苦しまなかったら エペソ1:7~11

「もしも私が 苦しまなかったら 神様の愛を 知らなかった・・・」という賛美歌があります。

戦後、赤痢のために脳性小児麻痺によって不治の病に侵された水野源三さんの詩です。

彼は、苦しみを通して知った神の愛を、唯一自らの意思で動く“まばたき”によって記しました。

 私達はどのような苦しみの中でも、神の愛を知ることができます。

また、苦しまなかったら分からない神の愛があります。

そのような苦しみとは何でしょうか。

[1]罪の為に苦しまなかったら、十字架の恵みが分かりません。(7~8節)

キリストを信じる前に、私達は神なんかいない。

見えない神を信じるのは馬鹿らしいと思っておりました。

私達はそのような罪人でした。

その罪深さは、信じてさらに教えられるものです。

自己を喜ばせることが動機となる自分。

人の誉れを求めている自分・・・そんな自分の罪深さのために悩む人は幸いです。

その罪が分かるたびに、こんな自分の為に死んでまでも救いの道を開いてくださったキリストの十字架の恵みが注がれます(ローマ5:5)。

[2]この世で絶望しなければ、あふれる希望の恵みが分かりません。(ローマ5:1~5)

八方ふさがりの体験をしたことがあるでしょうか。

そのような人に、真の希望を神は与えられます。

それは「患難さえも喜んでいます」と言わせる希望です。

「失望に終わることがありません」と確信できる希望です。

[3]この世の空しさで苦しまなかったら、主の豊かな慰めが分かりません(Ⅱコリント1:3~5)

キリストは私達に語り掛けられる生きた神です。

その語るみ言葉には真の慰めがあります。

それは、自分が慰められるだけでなく「どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができる」慰めとなります。

[4]神様なぜですか・・という苦しみが無かったら、神の豊かなご計画の恵みが分かりません。(エペソ1:9~11)

高校野球の選手宣誓で「人は誰でも、答えのない悲しみを受け入れることは、苦しくて、つらいことです。」と石巻の主将が言いました。

多くの人々の心になぜですかという思いがあることが分かります。

ここを通ると、神の豊かな愛とご計画(摂理)があることが分かります。

私達の行くところに、あふれる神の恵みがあります。
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神との平和  ローマ5:1~11

信仰によって義と認められた者はキリストによって「神との平和」を持つ者とされています(1節)。

では「信仰義認の結果」として神との平和(シャローム)を得たキリスト者はどのような者に変えられて行くのでしょうか。

[1]再臨の恵みに立つ(2節)

救いの恵みに預かった者は神の栄光(再臨の日)を待ち望む者として、その日(救いの完成の日)が来る事を大いに喜ぶ者となります。

私達は、この「再臨の恵み」に立ちましょう。 

[2]艱難による希望を喜ぶ(3~5節)

神との平和を得た私達は「艱難」に遭う事もあります。

しかし、艱難を通して生み出されるもの(忍耐、練られた品性、希望)があります。

それらの事によって、神が全ての事を益に変えて下さるので、私達はたとえ「艱難にあっても喜ぶ」事が出来るのです。

そして最終的に神が私達に与えて下さるものは「失望に終わることのない希望」です。

その究極的な意味は、私達が今、直面している一時的な艱難を経て、やがて私達の将来に用意されている永遠の天国に入ることができるという希望です。

神がこの事を約束されているので、私達は艱難によって生み出される希望を喜ぶ事が出来るのです。

[3]神様の愛を喜ぶ(5~11節)

 神は聖霊による愛を私達に注いでおられます。

それは私達が弱く、不敬虔で、罪人で、敵であった時に、キリストの死によって、すでに神はご自身の愛を明らかにされました。

私達はキリストによって和解させて下さった神を大いに喜びましょう。

神との平和を持つ私達は、神と私達人間との和解の務めを成して下さったイエス様の十字架を日々、仰ぎ、感謝しつつ、神との平和の関係を更に深く築き上げて行きましょう。

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」                    
                    (ローマ5:1)
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