ゴールデン・ルール マタイ7:12

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。

これが律法であり預言者です」  (マタイ7:12)。

神の律法である旧約聖書を要約すると、上記のみ言葉になります。

それで、このみ言葉は「ゴールデン・ルール」(黄金律)と呼ばれます。

神の律法は、神の御心の表現です。

人が実行するように与えられました。

しかし、残念ながら人はそれを実行できません。

人が罪のために堕落しているからです。

それは自己中心、自己満足という形で現われます。

こんな私達がどうしたら神様の御心である神の律法を行うことができるでしょうか?

[1]神を出発点とすることです

私達の存在の原点は、私達をご自身の栄光のために造られた神です。

その神との交わりの中にあって、私達はその御心を行う真の人間としての営みができるのです。

[2]自分は、自らでは実を結ぶことのできない「ぶどうの枝」であることを認めることです
(ヨハネ15:1~5)。

つまり、キリストを離れては何もできない自分の姿を認めることです。

[3]人も自分と同じく、キリストの恵みなしでは「罪の中に死んだ」者であり、悪に支配されており、神に従いえない罪人であることを認めることです(エペソ2:1~3)。

[4]そのような私達を神は憐れんでくださったことを認めるべきです

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである」(ヨハネ3:16)

この愛を知るとき、ゴールデン・ルールを守る者となります。

「キリストは、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(Ⅰヨハネ3:16)。

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キリストにとどまる人 ヨハネ15:1~4

み言葉の種が心に蒔かれると、私達は多くの実を結ぶことを見ました。

実とは宣教の実、働きの実、そして品性の実のことです。

ヨハネ15章1~4節では、実を結ぶためには、ぶどうの木であるキリストに、枝である私達が「とどまる」ことが必要であることが述べられています(4~5節)。

とどまるとは・・つながり続けることです。

手が体にくっついているのと同じです。

栄養が伝わり、脳の信号が伝わってきます。

キリストにとどまる人は、キリストの恵みが伝わり、キリストの思いが分かります。

つまり、キリストと一心同体なのです。

ですから、キリストにとどまる人は・・

[1]キリストにあって実を実らせる枝となっています(1節)。

消極的な面では、キリストにとどまらなければ、実を結べない、枯れる、捨てられるということを認めています(6節)。

積極的な面では、自分はキリストの枝であり、必ず実を結ぶことができるということを確信して進んでいけます。

[2]父なる神の手入れに自分を任せます(2節)。

神は、ぶどうの木を手入れする農夫とあります。

農夫は実を結ばせるために刈り込みをします。

枝として木にとどまるとは、その農夫である神の御手に自分を任せることです。

[3]聖霊により頼みます(3節)。

キリストの語るみ言葉が私達をきよくします(3節)。

これは、私達のうちに住んでおられる聖霊の働きです。

聖霊は生きておられます(詩篇139:7~8)。

罪を悲しみます(エペソ4:30)。

神の子であるとの確信を与えます(ローマ8:15~16)。

祈らせます(ローマ8:26)。

教え、導きます(ヨハネ16:12~13)。

自分では私達は実を結べませんが、この聖霊を信じ、より頼んで教えられて歩むときに、私達は実を結ぶことができます。

クリスチャンは信仰によって一瞬にして誕生しますが、実を結ぶクリスチャンは一生を通して完成されるものです。

キリストにとどまる人となってください。

多くの実を結ぶ  ヨハネ15:5

 種がどのような土地に落ちるかで、その結果が変わることを見ました。

種はみ言葉や福音のことであり、土地はみ言葉を聞く人間の心を表しています。

良い地に落ちた種は実を結びます。

キリストを信じてつながり続ける者が結ぶ実について聖書は述べています。

[1]宣教の実(コロサイ1:6)

キリストが十字架に付けられ、葬られ、よみがえられたという事実が福音です。

その福音を信じたものは救われます。

そして、救われた人を通して、さらに救われる人を神は起こされます。

これが宣教の実です。

エルサレムの僅かな弟子たちから、世界中にクリスチャンという実が生りました。

[2]働きの実(マタイ5:13~16)

悔改めてキリストを信じた者の働きに表れる実です。

信じた者は「地の塩」「世の光」とされています。

太陽の光を受けて月が輝くように、信じたものの働きが世にキリストの光を示すものとされているからです。

[3]品性の実(ローマ12:2)

