大胆であれ   エペソ3:8~13

 エペソ書の記者であるパウロは、かつて積極的にクリスチャンを迫害した人でした。

しかし、救われて直ぐに大胆にキリストを宣べ伝える者となりました。

私達に必要な大胆さがあります。

[1]神に対しての大胆さ(12節)。
先週述べたカナンの女性は無視されても、退けられてもキリストに憐れみを乞いました。

この大胆さは、自分が神に祝福される資格がないことを認め、「ダビデの子」であるキリストの贖いは自分の為であると信じるところから来るものです。

「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」(ヘブル10:19)

[2]宣教における大胆さ(8~9節)。

この書を記したパウロは前述のようにクリスチャンを迫害していた人物でした。

しかし、彼はキリストを信じて大胆にキリストを伝える者となりました。

しかも当時は見放されていたイスラエル以外の異邦人に伝道しました(8節)。

世の中では知識や経験がないと大胆に人前に出られないことがあります。

しかし、私達はペンテコステの聖霊によってペテロやヨハネが大胆に福音を伝えたように(使徒4:13)、大胆なキリストの証人となれます。

[3]現実に対する大胆さ(13節)。

大胆とは、逃げないことです。

最近町に出てくる熊も驚いて逃げると襲って来るそうです。

逃げると、さらに大きな苦難に襲われることがあります(イザヤ30:16) アモス書5:19)。

カナンの女性も、無視され退けられるという現実を「その通り」と受けとめた時に、大胆にキリストに憐れみを乞う者となりました。

キリストを前にするとき、私達は苦難や試練の現実に対して大胆になれます。

 大胆にもこの世に来られ、大胆にご自分を父なる神にお任せして十字架に架かられたキリストを見上げましょう。
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期待と失望と  マタイ15:21~28

 期待が大きければ、裏切られた時の失望は大きいものです。

しかし、真の失望は真の期待を生み出すことも事実です。
    
カナンの女性がそれを体験しました。

この女性の娘が病気になり苦しんでいました(22節)。

彼女はキリストに叫んで助けを求めましたが、キリストは彼女を無視します(23節)。

弟子たちも、彼女を帰そうとしました。

それでも助けを求める女性に対してキリストは「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われました(26節)。

キリストに期待した彼女の失望はどんなに大きかったことでしょう。

しかし、彼女は言います。

「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」(27節)。

キリストは彼女に対して「あなたの信仰はりっぱです」と言われて、彼女の願いは聞き届けられ、娘はいやされました。

彼女の信仰は、断られ、退けられてもなおキリストを「ダビデの子」つまり救い主として期待する信仰でした。

母親として娘を助けたいとの熱意もさることながら、異邦人(神の民イスラエル以外の民)でありながら救い主イエス・キリストを慕い求める彼女の信仰はりっぱなものです。

 しかし、何よりも彼女の信仰を表しているものは「主よ。その通りです」(27節)に表された心です。

[1]彼女は、無視され、拒まれている自分の境遇を「その通り」として受け止めました
逃げ出さないという信仰です。

[2]彼女は、キリストが神の民イスラエルのために遣わされているという神のご計画を「その通り」として受け入れました

[3]彼女は、自分が神の前にパンをいただく(祝福を受ける)価値のない小犬のような存在であることを「その通り」受け入れました

信仰は、自分の真の姿を受け止めることから始められます。

人間にとって真に失望すべきことは、「罪の支払う報酬は死」であり、「神の栄光を受けられない」という現実です(ローマ3:23 6:23)。

しかし、信じる者には永遠のいのちが約束されています。

どんなに失望するような中でも、キリストに期待しましょう。

思いもよらない神の祝福が待っています

欲しがってはならない Ⅰ列王21:1~19

 十戒の最後の戒めは「あなたの隣人の家を欲しがってはならない」です(出エジプト20:17)。

つまり、隣人の家の中にある人であれ物であれ欲しがり、むさぼるという欲望を神は禁じています。

 旧約聖書・列王Ⅰの21章にイスラエルの王アハブがその戒めを破った記事があります。

アハブは隣に住んでいたナボテのぶどう畑が欲しくなり、譲ってくれるようにナボテに頼みます。

しかし、彼の要求が拒否された時、アハブは怒り、何が何でも手に入れたいとの思いに支配されます(4節)。

むさぼりは争いを起します。

戦争や殺人の原因となります(ヤコブ4:2)。

実際彼はこのためにナボテを殺してしまいました(7~16節)。

このアハブの心は全ての人にある思いです。

 決してアハブは自分でナボテを殺すことはしませんでした。

アハブのむさぼりを聞いた彼の妻イゼベルがアハブに同調してナボテを殺す手立てを考案しました。

悪に同調する思いを人間は持っています。

「赤信号、皆で渡ればこわくない」という心理が罪を増長させるのです。

 ナボテは殺され、アハブは遂にぶどう畑を手にいれます(16節)。

しかし、この時アハブは同時にとんでもないものを手に入れました。

それは罪悪感という恐れです。

そして、追い打ちをかけるように彼を襲ったものは神の審きの宣言でした(19節)。

 むさぼりは人間の力では防ぐことはできません。

しかし、み言葉には力があります。

アハブは自分の罪を責めた預言者エリヤの言葉で悔い改めました(27節)。

ねたみやむさぼりは感謝することで対抗できます。

①与えられたもので感謝することです。

②さらに与えてくださる主に感謝することです。

③隣人に感謝することです。

何を持っているか

何ができるかよりも、

自分が神の子であることを感謝しましょう(詩篇23:5~6)

従う者の確信  ヨハネ10:1~15

 ヨセフは、全てを益にしてくださる神のカーナビに導かれた幸せな人でした。

その神に導かれている私達は、羊飼いであるキリストについての確信に立つべきです。

[1]キリストは羊を知っている良い羊飼いです(14節)。

①キリストは門から入る正真正銘の羊飼いです(2、7~10節)。

弱った羊をいやし、養うために羊飼いは門から入ります。

キリストも、私達の罪を赦すためにこの世に来られ、罪人を生まれ変わらせ、いのちを豊かに与えてくださる救い主です。

②キリストは羊を名前で呼ぶ羊飼いです(3節)。
 
名前はその人固有のものです。キリストは一人一人を大切にされる羊飼いです。

③キリストは先頭に立つ羊飼いです(4節)。
 キリストには、想定外がありません。

私達の先のあらゆることを知っておられて、私達を導く羊飼いです。

[2]私達はどのような羊でしょうか

①イエス・キリストという門を入って救われた者でしょうか(9節)。

私達はキリストを信じて救われる時に、パンだけではなく、み言葉の牧草で養われる羊となります。

②羊飼いの声を聞き分ける羊でしょうか(3節a)。

③キリストに名前を呼ばれている羊でしょうか(3節b)。
 
キリストはあなたとの親しい関係を求めておられます。

④キリストを先頭にしている羊でしょうか(4節a)。

⑤キリストに喜んでついていく羊でしょうか(4節b)。

一番大切な質問は、あなたは羊飼いであるキリストを知っているかということです(14節)。

それは、あなた自身が羊であることを知っているかということになります。

私達は、羊飼いなしには生きていけない羊です。

そして、いのちをかけてイエス・キリストに愛されている羊です。

安心してキリストについていきましょう。
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