あなたがたの教会 使徒1:6~8

「私の証人となる」(使徒1:8)。

これは4年後の私達の教団創立70周年の標語です。

ここに「あたがた」とあります。

教会は、私達一人一人がキリストの体の枝となり建てあげる「私達の教会」です。

同時にそれはイエス様の側からは「あなた方の教会」、つまり特別召された「あなた方」の教会です。

[1] 私達はキリストによって一つとされた「あなた方」です

①まず、私達は個人的にキリストと一つとされました。(ヨハネ1:12)。

②「罪赦されて神に愛されている者」という同一のアイデンティティーを持っています。

ですから、男女、年齢、国籍に関係なくキリストによる一致があります。

③目標が一つです。

Ⅰコリント9章によると、スポーツとの相違点があります。

「賞を得るために」という共通の目標(24節)があります。

スポーツの賞と違って、クリスチャンに与えられる賞は「朽ちない冠」です(25節)。

スポーツの決勝点は、この世ですが、クリスチャンは永遠の神の国です(26節)。

それには、人間的な努力ではなく、祈りやみ言葉と聖霊によって「体をうちたたいて」求めることが必要です(27節)。

[2]お互いが相手を必要としているあなた方です。

キリストによって一つとされ、教会につながる私達は、お互いに支えられている者達です。

[3]一致するところに聖霊が働くあなた方です

「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」(マタイ18:19)。

私達は、キリストによって「あなたがた」とされました。

一つとなって、キリストの証人となり、キリストの言われる「あなたがたの」教会を建てあげましょう。
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教会の一致  エペソ4:1~16

神の御心は、キリストの体なる教会が一致して健全に建て上げられて行く事です。

そのために3つの事が必要です。

 ①召しにふさわしく歩む(1~6節)

「召しにふさわしく歩む」とは神と共に歩み、神の御心(聖書の御言葉)に従って歩む人生の事です。

それは私達がキリストの謙遜と柔和を身に付け、寛容と愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊による一致を熱心に保つ事です。

そして唯一、真の父なる神の栄光を現す者となる事です。

賜物の多様性とキリスト者の目標の到達(7~16節)

神が私達に「賜物」を与えられた目的は、私達がその賜物を用いて神に仕えるためです。

また、主御自身が「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げる」ために、教会に牧師職を立てられました。

こうして教会は多くの人々の賜物と役割を通し、また互いの交わりによって、あらゆる点で成長し、結び合わされ、愛のうちに建て上げられて行きます。

そして、私達(教会全体)は完全に大人の信仰者(内面と外面)となり「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」という目標(究極的には再臨の日)を目指して進んで行きます。

教会における3つの一致(3節、13~15節)

4章は「御霊の一致」「信仰の一致」「知識の一致」という3つの一致が出て来ます。

「御霊の一致」とは、私達が常に御霊に導かれて歩めるように神に祈り願いつつ、その御霊の力が私達に働く事による一致です。

「信仰の一致」とは、私達が常に主を信じる信仰を土台として歩む事による一致です。

「知識の一致」とは、私達が常に御言葉に基づく正しい福音理解に立つ事による一致です。

この3つが教会の一致のために必要です。

私達は召しにふさわしく歩み、賜物を用いて神の栄光を現し、主の愛の中で成長し、御霊の一致を保って行きましょう。

ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し

完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」
(エペソ4:13)

イエスこそわが岩 マタイ7:24~27

キリストは、マタイ5章から「山上の垂訓」と言われているメッセージを語られました。

そしてその結びとも言えることをここで語っておられます。

それはみ言葉を聞く者が「行なう者」となることです。

ルカ6章47節では「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人」とあります。

[1]キリストのもとに来る

ザアカイは、キリストがどんな人か見たいと思いました(ルカ19:1~4)。

彼は金銭欲に捕らわれていましたが、その彼がキリストを求めたことは、

彼の魂が金銭以上のものを求めていた証拠です。

彼にそのような思いを与えられたのはキリストです。

どのような人にも、信じる前からそのような先行的な主の恵みがあります(詩篇19:1~4)。

[2]キリストのことばを聞く

ザアカイがキリストを求めた時に、キリストの声を聞きました(同19:5)。

キリストは語り掛ける生ける神です。

[3]キリストのことばを行う。

ザアカイは、キリストを迎え、財産を貧しいものに与え、だまし取った人に返す決心をしました(同19:6~8)。

つまり、キリストのところに来て、み言葉を聞くならば、み言葉を行うものとなれるのです。

 主は日常生活のどのような場にあっても共におられます。

招いておられます。そして語られます。

「愛する者をしかったり、懲らしめたりする」こともあります(黙示録3:19)。

それは、みことばに従う者をキリストと共にご自身の王座につかせるためです(同3:21)。

キリストこそ私達の信頼すべき岩です。

主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇士たちよ。

主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行ない、主に仕える者たちよ
。」           
                               (詩篇103:20~21)

子供を招くキリスト  ルカ18:15~17

子供は、自分自身が子供であるという事を十分認識しておりません。

大人から見ると子供であることが分かります。

その逆に、子供の方が大人のことを見ていることもあります。

[1]キリストは子供をどのように見たでしょうか

「子供のように神の国を受け入れる者でなければ」と言われました(17節)。

つまり、子供は「受け入れる」天才です。

それは、生まれるとすぐに養ってもらい、助けてもらわなければならず、受け入れてもらわなくてはならない存在だからです。

神の国は、そのようにキリストの恵みを受け入れる者がいく所です。

 さらに子供は「泣く」天才です。

特に乳呑児は泣くことによって母親の乳を慕い求める者です。

神の国は、み言葉の乳を慕い求め、み言葉に養われた者が行ける所です(Ⅰペテロ2:2)。
 
 また子供は信じる天才です。親子の関係を疑わず、叱られても家に帰ってきます。

同じ18章に出てくるパリサイ人も役人も、キリストを信じることよりも自分の行いの正しさに頼りました(11~12節 18節)。

[2]弟子たちは子供たちを邪魔者としました(15節)。
 
その子供たちをキリストは呼び寄せました(16節)。

キリストにとっては、この世に不要な者は誰もいないとう事です。

全ての人がキリストの招きと祝福の中にあります。

[3]人々は、子供たちをキリストが触っていただくため、みもとに連れてきました(15節)。

これは、親が子どもと一緒に礼拝をしている姿です。

子供の魂を思い、子供がキリストに触れることを願うという親の務めを示しています。

子供に限らず、私達は周りの人々の魂のために重荷を覚え、それらの人々がキリストに近づくための懸け橋となれたら幸いです。

子どもたちをわたしのところに来させなさい」(16節)

このキリストのみ言葉をどのように受けとめられるでしょうか。
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