都にとどまっていなさい ルカ24:45~53

復活されたキリストは、弟子たちに「(聖霊の)力を着せられるまでは、都(エルサレム)にとどまっていなさい」と言われました(49節)。

彼らはみ言葉に従い、エルサレムに行きました(52節)。
 
[1]エルサレムに行った弟子達の姿があります(52~53節)

彼らは、非常な喜びを持って礼拝しておりました。

ペテロたちにとってエルサレムは、彼らが逃げ出した場所です。

決して楽でない行きたくない場所です。

しかし、キリストが言われた通りに出かけました。

いかなる所であれキリストに従う所ならば、喜びと賛美があります。

[2]エルサレムから出て行った弟子達の姿があります(13節)

それは、①喜びと勝利の無いクリスチャンの姿です。

彼らは議論に熱中しておりました。

キリストが目の前に居られても気づきませんでした(15~16節)。

キリスト以外のことに熱中するとき、勝利がありません。

また②信じきれない人の姿です(19~24節)。

彼らはキリストから聞いたみ言葉を知っておりましたが、半信半疑でした。

遠くからキリストに従ったペテロと同様です(22:54)

③聖書全体からキリストを見ないで信仰が鈍っている人のことです(25~27節)。

④復活のキリスト、つまり生きておられるキリストを体験的に知らない人のことです(31節)。

私達はどちらに向いて進んでいるでしょうか。

[3]エルサレムにとどまった弟子達の姿があります

それは、使徒1:13~14です。

ここは、彼らにとって従いの場所であると共に、

不信仰を悔い改め、自らの弱さを認め、自己を明け渡し、

聖霊の必要を認めて祈り、聖霊を受ける場所となりました。

そして、ペンテコステを迎えました(同2:1)。

ここから彼らが世界宣教に出かけて行きました。

都に行き、都にとどまる者に聖霊がくだります。

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あなたは私を愛しますか  ルカ24:44~49

 復活されたイエス・キリストがペテロに最初に言われたことは「あなたは私を愛しますか」でした(ヨハネ21:15)。

彼はキリストが十字架につけられる際に、キリストを拒み、逃げ出しました。

自分にはキリストを愛する力がないことを知っていました。

ですから、そのようなペテロたちにたちにキリストは言われました。

「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。

あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)。

彼らが真に力あるクリスチャンとなるために必要なものは「力」でした。

それはキリストを信じた者に注がれる聖霊によって与えられます。

これが聖霊のバプテスマの約束です(使徒1:8)。

聖霊のバプテスマは、父なる神の約束ですから私達にとって受けることが可能です。

そしてこの奸悪な世にあってキリストの証人となるために必要であり、緊急を要することです。

 聖霊のバプテスマを求める動機は、主イエスを知り、その愛を知り、キリストに仕え、その証人となりたいという心です(ピリピ3:10)。

 聖霊のバプテスマを受けるために必要なことは神に対して従順であるということです。

「神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊」と聖書にあります(使徒5:32)。

 聖霊のバプテスマを受ける手段は祈りです(ルカ11:13)。

キリストは弟子たちに「力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」と言われました。

彼らはキリストのことばに従いました。

イザとなると逃げだした自分の弱さを認めました。

これが最初の聖霊のバプテスマ、つまりペンテコステです。

 キリストはあなたにも問いかけておられます

「あなたは私を愛しますか」と。

そして、聖霊の注ぎを約束しておられます。

生かされた者として  ローマ6:12~23

 ローマ6章11節までで、パウロは私達が「罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者」という信仰に立つことを勧めています。

さらに12節以降で、キリストによって「生かされた者として」神に献げた人生を送るように勧めています。

それは、キリストに明け渡し、委ねて生きることを勧めた言葉です。

[1]キリストの御心に従って自分を神に献げて生きることは自由です。

「神にささげなさい」とパウロは言っていますが(13節)、これは厳しい命令ではなく、私達が心から従う事を勧めた言葉です。

ルカ22章でペテロは、主の助けに自分を委ねるよりも自分の覚悟で行動する道を選びました(33節)。

キリストに献げるか、罪と己の支配に委ねるか・・私達は自由です。

[2]キリストの御心に従って神に献げて生きることは可能です。

なぜなら

①12節に「ですから」とあります。

それは理由です。11節までに記されたように今キリストの死と復活の力が働いている事です。

私達はキリストに従えない「己」に死んで生きられます。

復活のキリストによって神に対して生きた者となれます。

②私達は「恵み」の支配の中にあるからです(14節)。

③私達は、かつて罪の奴隷でした。

そのような私達は罪よりももっと強力なキリストを主人とした「義の奴隷」「神の奴隷」となれるからです(18、22節)。

[3]キリストの御心に従って生かされる者には結果が伴います

キリストに献げて生きるか、罪の支配の中に生きるかは自由であることを述べました。

自由には必ず責任と結果が伴います。

「罪から来る報酬は死です。

しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(23節)。

さらに、自らの弱さを認め、キリストに明け渡して生きる者には聖霊の注ぎが伴います。

力あるキリストの証人とされます(使徒1:8)。

キリストによって生かされた者としての歩みがあります。

ペテロの涙  ルカ22:54~62

 聖書を読むとペテロは私達の姿を映している存在のように思われます。

彼はプロの漁師でしたが一晩中仕事をしても何も獲物が取れない時もありました(5:5)。

キリストから目を離したために溺れそうになりました(マタイ14:30)

自分の弱さをキリストに指摘された時に、私は死ぬ覚悟でキリストに従って行きますと豪語しました(ルカ22:33)。

自分の真の姿を知らないままで無謀にも進んでいこうとする人間でした。

今日の聖書の個所ではそのように豪語した彼は、キリストが十字架に架けられるために捕らえられた時、「(キリストから)遠く離れてついて行った」とあります(54節)。

私達もこの世で生活する時、キリストと関わりなく過ごした方が楽のように感じる時があります。

キリストが大祭司の家で尋問されている間、ペテロは庭にいました。

そして、人々から彼がキリストの弟子ではないかと問いただされると、3度もそれを打ち消しました(56~60節)。

人前でクリスチャンであることを言うことに恐れを感じたからです。

これらは全て、神の前の人間の姿です。

そんな彼をキリストは見つめられました(61節)。

ペテロは「外に出て、激しく泣いた」とあります(62節)。

この時、ペテロは自分の真の姿を認めました。キリストを否んだ自分の罪を悲しみました。

この時、ペテロはキリストを拒む前に自分に語られたキリストのことばの意味が分かりました。

「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。

だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32節)。

ペテロは聖霊を受け(使徒2章)、この言葉通りの器に変えられていきました。

キリストとの間に距離を置いていないでしょうか。

弱さと失敗の多い私達を見捨てず、愛し、用いようとしておられるキリストがおられます。
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