祈りを教えてください(2)  ルカ11:1~4

祈りは教えられなければ分からないものであり、誰に、誰が、何を祈るのかを先週見ました。

さらに「父よ」(2節)という言葉から教えられることは、祈りは呼び掛けだという事です。

何が私達を祈らせるのでしょうか。

[1]現実と自分の無力さが祈らせる

ハガルは、主人アブラハムの家を追い出され、荒野をさまよいました。

一滴の水もなくなり彼女は絶望します。泣くことしかできませんでした。

しかし、子供のイシマエルの声を父なる神は聞かれたとあります(創世記21:17)。

絶望の中で神は祈りを教えられます。そして、祈りを聞かれるのです。

[2]全能の父なる神の存在が祈らせる

山びこが返ってくる山を前にしなければ人は「ヤッホー」とは叫びません。

必ず答えてくださる父なる神の存在が私達に「父よ」という呼びかけを促すのです。

神は居られます。そして「求める者には報いてくださる方」です(ヘブル11:6)。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。

わたしは世に勝ったのです」と言われるキリストを見上げて祈りましょう(ヨハネ16:33)。

[3]御子の御霊が祈らせる

キリストを救い主と信じる者には、キリストが父なる神を「アバ父よ」(“お父さん”の意味)と呼んでいた、御子の御霊を私達に与えてくださいました(ガラテヤ4:6)。

祈りは理屈や努力で出来るものではありません。

救われた魂を持つ人に与えられた父なる神に対する呼びかけです。

キリストが弟子たちに教えられた「父よ」という祈りは素晴らしいものです。

それは、この世に生きる私達の力強い武器です。平和の武器です。

祈りを通して、父なる神との親しい交わりが与えられますように。

自分と人々に平安が与えられますように。
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祈りを教えてください  ルカ11:1~10

「主よ。私たちにも祈りを教えてください」(1節)。

キリストが祈っておられる姿を見た弟子たちが、このようにキリストに質問しました。

当時のユダヤ人たちの祈りは、習慣として人前の祈りや同じ言葉の繰り返しの祈りでした(マタイ6章)。

このような中でキリストが祈っている姿は、彼らにとって驚きであったと思われます。

こうして、弟子たちは真の祈りをするようになりました。

私達クリスチャンも日々祈っているのですが、実はキリストに教えられなければできない大切なものなのです。

さらに祈りを教えて頂きましょう。

[1]誰に祈るか。

キリストは「父よ」と祈るように弟子たちに教えました(2節)。

手紙文に「ご多幸を祈ります」と習慣的に書くことがありますが、祈りの対象は不明です。

その祈りは誰にも通じません。しかし、私達の祈りの対象は天の父です。

[2]誰が祈るか。

やはりキリストは「父よ」と教えておられます。

つまり、「父よ」と天の父なる神に向かって呼びかける資格のある者が祈るのです。

その資格のあるお方はキリストただ一人です。

しかし、私達は、神の前の罪をキリストに赦していただき、キリストの名によって「父よ」と祈る資格を持っています。

[3]何を祈るか

私達が生まれた時から聞いている祈りは、家内安全、商売繁盛ですが、キリストの教えた祈りは違います。

2~4節には、2種類の祈りが教えられています。

それは、①父の御名が崇められ、御心がなされて御国が来ることの祈り と②私達(他人を含めて)の生活に必要の為の祈りです。

私達の父なる神は、私達の魂から、体のことまで心配しておられるお方です。

現実の生活から永遠の御国までご計画しておられる神です。

この父なる神に祈りましょう。

スタート前の確認  Ⅱコリント13:5~6

道路を横断する時の確認や外出する際の戸締りの確認は不可欠です。

新年を迎えるに当たり、私達が「信仰に立っているか」3つのことを確認しましょう。

[1]主は私を愛しておられるという信仰

聖書には「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。

それによって私たちに愛がわかったのです。

ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」とあります(Ⅰヨハネ3:16)。

罪のないキリストが罪人の為に死んでくださいました。

それは、愛される価値の無いものが愛されたということです。

そして、人々を愛さずにはおられないという、自分を変えるような愛で愛されているということです。

この信仰に立ちましょう。

[2]主が私と共におられるという信仰

詩篇の記者は「私にとっては、神の近くにいることが、幸せなのです」と言っています(73:28)。

この幸せは場所や時間、そして境遇に関係の無い幸せ・・・それは神が共におられるという幸せです。

この信仰に立っておられるでしょうか。

[3]主は知っておられるという信仰。

無知には2種類あります。

即ち、無知であってはいけないことと、無知であって構わないものです。

私達は明日の事が分からない身です。

それでも構いません。主がご存じだからです。

自分がなぜこんな不当な苦しみを受けるか、理由が分からなくても大丈夫です。

神が知っておられるからです。

今日確認しましょう。

①主は私を愛しておられます。

②主は私と共におられます。

③主は知っておられます。

共にいてくださる神様  Ⅱ列王6:8~23

 燃えている火をさらに燃え立たせようとする時には、風は好都合です。

しかし、火をつけようとする時には邪魔になります。 
 
同じ風が邪魔にもなるし、好都合にもなります。

私達がイエス・キリストを見て周りの状況という“風”を見る時に、

たとえそれが逆境であっても、それは信仰の火を燃え立たせるものとなります。

自己中心という目で見ると、逆境や周りの人はいやなものとなります。

周りの状況をどのように見るかで結果が変わります。
 
エリシャの召使は、敵が自分の町を包囲している事態を見て、あわて惑いました(15節)。

共におられる神から目を離したからです。

この時エリシャが祈ると彼の目が開かれました。

何と天の使いの軍隊がしっかりと彼らを防備していました(17節)。

ここで召使は「恐れるな。私たちと共にいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」という主のみ言葉を体験します(16節)。

 私達の目は、共におられるイエス・キリストよりも目の前にあるものがよく見えます。

また、自分にとって都合が良いか、悪いかで物事を見やすいものです。

最初の人であるアダムとエバはこの点で失敗しました。

食べてはいけないと神に言われていた「善悪を知る木」の実を見ました。

それは「食べるに良く、目に麗しく、賢くする」好都合なものに見えました。

結局その実を食べて神との断絶という悲劇に見舞われます(創世記3章)。

神から目を離すと、神よりも自分の欲望が先行します。

そして、結果は大変な苦しみです。

昨年を振り返りましょう。

(1)一年間、キリストに目を向けて歩んで来ただろうか。

(2)そのキリストのみ言葉に従って歩んで来ただろうか。

(3)キリストを目標として歩んで来ただろうか。

今年一年、キリストと共に歩む日々でありますように
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