良い実を結ぶ木 マタイ7:13~20

私達がキリストを信じて救われ、クリスチャンとなっているということは内側、つまり本性が変わったということです。

15節にあるように、外側は羊で内側は狼であるという偽物になったのではありません。

狼が全く羊に変わるということです。

17節のみ言葉からすると「悪い木」が「良い木」になったという大変な奇跡なのです。

「良い木」であるかは、実でわかります。

悪い木は悪い実を結びますが良い木は良い実を結びます。

救われたということはその人の言行に表れ、最終的には神の真の審きに耐えられるという結果に表れます。

神からの栄誉を求めているか、人からの評判を求めて生きているかという生きざまに表れます(ヨハネ5:44)。

自分が真に良い木であるかを考えてみましょう。

そのためのテストが必要です。

[1]本来の自分は良い実を結べない、無力な汚れた罪人であるという事実を認めているでしょうか。

[2]そんな自分がキリストを信じて、マタイ5章にあるように心の貧しいものであるか、罪を悲しんでいるか、柔和 であり義に飢えかわいているでしょうか。

キリストにつながって、良い木とされているならば、必ず良い実を結ぶことができます。

良い木が結ぶ良い実とは、聖霊の実です。

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22~23)

全く聖なるもととしてくださるキリストを見上げましょう。

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように
                               (Ⅰテサロニケ5:23)
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聖なるものとなるために Ⅰテサロニケ5:23

前々回、カナの婚礼の記事を通して「聖なるもの」の姿を学びました。

問題をキリストに委ねたマリヤ、黙々と従った手伝いの人々、そして神の栄光を現わされたキリストの姿です。

私達は皆、「全く聖なるもの」に向かって生かされ、取り扱われているものです。

そのために心がけることがあります。

[1]聖なるものとするキリストを見上げることです

パウロは牢獄の中でキリストを見上げて、貧しさの中でも豊かな境遇の中でも満ち足りることを学びました(ピリピ4:12)。

ペテロは、己の砕かれたキリストを見上げています(Ⅰペテロ2:22)。

さらにパウロは、自分も一緒に十字架につけてくださり、己を砕いてくださるキリストを見上げました。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。

[2]キリストに委ねることです

前述のガラテヤ2:20にある最初の「私」は、自分で何でもやらなけれならないと思っている「私」です。

私の願いや思いを優先させてしまっている「私」です。

願い通りに事が進むと満足しますが、逆に思い通りに進まないと落ち込んでしまう「私」です。

しかし、その願いや思いをまずキリストにゆだねてキリストの判断を仰ぎますと「キリストが私のうちに生きておられる」という確信に満ちた歩みに変わります。

[3]聖でない自分に気付くことです

この自分の思いや願いに支配されている「私」に気付くことが「全く聖なるもの」の入り口です。

キリストを信じていてもキリストに従えない自分、周りに問題を起こしている自分、

世の力や魅力にとらわれている自分に気付くとき、目の前に十字架につけられたキリストが見えてきます。

全く聖なるものとしてくださるキリストを見上げましょう

栄光の富による豊かさ ピリピ4:10~20

パウロは、獄中の中でも、ピリピの人々の祈りと愛の奉仕と主の恵みの豊かさを通して、いつも主にあって喜んでいました。

主に捧げる事による豊かさ(4:10~11、14~18)

ピリピの教会の人々は獄中にいたパウロに献金を送り、彼への支援を通して彼と共に福音宣教の働きに参加しました。

彼らの真心からの捧げ物は、主に喜んで受け入れられる「香ばしいかおり」、主への「供え物」となりました。

主は喜んで捧げる人に「収支を償わせて余りある霊的祝福」を与えて下さいます。

彼らは「主に捧げる事による豊かさ」に預かりました。

どんな境遇でも満ち足りる事の豊かさ(4:11、12)

パウロは獄中の中で「どんな境遇にあっても主にあって満ち足りる」事を学びました。

彼は主の満ち足りた豊かな祝福を頂いて「あらゆる境遇に対処する秘訣を心得」ていました。

その秘訣は自分の自我が、「キリストと共に十字架で死んでキリストが私の内に生きる」という体験です。

聖霊なる主に自分を明け渡し、主にゆだねて生きる時に、私達はどんな境遇にあっても満ち足りる事の豊かさに預かる事が出来ます。

主の栄光の富による豊かさ(4:13、19~20)

パウロは、獄中の中でも失望する事なく、「私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる」という確信を持っていました。

これはキリストご自身の持っておられる「栄光の富」による豊かさです。

全ての必要を全て満たして下さる主の豊かさです。

彼はそのキリストに信頼を置きました。

そして、彼は栄光の富に満ち溢れている天の御国を目指して、獄中の中でも、日々、救いの喜びと希望に満ちて、生きる事が出来ました。

私達に最も必要なのはイエス・キリストによる救いです。

救われたものは、永遠のいのちを持ち、この「栄光の富」を自分のものとすることができます。

私達は主にある救いの喜びに日々、満たされつつ、主の栄光の富による豊かな恵みの中に生きる者とさせていただきましょう。

私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」 (ピリピ4:19)

キリストの最初の奇跡 ヨハネ2:1~11

イエス・キリストが行われた最初の奇跡は、結婚式での出来事でした。

この出来事の中に、「全く聖なるもの」(Ⅰテサロニケ5:23)を示唆するものがあります。

[1]母マリヤの姿

当時、宴会にぶどう酒が必要でしたが、この婚礼でぶどう酒がなくなってしまうというハプニングが起こりました(3節)。

そこに居合わせたキリストの母は、その窮状をありのままにキリストに訴えます(3節)。

彼女は①自分にできないことを認め、

②不平を言わず、世話役を非難することなく、

③問題をキリストに委ねました。

[2]手伝いの人々の姿

キリストは、手伝いの人々に水がめに水を満たし、それを宴会の世話役のところに持って行くように命じます。

そして、会場で水がぶどう酒に変えられるという奇跡が起こりました。

彼らは、何が起こるか分からないままにただキリストの言葉に従いました。

キリストの言われることに黙々と従う姿が聖なるものにふさわしいのです。

[3]イエス・キリストの姿

この出来事は単なる奇跡ではなく、キリストはご自分の「栄光を現わされた」とあります(11節)。

イエス・キリストに贖われたものは、神の栄光のために生きることに意味があります。

私達の身の上に起こってくる全ての問題を主に委ねましょう。

キリストが言われることに従いましょう。

神はあなたを通してご自身の栄光を現わそうとしているからです。

「全く聖なるもの」の歩みをさせて頂きましょう。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。
                 (Ⅰコリント6:20)
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