主の御前に立つ幸い  詩篇6:1~11

詩人は「私の幸いは、あなたのほかにありません。」(2節)と言いました。

では「主にある幸い」を得ていた彼の歩みとは、どのようなものだったのでしょうか。

神様への信頼と交わり(3~7節)

詩人は、偶像礼拝者達と同じ様には歩まず、自分と信仰を同じくする「地にある聖徒たち」との交わりを喜びとしていました。

そして、彼は主御自身が「私へのゆずりの地所(財産)、私への杯(肉体的食物、霊的食物)」であると自覚しました。

主は私達の人生に必要な全てのものを与え、最善に導いて下さる御方です。

私達は、その主との交わり(祈り、聖書を読む)の中で、主からの助言と主の御心を教えて頂くのです。

臨在の主の御前を歩む(8~11節)

詩人は、いつも、自分の前に主を置きました。

それは自分の意志と信仰による決断によって、自覚的に、主の前で生活をすることです。

また、主の御臨在の前に生き、主との交わりを持ち続ける、という事です。

そうすれば、主は私達の右(弁護者、勝利者として)にいてくださいます。

私達の心に喜び、魂に楽しみ、体に平安を与えて下さいます。

そして、主を信じる者には永遠の命に至る「いのちの道」が用意されています。

主を信じる者が死んで終わるのではありません。

死んだ後に、復活して天の御国で「永遠に神と共に住む」というキリストによる復活の希望があります。

この天の御国とは、喜びと楽しみが永遠に満ち溢れている所です。

詩人は、主への信頼と交わりを持ち、主の御前を歩み続ける事によって、人生の幸いを見出しました。

私達も、彼と同じ様に、主の御前に立ち続ける事によって、永遠の命に至る「本当の幸い」を、神様から頂きましょう。

私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」  (詩篇16篇8節)
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引き寄せられる神 ヨハネ6:37 44~51

今日の聖書の個所で、キリストは大事な2つの真理を述べられました。

[1]父(神)が引き寄せられない限り、だれもわたし(キリスト)のところに来ることはできません(44節)。

これは、この世の恐ろしい現状を示した言葉です。

キリストを信じて救われたいとの思いは、この世の魅力や自己への過信という傲慢さに引かれてかき消されてしまいます。

たとえ聖書を読んでも、人間の能力では理解できません(42節)。

キリストはご自分のことを「天からくだってきたパン」であると言われました(58節)。

しかし、この言葉を聞いた多くの人がつぶやき、そんなことは聞いておられないとして、キリストを拒否しました(60節)。

私達は全ての人が滅びることが当然とも言える世に住んでいます。

この中で救われるのは奇跡です。

[2]父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます(36節)。

これは、絶対的な神の愛を示したことばです。

「みな」とありますので、自分を含めて神から遠ざかり、とても信仰持つとは思われない人がみな救われるということです。

聖霊が働き、父なる神が私達を引き寄せてくださるからです。

その時、私達は自らの弱さと罪が分かり、キリストを救い主として信じることができるのです。

夫を5人も変えたサマリヤの女性は、最初救いを求める心はありませんでした。

しかし、キリストのことばによって救われました(ヨハネ4章)。

取税人ザアカイやマタイもこの世の流れの中に埋没していた人でしたが、キリストを見出し救われました。

 神はご自分の絶対的な愛を持って、ご自分の民を引き寄せておられます。

自らが救われたことを感謝し、キリストを証しする者となりましょう

主があわれむ人々  マタイ9:35~38

 キリストは、目の前にいる群衆を見て「かわいそう」と思われました(36節)。

マタイによる福音書には、キリストが「かわいそう」と思われた人々がでてきます。

食べるものがない人々(15:32)。

キリストはこのような人々をかわいそうに思ってパンを与えられました。

アジアやアフリカの飢餓の中にある人々への食糧援助の為のバザーが教会でもたれました。

世界中で1時間に17名の人々が餓死しています。

私達はキリストと共にこのような人々に手を差し伸べるべきです。

借金がある人(18:27)。

膨大な借金のある人を主人はかわいそうに思って彼を赦しました。

罪を犯した私達は、真の主人である天のお父様に対して返せない借金を抱えた者です。

キリストは、十字架でその代価を支払ってくださったのです。

病気の人(20:34)。

全く目の見えない人をキリストはかわいそうに思われました。

そして見えるようにされました。

キリストは今でも病に苦しむ私達を憐れんでくださっています。

これらのキリストの「かわいそう」は、ご自分が神でありながら人間の姿をとって来られたからこそのあわれみです。

キリストが持っておられる最大の「かわいそう」は魂の問題です(9:36)。

それは、目の前にいる群衆が「羊飼いのない羊」に見えたからです。

迷いやすい羊にとって羊飼いがいないという事は、致命傷です。

キリストを知らない人間は、神の前にかわいそうな存在です。

そのような群衆を前にしてキリストは「収穫が多い」といわれました。

つまり、羊飼いのもとに帰ろうとしている羊である人々が多くいるということです。

そのために、羊を集める「働き人」が求められています(37~38節)。

 キリストの持っておられる「かわいそう」を持っておられるでしょうか。

永遠への思い  詩篇23篇

 10年前に亡くなられたた方の召天10年追悼記念礼拝が先週持たれました。

教会で行われる記念会や追悼礼拝は儀式ですが、大切な意味があります。

[1]故人を追悼し、その働きに感謝する時です

羊が100匹いても、顔かたちや性質が違います。

また、キリストはその中の一匹がいなくなっても、探し求めずにはおられない良い羊飼いです(ルカ15:4)。

私達お互いは神に創造されたかけがえの無い者であり、神の前に貴重な存在です。

身近な人を失うと、このことに気付かされる時があります。

故人を覚え追悼すると共に、お互いが神の前に大事な存在であることを確認すべきです。

[2]故人を中心とした家族、親族の交わりの場です
 
キリストは「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と言われました(マタイ19:19 口語訳)。

飢餓の中にある見たことも無い人々のためにも援助の手を差し伸べるべきですが、目に見える家族親族を愛することもキリストの求めておられるところです。

[3]召された人を前にして、自分の将来、永遠を厳粛に思う時です

 ダビデは「死の陰」を何度も体験しました(3節)。

この時、ダビデは真剣に自分の「死」を考えたと思います。

そして、そこから復活の主を見上げて「私はわざわいを恐れません」との信仰に立ちました(4節)。

彼は、最大の敵である死を前にしてもゆったりと食事ができる平安を得ました(5節)。

私たちの罪の為に十字架にかかり、復活してくださったキリストを「私の羊飼い」として仰ぎましょう。

そして、ダビデのように主を賛美しましょう。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。

私はいつまでも、主の家に住まいましょう
」(6節)。


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