わたしについて来なさい Ⅱ マタイ9:9~13

 オリンピック選手が目指すものは金メダルですが、

クリスチャンが目指すものは「朽ちない冠」です(Ⅰコリント9:25)。

マタイも、キリストの「わたしについて来なさい」(9節)

のみ言葉で立ち上がり、朽ちない冠に向かってスタートを切りました。

その彼がまずしたことは、

「取税人」(不当に税を取り立てて私腹を肥やしていた役人)

や「罪人」(律法に無知な為に律法学者から見下げられていた人々)

と呼ばれる人々を招いて食事会をしたことです(10節、ルカ5:29)。

そこに、キリストを招きました。

キリストを信じて、暗闇の中から立ち上がったことを

人々に伝えたかったのです。

この姿を見たパリサイ人は、キリストの姿を批判します(11節)。

この事からパリサイ人の姿が分かります。

彼らは自称義人です

キリストを信じることで義と認められることを求めずに、

律法に従った宗教儀式を守っていることに満足して、

自分を正しいとしておりました。

そして、律法を守らない人々を見下げておりました(ルカ18:11~12)。

キリストは彼らに対して「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、

病人です。・・わたしはあわれみは好むが、

いけにえは好まない・・わたしは正しい人を招くためではなく、

罪人を招くために来たのです」と言われました(12~13節)。

キリストが言われた「罪人」とは、

羊飼いを見失って弱り果てている羊のように、

神との交わりを失い、迷い、弱っている人々の事、

つまりパリサイ人を含めすべての人間のことです。

キリストが求めておられるのは、

自分で神の前に義となろうとする犠牲をささげるのではなく、

あわれみを求めることです。

マタイのように、自分では立ち上がることが出来ないことを認めて助けて下さいという心です。

あなたが、神に対してどのような心をもっているか・・・

それが、私達の人生を変えるのです。

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)
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わたしについて来なさい マタイ9:9~13

「イエスは・・・マタイという人をご覧になって、『わたしについて来なさい。』と言われた。

すると彼は立ち上がって、イエスに従った」(9節)

イスラエルがエジプトから出て海の中を歩いて渡ったことも奇跡ですが、

ここに出てくるみ言葉「すると彼は立ち上がって、イエスに従った」という事実も大きな奇跡です。

なぜでしょうか?

[1]「すると」

キリストのなさったことは、マタイに「わたしについて来なさい」と一言言われただけです。

「すると」これが大きな結果になりました。

我欲の奴隷となって、収税所に座っていたマタイが立ち上がり、

キリストに従い、やがて「マタイの福音書」を記すような神の器となったのです。

「すると」・・・それは神のみ言葉による大きな奇跡です。

[2]「彼は」

11節に出てくるパリサイ人は、自分たちは神の律法を守り正しい人間と思い込んでいたために

キリストの救いを求めようとしなかった人々です。

マタイは取税人でした。当時の取税人は、

ローマ帝国の力をバックに法外な税の取り立てで私腹を肥やしていました。

ローマ帝国に任命された役人という地位と富で満足していた「彼」にとって

キリストは必要ないものでした。

そのような場に座り込んでいた彼が、キリストを信じて立ち上がり、従ったのです。

立ち上がるはずのない人が立ち上がった奇跡です。

[3]「イエスに従った」

手段を選ばず自己の益を求めていた収税所役人マタイにとって、

それは「益」から「損」の人生への出発でした。

当時のユダヤ人にとってキリストは異端者です。

キリストに従う事は迫害と困難の道を選ぶことです。

それでも、マタイはイエスに従う道を選びました

それは、イエス・キリストの持っている愛の奇跡です。
 
 イエス・キリストには、私達を魅了する不思議な力があります。

私達も信じ、立ち上がり、従いたいと思います。

私は・・あなたを慕い求めます」(詩篇143:6)

しかし神は  出エジプト記14:31~15:2

聖書には、「しかし神は」という記述が多々あります。
私たちは罪人・・「しかし神は」私達を救われました(ローマ5:8)。
人にはできない。
「しかし、神は」どんなことでもできます(マタイ19:26)。
出エジプトの記述も同様です。
私達にとって絶体絶命・・・「しかし、神は」海に道を作られました。
「しかし」の神はこの世に奇跡と思われるようなことをされます。

この奇跡を通してイスラエルの民は・・・
[1]神の大いなる御力を見ました(31節)
彼らは「見た」つまり、体験しました。
体験の強みは、何と言っても様々なことが身に染みて分かることです。
イスラエルの民は海にできた道を渡った時に、神の偉大さを身に染みて分かりました。
主に救われ、愛され、祈りを聞かれた体験は信仰生活の力になります。
 しかし、体験の欠点もあります
それは「忘れる」ということです。
イスラエルは、海を渡って荒野に入り苦しい目にあった時に、救われたことを忘れ、不平を言いました(15:25)。
常に、自らが創造されたことを覚え、救われた者に過ぎないことを覚えましょう。

[2]神に対するおそれを持ちました(31節)。
この恐れは、恐怖ではなく信仰と従いをもたらすものです。
神に対して聖く生きようとの思いを与えるものです。

[3]神に対して賛美を奉げました(15:1~2)。
単に「歌った」のではなく、「主に向かって」歌った、つまり賛美したということです。
世の中では、楽しいことが鼻歌となり、悲しみを紛らす歌があります。
しかし、神をおそれ、感謝する思いは賛美となります。
賛美でさらに主の愛に触れ、勇気が湧きます。
 
私達がいかなる状況の中でも「しかし」の神が働いておられます。
その神をおそれ、主の恵みを思い返して賛美しましょう。

海の中にできた道 出エジプト記14:15~31

海の中に道が出来ました。

イスラエルの民がそこを渡りました(出エジプト記14章)。

この聖書の記事は、私達の信仰生活には2つの部分があることを示しています。

一つは神の側、つまり神がなさることです。

もう一つは人間の側、つまり人間がすることです。

[1]神がなさること

人が進めないところに道を作られます(15~16節)。

そして、先頭に立ってイスラエルを導かれます(19節)。

イスラエルを敵の手から守られます(19~20節)。

しかし、この紅海にできた道は、特別な奇跡ではありません。

エジプトにイスラエルがいた時から神様がご計画されていた道です。

否、天地創造の初めから神が意図されていた道です。

これは、今も信じる私達に神がなさっていることです。

私達にも、神は私達にふさわしい救いの道を準備されておりました。

そして、この道は、永遠の神の国にまで通じる道です。

今、私達は神がご計画された道を通っているのです。

[2]人のすること

①信じることです。

13節に「恐れてはいけない」とあります。

「恐れる」とは、辞書では「相手の力に押されて心が弱くなること」とあります。

あらゆる困難、誘惑、罪と死に勝ってくださったイエス・キリストが「恐れるな」と言われていることを信じると、

私達はあらゆる“相手の力”から解放され、勇気を得ます。

②従うことです。

「前進せよ」とのみ言葉に従ってイスラエルが紅海にできた道を進んだ時、彼らは神の「救いを見ました」(13節)。

③信じ続けることです。

「主があなたがたのために戦われる」(14節)とあります。

神は常に私達の敵と戦い勝利してくださいます。

そのことを私達が信じ続ける時に、私達は神がご計画された道を歩むことが出来ます。

贖いを成し遂げ、私達を神の子としてくださり、私達の先頭に行かれるイエス・キリストに目を留めましょう。

信じ、従い続けましょう。
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