葬られたイエス様  マルコ15:33~47

 キリストは十字架につけられた後、墓に葬られました(46節)。

これらの事実は多くの人々によって見届けられています。

キリストが葬られた・・・それは、キリストが完全に死んだということです。

そして、その「完全」が意味することがあります。

[1]キリストに関する預言が完全に成し遂げられました

キリストが死んで葬られることは旧約聖書が預言していることです。

また、キリストご自身も語られたことです(マタイ16:21)。

その事が成就しました。それは、聖書の言葉、即ちキリストのことばが完全であるということです。

[2]キリストが世に来られた目的が完全に成し遂げられたということです

キリストは罪人を救うために来られました(Ⅰテモテ1:15)

そのために、人間即ち罪人である私達と同じ肉体を持って来られました。

キリストは天使のような姿で十字架に架かられたのではなく、肉体をもって死を味わわれました。

その様に死ぬためにキリストは来られたのです。

キリストが完全に死んだことによって「罪の支払う報酬は死」という、私達に対する神の刑罰は完了しました(ローマ6:23)。

[3]復活の事実が完全なものとなりました
 
墓に葬られたという事は、完全に死んで人間のあらゆる能力の限界の外に置かれたということです。

そこに、全能の神の能力が介入しました。

「死んでも生きる」というキリストのことばが真実となりました(ヨハネ11:25)。

人間として来られ、人間として過ごされ、死を味わったキリストが様々な恐れの中にある私達を執成しておられます。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」   (ヘブル4:16)
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十字架の死に至るまで ルカ23:20~38

キリストが十字架につけられる経緯を聖書は詳しく記しています。

祭司たちはねたみでキリストを十字架につけました。

ユダは自己の利益。

民衆は他人まかせの不和雷同。

ピラトは優柔不断・・・・これらの姿は、私達罪人の姿です。

「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。

道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。」
(エペソ4:18~19)

キリストはそんな私達の為にいのちを捨ててくださいました。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」  (ローマ5:6~8)

ピラトは、「キリストと言われるイエス」を知っていました(マタイ27:22)。

しかし、彼はキリストを信じないでキリストを十字架につけました。

キリストを知っていることと、信じることは別です。

そして、信じる者にキリストは自分の十字架を担ってキリストに従って生きることを勧めています(ルカ9:23)。

あなたは「キリストと言われるイエス」に対してどのように生きるでしょうか?

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。

それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
(Ⅰヨハネ3:16)

