主との出会い  使徒9:10~22

サウロは、ローマ市民権を持つユダヤ人で、ユダヤ教の中でも熱心なパリサイ派に属していました。

そして、彼はクリスチャン達をユダヤ教の異端と見なして迫害していました。

その彼の生涯に大きな変化が訪れました。

ダマスコへ行きクリスチャンを引き続き迫害しようとしていた彼に、キリストが天からの光をもって現れたのです(9:1~3)。

このことによって彼は変えられ、引き続いて彼の上にさまざまなことが起こりました。

①アナニヤの派遣(9:10~17)

キリストの光に打たれたサウロは目が見えなくなりました。

サウロが3日間、断食していた頃、神様はアナニヤというクリスチャンに幻の中で現れ、サウロの所に行って、彼の上に手を置くように命じられました。

アナニヤは最初は戸惑いましたが、「行きなさい」(15節)と言われる主の言葉に従い、サウロのもとに派遣され、神様の言葉を伝えました。

サウロの回心(主との出会い)(9:18~19)

サウロは、仲介者アナニヤを通して、聖霊に満たされ(肉体的・霊的)目が開かれ、主を信じ、神様のもとに立ち返り(回心し)、洗礼を受けて、クリスチャンとなり、兄弟として、ダマスコの弟子達の交わりの中に加えられ、真の意味で、主との出会いを経験しました。

サウロの宣教(9:20~22)
「新生の恵み」に預かったサウロは、ただちに、ユダヤ教の諸会堂に行って、「イエスは神の子である」と宣べ伝え始めました。

こうして、サウロは「キリスト教迫害者」から「キリスト教伝道者」へと180°方向転換し、主の恵みによって、全く新しい者へと造り変えられたのです。

この後、サウロは、新約聖書最大の伝道者、使徒パウロとして、多くの働きをしました。

キリストとの出会いはいろいろありますが、パウロと同様にキリストとの出会いにより、私達の人生は全く新しく変えられます。

主との出会いこそが、私達の人生の最大の出会いです。

主との出会いを経験した私達は、さらに主の恵みによって新しい者へと日々造り変えられ続けていきます。

あなたの目も、イエス・キリストが開いてくださいますように。

するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった」(9:18)
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いのちに至る門  マタイ7:13~14

キリストを信じた者は、罪を赦されて、罪の支配から救い出され、キリストの支配の中にあります(コロサイ1:13~14)。

そのようなクリスチャンの生き方は、狭い門から入り、狭い道を歩き続けることです。

これは、一般の大多数の人々とは違う生き方です。

なぜ、このような狭い門、狭い道がキリストを信じた者にとって真に魅力的な道なのでしょうか?

[1]この世の生き方は「空の空」だからです(伝道1:2)。

単に人間の欲望を満たす楽しみや一時的な喜びは、一見魅力的です。

しかし、それらは色あせていくもの、空しさと後ろめたさが残るものです。

[2]この世の生き方の到達点は「滅び」だからです

「罪から来る報酬は死(生きながらの死、体の死、永遠のさばきの死)です。

しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)。

[3]信じた者が狭い門、狭い道を歩むことは難しいことではないからです

失敗し、たとえ道を踏み外しても、そのことを認めて罪を悔い改めるならば主と共に歩み続けることができます。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)。

[4]イエス・キリストが狭い門、狭い道を通られたからです

キリストは神であることを捨て(ピリピ2:6)、父なる神の御心に従い、十字架の道を選ばれました。

そして、その行く先には復活があり神の栄光が待っていました。

このキリストを見上げる時、私達もその道を歩みたいと思います。

そして私達はキリストの姿に変えられるのです。

「私たちはみな・・・主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます・・」(Ⅱコリント3:18)。

狭い門、狭い道をともに歩みませんか?

闇の中の大きな光  イザヤ9:1~5

キリストがこの世に来られたクリスマスの出来事は夜でした(ルカ2:8)。

イザヤは、この事を預言していいました。

「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た」(イザヤ9:2)。

イザヤの見た暗闇がありました。

イスラエルはソロモン王の後、北のイスラエルと南のユダ王国に分裂しました。

当時イザヤが住んでいたユダ王国は、攻めてくるアッシリアの脅威の中にありました。

当時の大国アッシリアはイスラエルをすでに滅ぼしていました(Ⅱ列王17:6)。

ユダ王国は、圧倒的な脅威という闇に包まれていたのです。

現在の私達にも想定外の災害や苦しみと言った闇がありますが、最も恐ろしい闇は一見闇と分からない闇です。

現代は、表面上は豊かで平安のようですが神が見えないという闇に包まれています(黙示録3:14~17)。

罪を罪と自覚できないという闇があります(Ⅰヨハネ2:9~11)。

イザヤの見た光がありました。

すでに滅ぼされたイスラエルですが、イザヤはそのイスラエルが神の「光栄」を受けると預言しました(9:1)。

目の前の惨状よりもその先に神がなさる光を彼は見ていました。

将来の光を私達は先取りできるのです。

クリスチャンは、天国の喜びを今味わうことが出来ます。

ヒゼキヤ王は、アッシリアの来襲にも関わらず、その先に神の助けがあることを見ていました。

「アッシリアの大軍に、恐れをなしてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである」(Ⅱ歴代32:7)。

暗闇の中に光があります。

イザヤの見た光はクリスマスとなって実現しました。

キリストは人間となってこの暗闇の世に来てくださいました。

そして、罪とあらゆる誘惑に勝利されました。

十字架にかかられ、罪に立ち向かってくださいました。死からよみがえり、死に勝利してくださいました。

イエス・キリストを闇の中の大きな光として信じませんか?

光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」(ヨハネ12:36)。

クリスマスの約束 ヨハネ1:9

旧約時代の預言者イザヤもミカも、キリスト降誕700年以上前の人です。

イザヤは救い主キリストが男の子つまり人間としてこの世に来ることを預言ました。

ミカはベツレヘムに生まれることを預言しました。

これらの預言通りに、キリストは来て下さいました。

ヨハネはその預言の成就を「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」と言いました(ヨハネ1:9)。

この「来た」とは、イザヤが「主の熱心がこれを成し遂げる」(9:7)と言っているように、何が何でも人々を救うために愛をもって「来た」ことを示しています。

さらにキリストが「来た」には様々な意味が込められています。

[1]神の姿を捨てて来られました。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(ピリピ2:6~7)。

人間は人間以上の能力や知性を持った者にあこがれます。

神のようになりたいと思います(創世記3:5)。

しかし、キリストは逆に神の姿を捨てて、卑しい人間の姿になられました。

人間がきよい神が分かる姿になって来られました。

[2]人間の悩みの中に来られました。

キリストは、この世に来られて言われました。

「あなたがたは、世にあっては患難があります」(ヨハネ16:33)。

キリストが天から人を見降ろして「人間には患難があるんだね」と言われても、世にある私達にはピンときません。

しかし、キリストは人としての苦しみの中を生きてくださいました。

そのキリストの「患難があるんだね」は私達の心に響くものがあります。

[3]救うために来られました。

ヨハネ16:33は、次のように続きます。

「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

人間の体を持って来られ、この世の苦しみに勝ってくださり、死を打ち破ったキリストの「勇敢でありなさい」は私達にとって信じるべき言葉です。

そのキリストが私達を罪と死から救われます。

 キリストはあなたを救うために、あなたのところに来られたのです。
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