました。

この戦いを通して教えられる事があります。

[1]私達の歩みには思わぬ敵がいる(8節)。

エジプトを出たイスラエルにとって正にこれは一難去ってまた一難。

私達の人生にもアマレクが「来る」という事があります。

思わぬ敵の襲来があります。

では、真の敵とは何でしょうか?

貧困でしょうか。

病でしょうか。

聖書はそれらに向かおうとしないつぶやきや絶望と言う「不信仰」が真の敵であることを述べています。

キリストに対する信頼さえあればパウロのように「私を強くしてくださる方(キリスト)によってどんなことでもできるのです」と言う事ができます(ピリピ4:13)。

私達をキリストから離そうとする悪魔の策略に負けてはなりません。

[2]真に戦う人が求められている(10、13節)

ヨシュアは戦いました。そして「打ち破った」とあります。

つまり彼は戦わなければ得られない勝利を勝ち取ったのです。

ヨナはニネベの宣教の戦いに行くことを拒み逃れました。

結果は、敗北でした。

私達が信仰によって問題に立ち向かう時に

主が味方してくださいます(16節、ローマ8:31)。

試練の中にあっても進んで行けますように。
スポンサーサイト

まことのぶどうの木  ヨハネ15:1~8

 キリストを信じた私達は、ぶどうの木に譬えるならば「枝」です。

しかもイエス・キリストという木につながった枝であり、「もっと多く実を結ぶ」枝です。

その為に必要な事があります。

[1]父なる神に世話してもらうことです(1~2節)。

素人が苗の世話をすると、時々失敗することがあります。

しかし、私達は主イエス・キリストというぶどうの木に接がれており、全知全能の父なる神によって世話されています。

必ず実を結びます。

ダビデはその神について「私はいと高き方、神に呼ばわります。

私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。」と記しています(詩篇57:2)。

[2]「刈り込み」をしてもらうことです(2節)。

父なる神がなさる大切な世話の一つは「刈り込み」です。

最良の実を結ぶために不必要な実は取り去られます。

私達が実を結ぶクリスチャンとなるために、切り捨てなければならないものがあります。

み言葉によって点検しましょう(ヘブル4:12)。

[3]キリストにとどまることです(4節)。

 ぶどうの木の枝は、生命の源を持っていません。

枝だけでは実をつけることは出来ません。

木の幹につながっていのちの供給を受けます。

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」とイエス様が言って居られる通りです(5節)。

このことを私達は体験的に学ぶ時があります。

時にはそのために試練の中を通りつらい思いをします(ヘブル12:11)。

しかし、ここを通して「私を強くしてくださる方(キリスト)によって、どんなことでもできる」という事を体験します(ピリピ4:13)。

実を結ぼうと願うならば、キリストにとどまり喜んで訓練を受けるべきです。
 
私達が結ぶ実は

①悔い改めの実(マタイ3:8)

②御霊の実(ガラテヤ5:22~23)

③福音の実(コロサイ1:6)

④くちびるの実(ヘブル13:15)などです。

このような実を結ぶとき、父なる神が栄光をお受けになります(8節)。

祈りを教えてください  ヨナ書1章

ヨナ書1章には預言者ヨナについて記してあります。

[1]ヨナは、祈りを失いました(1~3節)。

1節でヨナは主の声を聞きました。

少なくともこの時までは彼は主との交わりを持ち、祈っていたと思われます。

しかし、彼は「主の御顔を避けて」逃げ出し、主の命令とは反対のタルシシュ行の船に乗りました。

難破しそうになる船底で「ぐっすり寝込んでいた」とあります。

彼は、祈りを失いました。

主が担わせられる十字架が重く感じることがあります。

逃げ出したい時があります。

また、神無しの世の生活の方が楽に見えることがあります。

逆に、楽しくて祈りを失う事もあります。

常に「祈りを教えてください」(ルカ11:1)と祈るべきです。

[2]ヨナは祈りを促す状況に置かれました(4節)。

「主が大風を海に吹きつけた」とあります。

正にこれは彼の霊的な目をさまし、祈りを促す嵐でした。

彼が祈るまで(2:1)、この嵐は静まりませんでした。

マタイ19章には、うわべではまじめで豊かな青年が出てきます。

しかし、彼の内側には罪に対処できないという嵐が吹き荒れていました。

彼はキリストの所に来ました。

彼も憐れんで下さいと言う祈りを促されていたのです。

残念ながら、彼は祈りを学ばずに去って行きました。

[3]ヨナに祈りを促す人々がいました(5~6節)。

何とそれは主を知らない異教の人々でした。

彼らは嵐の中で自分の神に叫び、船長はヨナに「あなたの神に御願いしなさい」と勧めました。

主はご自分の預言者に、神を知らない人々を通して祈りを促されました。

主はヨナを祈りの器、神の預言者として召しておられたからです。
 
 私達には「聖霊」という人格を持った神が私達に祈りをうながされます。

私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」
(ローマ8:26)

聖霊は、あなたの祈りを助けるお方です。

逃げないで、あらゆる問題を前にして、祈りを教えて頂きましょう。

聖霊がくだって  使徒6:1~7

 聖霊がくだり、教会が誕生しました(使徒2章)。

新約聖書「使徒の働き」は、誕生した教会を通してみ言葉が宣べ伝えられていく聖霊の働きの記録です。

従って、今も教会(私達)は「使徒の働き」を記録しながら御国に向かって進んでいます。

「こうして、神のことばは、ますます広まって行き」とあります(7節)。

「こうして」とは一体何でしょうか?

まず、第一に聖霊がくだったという出来事です。(2:1)

次に、誕生した教会内に生じた出来事です。

それは、当時の教会は貧しい人々に食事を提供するという良き習慣がありました。

ところが、その提供に関して不平が出てきました(6:1)。

①使徒たちは、その小さな問題を聖霊の知恵によって対応しました。

山に躓く人はいませんが、小さな石には躓きます。

小さなことが案外、大きな問題を引き起こすことがあります。

ですから、使徒たちは食事の問題も慎重に対応しました。

しかし、②彼らはこの問題を適切な人々に任せて、自分たちは「祈りとみ言葉の奉仕」に専念しました。

教会の大きな目的である礼拝と伝道を優先させました(6:4)。

使徒たちのように聖霊を崇めてその導きに従う信仰が大切です。

それが「こうして」み言葉が広まる原因となりました。

さらに、教会外から問題が生じました。

ステパノに対する迫害です。彼は最初の殉教者となりました(7:57~60)。

 この事をきっかけに、さらにエルサレム教会に対する迫害が大きくなってきました(8:1)。

信者たちはエルサレムで礼拝できなくなり「散らされた人たち」となりました(8:4)。

 彼らは単に散らされて逃げ惑うのでなく、行く先々で福音を語りました。

「こうして」福音がエルサレムから「ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで」(1:8)広がることになりました。

私達も「こうして」という聖霊の働きの中にあります。

主の証人とならせていただきましょう。

み言葉が広がるために。

キリストの体である教会が建て上げられるために。
プロフィール

sawakei1

Author:sawakei1
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR