限りある地上の生涯の価値

今日は、詩篇90篇を読みましょう。

 神とは、この詩篇にあるように「主」(1節)と記され、とこしえからとこしえまで」存在するお方です(2節)。

人間は神と反対です。

「自分の齢をひと息のように終わらせる」はかない存在です。

ちりで造られ、死によってちりに帰るものです(3節)。

 聖書の原語の「死」には、「心砕かれる」という意味があります。

確かに、人間は死を前にするときに、自分の真実の姿を受け入れます。

はかなさを認める時となります。

 死は人間の罪の結果です。

「罪から来る報酬です」(ローマ6:23)。

しかし、同じ聖句にイエス・キリストによって思わぬ結果が示されています。

それは「神の下さる賜物は、私たちのキリスト・イエスにある永遠のいのちです」ということです。

 「永遠のいのち」とは不老不死のいのちという意味ではありません。

聖書では「永遠のいのちとは・・・イエス・キリストを知ること・・」とあります(ヨハネ17:3)。

つまり、イエス・キリストを信じてその交わりの中で生きるいのちのことです。

このいのちを本来人間は持っていました。

しかし、罪によってそのいのちが損なわれたのです。

罪の解決なしに、永遠の命を持ち、永遠の御国に入る事はできません。

 イエス・キリストは、その私達の罪を解決するために、十字架にかかり、私達の身代わりとなって刑罰を受けてくださいました。

このイエス・キリストを受け入れる者に、神は神の子としての権利を与え、永遠のいのちを与えられるのです(ヨハネ1:12)。

あなたには、限りある生涯において、永遠のいのちをいただき、神の国に入る機会が与えられています。

「わたしは、戸の外に立ってたたく。」とキリストは言われます(黙示録3:20)。

あなたの心の戸を開いてキリストを受け入れてください。

その時あなたは永遠のいのちを与えられて救われます。

神と共に歩む豊かな人生を過ごしてください。
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福音の力 コロサイ3:1~10

 パウロが「私は福音を恥とは思いません」(ローマ1:16)と言っている一つの大きな理由は、福音には力があるからです。その力は、

 [1]この世で体験できるものと
 [2]永遠の御国において表されるものがあります。

[1]この世に於いて、福音には力があります

①信じる者に「キリストとともによみがえらされた」という確信を与える力となります(1節)。

キリストは、十字架で死に、よみがえられたのですが、そのことが私達の生涯に見えない形で現されます。

つまり、5~10節にあるこの世の罪や誘惑に死にながら、神に対して生きていけるという歩みが福音によって可能になるのです。

さらに・・・

②「上にあるものを求めなさい」(1節)とあるように、永遠に価値あるもの、「神の右に座を占めて」(1節)私達をとりなしておられるキリストを求めながら生きていくことができます。

キリストによって、この世の不測の事態に対応しながら歩むことが出来ます。

③「天にあるものを思いなさい」(2節)とあるように、キリストを思い、天国を思いながら希望と確信に満ちた歩みをすることができます。

[2]永遠の神の国において福音の力が働きます

私達のいやしい体が「キリストとともに、栄光のうちに現われる」という変化が起こります(4節)。

福音は、罪のゆるし(新生)、きよめ(聖化)、体のいやし(神癒)を与えますが、キリストが再び来られる時に、私達の体は病気や死に支配されない栄光の体に変えられます(栄化)。
 
 信じる者は、このような豊かな福音の恵みの中にあります。

福音は力です。

十字架で死んで罪をゆるし、よみがえり、あなたのために今も生きておられるイエス・キリストがおられることを信じてください。


福音を恥としない ローマ1:14~17

福音とは、キリストの死と復活の出来事です(Ⅰコリント15:3~5)。

かつてパウロはこれを愚かなことと思っておりました。

しかし、キリストを信じて後に「私は福音を恥としない」と言っています(16節)。

なぜでしょうか?

キリスト者の負債だからです(1:14、15)

福音によって救われた私達は「世界宣教」という使命を神から託されており、それはキリスト者の負債です。

私達も誰かが福音を自分に伝えてくれたからこそ、今の自分があるのです。

その事を覚えつつ、他者の救いに対して、無関心な者ではなく、どこにおいても主を証し、この責任を果たして行きましょう。

福音は神の力であるからです(1:16)

パウロの時代も今も、信じない多くの人々にとって「十字架のことば」、つまり福音は「つまずき」であり「愚か」と見なされています。

しかし、福音は信じる全ての人に救いを得させる神の力であり、私達の救いの唯一の道です(Ⅰコリント1:18)。

主と主の御言葉である福音こそが永遠に変わることがない私達の最大の希望です。

私達が「福音を恥」としないためには、福音の恵みのすばらしさ(広さ・深さ・長さ・高さ)を日々、体験し続けて行く事が必要です。

福音には神の義が啓示されているからです(1:17)

「神の義」とは、罪を全く嫌う神の「正しさ」です。

しかも、その「正しさ」は単に罪人を裁くのではなく、キリストを信じる者を義とし、神との正しい関係に導きます。

これが神の救いの業であり福音における神の義です。

神によって義と認められた私達が、救いの恵みに感謝し、「信仰に始まり信仰に進む」事を神は願っておられます。

私達は、福音によって救われた者です。

救いを得させる神の力である福音を恥とせず、福音を大胆に証して行く者となりましょう。

私は福音を恥とは思いません。

福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です
。」 (ローマ1:16)

聖書を焼いた王 エレミヤ36:1~8

 イスラエルは南北に分裂し、さらに神に対する不信仰のために衰退し、遂にどちらも滅亡します。

滅亡寸前に預言者として登場したのがエレミヤです。

彼は民の不信仰を戒め、バビロンに降伏することを民に勧めました。

また、神の顧みの時が来ることも預言しました(29、31章など)。

 36章で、エレミヤは神のことばを語り、それをバルクが巻物に記します。

やがてバルクが民の前でそれを読み、それを聞いた首長たちが心動かされて、当時の王エホヤキムの前でこの巻物が読まれました。

しかし、王はその巻物を小刀で切り裂き、火で焼きつくしました(23節)。

この王とは、神の言葉を捨てて生活していたかつての私達の姿です。

また、この王は、この世を支配している力です。

み言葉を無視させ、神に背かせて人間を滅びへと導く罪の力です。

イスラエルはネブカデネザル王のバビロンによって滅びましたが、この世は罪の為に滅ぼされます。

この王に立ち向かった人々がいました。

エレミヤ自身もその一人ですが、彼のことばを聞いた首長たちも、巻物のことばを王に聞いて欲しいと思いました(16節)。

王が巻物を火で焼こうとしている時に、これを必死になって食い止めようとした人々がいました(25節)。

私達はどのような状況の中でもみ言葉を伝えるべきです。

神のことばは、どのような反対にもかかわらずに語り伝えられてきました(Ⅱテモテ2:9)。

そして、みことばのとおりに神のご計画は進められてきました。

エレミヤが預言した通り、イスラエルはバビロンに捕囚となり、やがて神の顧みの時が来ました。

救い主が世に誕生し、私達が救われたのです。

神のみ言葉は真実です。

人はみな草のようで、その栄は、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」(Ⅰペテロ1:24)

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