バラバかキリストか  マタイ27:15~26

 ローマの総督ピラトは過ぎ越しの祭りの時期に一人の囚人を許すことにしておりました。

ちょうどキリストの裁判もこの時期に当たりました。

ピラトは「バラバかキリストか」どちらをゆるすのか民衆に尋ねました(17節)。

結局、「十字架につけよ」と叫ぶ民衆の声に彼は屈服します。

そして自分の意に反して強盗のバラバをゆるし、キリストを十字架刑にしました。

「バラバかキリストか」・・・このような明らかな問題を民衆もピラトも間違いました。

それは、私達の姿でもあります。

[1]民衆は、「羊飼いのない羊」です(マタイ9:36)。

彼らは少し前に、キリストのエルサレム入場を「ホサナ・ホサナ」と叫び歓迎した群衆です。

同じ人々が指導者たちに説き伏せられて「十字架につけよ」と叫びました。

主体性を失った群衆・・・それは私達の姿です。

そのような私達にはイエス・キリストというまことの羊飼いが必要です。

[2]ピラトも、罪人である私達の姿です

①理性と良心に反して罪に走ってしまう人間です(18,19、23節)。

彼はキリストが十字架に架けられるような人ではないことが分かっていました。

しかし、ねたみに満ちた人々の声に屈服しました。

彼の理性と良心の声も彼の間違った行動を止めることはできませんでした。

②キリストに対する無関心な人間です(22節)。

彼は「わたしはキリストと言われているイエスをどのようにしようか」と人々に尋ねました。

③神の前よりも人前を大事に生きる人間です(23~24節)。

結局ピラトはキリストを十字架につける判断をしました。

そしてその過ちの責任はないという事を示すために、民衆の前で手を洗いました。

彼は神の前よりも人前を生きることを選びました。

 バラバかキリストか・・・結局バラバが許され、キリストは十字架につけられました。

このことを最終的に決めたのは、私達罪人を赦し救おうとしておられる父なる神です。

ここに人間の罪深さに勝る大きな神の愛があります。

しかし、主は、私たちのすべての咎(とが)を彼(キリスト)に負わせた」(イザヤ53:6)

イエスは神の子か  マタイ26:57~68

キリストは、十字架につけられる前に少なくとも6回の裁判を受けました。

それは厳密な審きのためではなく、キリストを死刑にするためのものでした。

マタイ26章の裁判で、人々は「偽証」の証拠まで見つけようとしました。

この時、証拠ではなくキリストの証言が得られました。

それはイエスが「神の子キリスト」であるという事でした。

この理由でキリストは十字架につけられることとなったのです。

イエスを信じないユダヤ人たちにとってこれは神を冒涜する重大な問題だったからです。

イエスが「神の子キリスト」かという質問は、いろんな意味で大事なものです。

[1]悪魔にとって、自分の存亡にかかわる重大な問題です

悪魔の武器は、罪と死です。

それを打ち負かすことのできるものは、「神の子キリスト」以外にありません。

イエスは「悪魔のしわざを打ちこわすため」に来られた神だからです(Ⅰヨハネ3:8)。

[2]キリストにとって、神の救いのご計画の根幹にかかわる重大な問題です

キリストを単にローマ帝国から解放する者と期待するユダヤ人もいました。

空腹をパンで満たして欲しいと願う者もおりました。

しかし、神のご計画の救い主は十字架にかかり全人類の罪の贖いを成し遂げる「神の子キリスト」でなければならないのです(イザヤ53:4)。

ですから、キリストはそれを裁判の中できっぱりと言われました(64節)

[3]私達にとって、永遠にかかわる重大な問題です

 私達が罪赦され、永遠に向かって平安に暮らすことができる道は一つしかありません。

それは、イエスを「神の子キリスト」と信じることです(エペソ2:8)。

この信仰が私達を勝利に導きます。

世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の子と信じる者ではありませんか」(Ⅰヨハネ5:5)。

求めよ・捜せ・たたけ(2)  ルカ11:5~10

 キリストに向かって祈る祈りは必ず応えられます。

その為に、私達に必要なことは「求める・捜す・たたく」ことです(9節)。

「求めて」すぐに与えられる祈りもありますが、「捜し」、「たたく」祈りもあります。

[1]捜せ

これは応えを捜す祈りです。

応えられるまで「待て」といわれる祈りです。

必要が与えられるまで時間がかかることがあります。

家族が救われるために私達がなすべきことを捜さなければならないことがあります。

失望しないで祈りましょう(ルカ18:1)。

[2]たたけ

どんなに待っても祈りが応えられないことがあります。

イスラエルは、エジプトを脱出するまで9回もパロ王に裏切られました。

祈っても返って苦しい目に会う事があります。

 ルカ11章5~8節までの例話がこの事を語っています。

ある人が自分の所に真夜中に来た友人の為に、近所にいる他の友人の家を訪ねて戸をたたき、パンを求めたというのです。

近所の友人こそいい迷惑です。

自分だけでなく子供も真夜中に起こされました。

しかし、あまりにも戸をたたかれるので遂にこの人は起きてパンを与えました。

戸をたたき続けた人が、何が何でもという本気で求めていたからです。

本気で信じ、本気で祈り求めていくならば戸が開かれます。

私達に求められている祈りとは何でしょうか。祈りを教えて頂きましょう。

主よ・・・私たちにも祈りを教えてください」(ルカ11:1)


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