キリストと共に(2)  ローマ6:1~11

 キリストの十字架の死は、2千年経った今でも私達に赦しの平安を与え、また罪に支配されないで生きる力となって働いています。

同様に、キリストの復活の力も、今私達の生きる力となっています。

「罪の中に生きておられない」という力を与えます(2節)。

キリストが死から立ち上がられたように、罪に対して反発する力となっています。

「いのちにあって新しい歩みをする」力を与えます(4節)。

奴隷が解放されても自由人という身分だけでは生きていくことは出来ません。

私達は神の子として生きるいのちを復活のキリストに与えられて、新しい歩みが可能となった者です。

つまり、私達は「キリストとともに生きる」者とされたということです(8節)。

「キリストの奴隷」として生きる力を与えます(17~18、22節)。

エジプトでイスラエルはエジプトの奴隷でした。彼らはいやいやながらでも王の仕事をしなければなりませんでした。

しかし、私達はキリストの愛に応えて喜んでキリストのみ言葉に従う「キリストの奴隷」(17,20節)です。

 ルカ15章の放蕩息子の譬え話でこの事を見てみましょう。

この子供はかつて父にいやいやながら仕えていたと思われます。

ですから家を出ました。しかし、苦しい目に会って家に帰ろうと決心します。

その時彼は「私はもう子としての資格はありません」と言いました(19節)。

しかし、彼を迎えた父親は「私の息子が見つかった」と言いました(24節)。

帰ってきた子供は、子としての身分を回復しただけでなく、やがて「息子」へと成長していきます。

つまり、父親の気持ちが分かる子へと成長していくのです。 

私達もキリストを信じて神の子とされました。

そして、父なる神の御心を知り、喜んでキリストに仕える「神の息子」「キリストの奴隷」に成長します。

キリストの復活のいのちが私達を生かし、成長させるのです。

あなたがたも・・神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい」 (ローマ6:11)
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キリストと共に  ローマ6:1~11

 キリストは2000年前に死んで復活されました。

その出来事は今の私達に大きな力となっています。

キリストの死は私達の罪を赦します。

「救い」という人生における一回きりの体験をもたらします。

そればかりでなく、キリストの死は信じる私達の中に働く力となります。

(1)罪や誘惑に動じない生き方の力となります(1~2節)。

熊や野犬に襲われた時に注意することがあります。

それは、立ち向かわないで静かに逃げることです。

こちらが威嚇すると、彼らも更に襲ってきます。

「罪に対して死んだ」という事は、罪に動じない生き方です。

キリストの死の力が信じる私達にそのことを可能にします。

(2)私達を奴隷とするようなものに支配されない生き方の力となります(6~7節)。

人間は、欲に支配されやすいものです(ヤコブ1:14~16)。

しかし、キリストの死はそのような私達を解放します。

私達は様々な恐れの奴隷となりやすいものですが、キリストは私達を解放します(ヘブル2:14~15)。

私達は自己に支配されやすいものですが、キリストの死は豊かな実を結ぶ生涯に導きます(ヨハネ12:24)。

キリストの死の力を自分のものとして生きることができます。

秘訣は「キリストとともに」という信仰です(3,4,5,8節)。

それは8節にあるように「キリストとともに」死ぬことであり、

11節にあるようにキリストとともに「死んだ者」と「思う」(原語:勘定する)ことです。

自分の能力や現状以外に、キリストの死と復活の力を計算に入れて歩きましょう。

主です   ヨハネ21:1~9

イエス様は、私たちの罪のために死なれ、葬られ、そして三日目によみがえられました。 

イエス様のよみがえりは、弟子たちに語られていた事でした。

御使いが語り(マタイ28:10)ました。

イエス様ご自身も「わたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」と言われました(同26:32)。
 
語られていたようにイエス様は弟子たちによみがえられた姿を示されました。

彼らは2度エルサレムでよみがえられたイエス様に会いました(ヨハネ21:1)。

さらにガリラヤに来ていた彼らはイエス様に会いました(同2節)。

イエス様がよみがえられた姿を通して教えられる事があります


第一に、ガリラヤに来た弟子たちはペテロが言い始めて漁をしていました(3節)。

しかし、その夜は何もとれませんでした(3節)。

「主は、あなたを苦しめ、飢えさせて・・・人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きるということを、あなたがたにわからせるためであった」(申命記8:3)。

主のよみがえりは、この事を彼らに確認させることとなりました。

第二に、弟子たちは失敗を体験していました

キリストを捨てないと言った彼らの言葉とは反対に、彼らはキリストを捨てて逃げていたのです(マタイ26章)。

自分の罪深さや弱さを認めずにはおられない・・・そのような彼らにイエス様は食事を備えて現われてくださいました。

イエス様は「生ける神の御子キリスト」です(マタイ16:16)。

私達を捨てることの出来ないお方です。豊かな成果を与え、養ってくださるお方です(ヨハネ21:6、9)。

だから私達もこのお方から離れることはできないのです(ヨハネ6:68)。

イエス様は主です。

私達を召しておられるお方です。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、私の証人となります
」(使徒1:8)。

復活のイエス様   ヨハネ20:1~31

キリストは墓の中から復活されました。 

聖書には次のように記されています。

・墓に来たマリヤたちはイエスの体がないことに気付きました(2節)。

・ペテロたちは墓の中に入ってそれを確認しました(7節)。

・復活のキリストを弟子たちは見て喜びました(20節)。

・トマスは、はじめは「見なければ信じない」と言いましたが、十字架につけられた傷跡のあるキリストを見て信じ、その信仰を告白しました(28節)。

復活のキリストに対して彼らがしたことは一つです。

それは、「見て」「信じて」「確信した」ということです。

トマスのように、私達には「見なければ」信じないという心を持っています。

「信じる」根拠は大切です。

トマスや弟子たちと違って私達には信じる根拠があります。

「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(31節)

私達には聖書があります。そのみ言葉を読んで、聞いて信じることができます。

見ないで信じる幸がここにあります(29節)。

信じても「まだ理解していない」という状態もあります(9節)。

しかし、み言葉によって信じた人は必ずいのちを得ます。

確信が与えられます。

何よりも、弟子たちがキリストを見て喜んだように、復活のキリストと共に居るという喜びがあふれるようになります。

大事なことは、み言葉を聞くことです。

主はよみがえられました。

主は共におられます。

この喜びに預からせていただきましょう。

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