平和の神Ⅱ Ⅰテサロニケ5:23~24

聖書の神は「平和の神」です。

罪人に神との和解による救いを提供しておられます。

その救いが人との平和、自分との平和の原点です。

「平和の神」の御子イエス・キリストの「来臨のとき」がきます(23節)

世界の終末時計の針が12時5分前になったと報じられました。

世界と地球を取り巻く環境悪化によるものです。

しかし、聖書の終末はキリストの来臨(再臨)です。

私達の唯一の希望です。

多くの人々は、このメッセージを愚かなものとしています(Ⅰコリント1:18)。

十字架の完全な恵みを受け入れないと、キリストの来臨は恐ろしいものと受けとめられます。

しかし、「全く聖なるものとし」「責められるところのないように」してくださる平和の神に信頼する者にとっては、「アーメン。主イエスよ、来てください」との祈りをもって待ち望むべき、平和な御国に移される救いの日です。

「平和の神が」私達をきよめ、全く聖なるものとしてくださいます

私達の信仰は、「私が」何ができるかではなく、「神が」何をしてくださったかが大切です。

「私が」誰であるかではなく、「神が」どのようなお方なのかなのです。

ペテロは、一晩中漁をして、何の獲物もありませんでしたが、「キリストが」言われることに従って網を下し、奇跡的な大漁という結果を得ました(ルカ5章)。

「わたしが事を行えば、だれがそれをとどめることができよう」と言われる主を見上げましょう。

主は私達を全く聖なるものとするために十字架にかかられました。

復活されました。

あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(Ⅰテサロニケ5:24)
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聖なる者に  イザヤ6:1~8

今日の聖書の箇所で、イザヤは生涯の中で最も大切な宗教経験をしました。

主を見た(6:1~4)

イザヤは「高くあげられ王座に座しておられる主」を見ました。

この時、イザヤは直接主を見たのではなく主の栄光が神殿に満ち、セラフィムが飛びながら主を賛美する光景を通して、そこに主がおられるという「主の臨在」を見たのです。

私達も「聖なる、王なる(万軍の)、栄光の」主の隣在に触れるという体験ができます。

自己の真相を見た(6:5)

イザヤは聖い主の御前に立ち「ああ。私は、もうだめだ。」と叫びました。

イザヤは自分が主の前に口びるの汚れた者であり、自分が今まで裁いてきた腐敗した南ユダの民と同様の罪汚れた滅びるべき存在でしかない事に気付かされました。

イザヤは「主の聖さと臨在」に触れ、自己の真相を示され、その場で粉々に打ち砕かれました。

私達は主の聖さを知る時、自己の真相も知るのです。

主のお取り扱いを見た【聖化の恵みの経験】(6:6~8)

イザヤが自分を知り、打ち砕かれ、自分の内側を全く主に明け渡した時に、主はイザヤに恵みを施されました。

主は、御使いを通して、祭壇の上の燃える炭火をイザヤの口に触れて、彼に罪の赦しと聖めを宣言され、恵みのお取り扱いをされました(聖化の恵み)。

その後、主はイザヤに預言者としての再召命の御声をかけ、イザヤは直ちにその御声に従いました。

主は自己の真相を知り、聖い主の御前に打ち砕かれて、悔い改め、自分を主に明け渡す者だけをお用いになります。

私達も聖い主を知り、自分の姿を知り、砕かれ尽くして、主の十字架を仰ぎ見ましょう。

聖霊が私達を聖なる者として下さいます。

信仰を持って、聖化の恵みを経験し、8節の御言葉のように、主の御声に応答し、聞き従って、福音に仕えて行く者となりましょう。

「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
 (イザヤ6:8)

「主の歓迎」 マタイ11:28~30

イエス様は神の子であるからこそ、神のすべての真理を人間に啓示する権限をゆだねられた、唯一の啓示者(神を示すお方)です。

主の招きのことば(11:28)

28節の招きのことばは、イエス様が唯一の啓示者としての権威のもとに語られています。

私達がイエス様以外の所へ行っても福音の真理は啓示されません。

そこには真の救いも、休み(安息)もありまえん。

人生における全ての悩みや苦しみは、イエス様の福音を信じることによって初めて真に解決され、休みが与えられます。

主のくびきを負い、主から学ぶ(11:29)

当時のユダヤ人にとっては、律法やそれに付随する伝承を守ることは重荷であり、くびきでした。

しかし、イエスが私達に負わせるくびきは軽いのです。

なぜなら、イエスは心の優しい、へりくだった方であるからです。

また私達の重荷を先に立って共に負って下さるからです。

「わたしから学びなさい」とは知的に何かを学ぶと言うよりも、イエス様の歩まれた御生涯を模範とすることなのです。

主のくびきは負いやすく、その荷は軽い(11:30)

私達がイエス様に従って行く時、そのくびきは「負いやすく」、少しも重荷とはなりません。

主を信じる、とは神の命令を守り、行う事です。

その事こそ、私達キリスト者がイエス様から与えられた「負うべきくびき」なのです。

しかし、それは決して重荷とはなりません。

なぜなら、私達が主に従って行く時にこそ、主からの「真の平安と喜びと祝福」を頂く事が出来るからです。

私達が日々の歩みの中で苦しみ、悩み、疲れる事があってもイエス様はそんな私達をいつでも歓迎しておられます。

イエス様こそが私達に唯一の心の安らぎを与えて下さいます。

私達も「イエス様のくびき」を負いつつ、イエス様のもとに行って、日々、その重荷を下ろし続けて、魂の安らぎを頂き続けて行きましょう。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
                                        (マタイ11:28)
 
 

クリスマスの愛 マタイ1:18~23

(このメッセージはクリスマス礼拝で語られたものです) 
ヨセフは苦しみました。

彼の苦しみからクリスマスは始まったとも言えます。

彼の苦悩は、婚約者のマリヤが身重になったからです(18節)。

19節に「ヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた」とあります。

彼の悩みは次のように考えられます。

[1]「正しい人」の悩みです。

神は男女の正しい関係を求めておられます(創世2:24)。

その神の戒めに背いた者は石で撃ち殺すように命じておられます(申命記22:22)。

この世は、このような清さがあいまいになっています

罪を正しく悩むことも乏しくなっています。

しかし、ヨセフは、その神を愛して生きる潔い人でしたので、マリヤを見て悩みました。

[2]愛ゆえの悩みです。

その一方で、ヨセフはマリヤをさらし者にして石で打ち殺すことに抵抗を感じました。

ヨセフは、軽はずみに人を裁くのでなく、彼女のことを深く思う愛のある人間でした。

[3]人間の限界故の悩みです。

しかし、この時彼のとった態度は「内密に去らせる」ことでした。

さらし者にもできないし、罪を放っておくこともできない・・・

彼は悩みに悩み、ついに彼女を去らせようと決心しました。

これは秘策ではありますが、完全な解決ではありません。

人間の考えることには限界があります。

[4]神の介入を要する悩みです。

「彼がこのことを思い巡らしていたとき」(20節)、天の使いによって、マリヤは聖霊によって救い主を身ごもっていることが伝えられました。

ヨセフはこれを受け入れました。

そして、キリストが誕生したのです。

私達が行き悩むとき神の介入があります。

[5]神が私達の為に苦悩されたことを示しています。

神はヨセフと同様、罪人である私達のために愛と義の狭間で苦悩されました。

そして、遂にひとり子であるキリストを罪からの救い主として世に遣わしました。

これが真のクリスマスの意味です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。

キリストはあなたのために生まれてくださった救い主です。
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