信じたものの内に結ばれる実です。

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ5:22~23)。

つまり、人間がどんなに努力しても出来ないような、聖霊によってできる実です。

キリストにつながっていると言うことは、大変な結果をもたらします。多くの実を結びます。

なぜなら、このつながりはキリストが十字架の上で命がけでつくってくださった救いによるものだからです。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)

良い地に     マルコ4:1~9

 「神の国は、人が地に種を蒔くようなもの」ということを先々週読みました(26節)。

心の中にまかれたみ言葉は、成長して平安という神の国を私達の内側に造ります。

今日の箇所は、その種が蒔かれる心の状態を4種類の「土壌」にたとえています。

[1]「道ばた」のような心(4節)。

ここに蒔かれた種は「鳥が来て食べてしまった」とあります。

これは、み言葉をはねつけて聞かない心の状態です。

正に、日本は情報があふれています。聖書のみ言葉よりも、他のことに耳が向けられています。

先入観でみ言葉を聞くために、み言葉を聞く余地の無い心の状態です。

[2]「土の薄い岩地」の心(5節)。

「すぐに芽を出した。しかし日が上ると・・・枯れてしまった」とあります。

喜んでみ言葉を聞くけれども、信ずることをためらう心です。

キリストが言われることは素晴らしいし、その恵みも欲しい。

しかし、クリスチャンとなって苦しい目には会いたくないという心です。

[3]「いばら」のはえた地の心(7節)。

聞いて、信じたけれども「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで」信仰が止められ、成長しない人のことです(19節)。

[4]「よい地」という心(8節)。

み言葉を①聞いて ②受け入れ ③従う心です。

ヨハネ5章に38年の間病気の人が癒された記事があります。

彼は、はじめ「よくなりたいか」とのキリストの声を聞いた時「誰も自分を池(最初にこの池に飛び込んだ者は病がいやされると信じられていた)に入れてくれる人がいません」と悲観的な返事をします。

人も駄目、自分も駄目という固い心が、キリストの言葉を拒んでいした。

しかし、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」(8節)との言葉を聞き、受け入れ、従った時に彼は癒されました。

 み言葉を「よい地に」蒔きましょう。

「実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった」(マルコ4:8)が実現します。

目を覚まそう   マタイ25:1~13

 日本にも結婚式の伝統的な習慣があるように、キリストの時代、イスラエルにもその習慣がありました。

婚宴は花婿の家で行われておりましたが、婚宴の前に花婿は花嫁の家に迎えに行きます。

そして、花嫁は付き添いの娘たちとともに花婿に従って行きました。

その際、娘たちは祝宴でともしび(たいまつ)を掲げて踊りを踊るのが普通でした。

今日の聖書の箇所で、花婿の到着が遅れたために娘たちは眠り始めていました(5節)。

花婿が到着した時、娘たちは起きました。

賢い5人の娘たち(2節)は予備の油を準備しておりましたので、火を整えて花婿の家に向かいました。

しかし、他の愚かな5人の娘たちはともしびの油が切れていたために油を買いに行かなければなりませんでした。

その間に祝宴が始まり彼女たちは中に入れませんでした。

花婿は、再び来られるキリストのことです。

私達は、賢い娘たちのように備えして待つべきです。

キリストは「目をさましていなさい」と言われました。

キリストがいつ来られるか誰も知らないからです(13節)。

目をさましている時は、眠っている時と違い「意識」があります。

私達が意識すべきことがありあます。

[1]自分が住んでいる所は、悪魔の働いている世であるとの意識。

想定外のことが起こる世であるとの意識。

これらは、人間の力や知能では防げません。

ぶどうの木であるキリストにつながりましょう(ヨハネ15:5)。

[2]自分は、この世に勝利したキリストの恵みがあふれている所に住んでいるとの意識

ダビデは苦境の中で「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」と言いました(詩篇23:6)。

[3]キリストにお会いするのが自分の目標であるとの意識。

仕事や金銭などあらゆるものは生きていく為の手段に過ぎません。

これが目的となると、空しい人生が始まります。

だからあなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子(キリスト)は思いがけない時に来るのですから
(マタイ24:44)
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