神の国の奥義   マルコ4:26~29

一般に「天国」とは、死んだ人が行く所と考えられています。

しかし、聖書の「天国」とは、「神の国」つまり《神が御支配する領域》です。

具体的には次のような意味です。

①キリストが再臨して王となられて、新しく造られる永遠の御国

②キリストが中心となっている教会やクリスチャンの交わりなど。

③キリストを受け入れ、キリストに支配された天人間の心。

マルコ4章はその「神の国」がテーマです。

私達の心の中の神の国を考えましょう。それは・・

[1]「人が地に種を蒔く」ことに始まります(26節)

教会の礼拝や個人のデボーションを通してみ言葉を聞きましょう。

どのように聞くかが4章3~9節にあります。

[2]み言葉を通して神が私達の心に働かれ「そうこうしているうちに」実現します(27~28節)

私達はみ言葉の意味が良く分からないときがあります。

神のなさることが見えないことがあります。

しかし神は私達の心に、そして私達の歩みに働いておられます。

きよいものとしてくださいます。

「そうこうしているうちに」とは人間には分からない、また人間にはできない神のなさるみ業のことです。

[3]私達が体験できるものです(29節)。

私達がみ言葉を受け入れる時、神の御業が始まります。

そして、信じ続け、キリストに従い続ける時収穫があります。

その喜びを体験するのは人間です。

み言葉によって生きてきた人は、必ずみ言葉の真実を体験します。

キリストは私達の心の中にご自分の望まれる天国を造られます。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
                         (Ⅰテサロニケ5:16~18)

この喜びを体験しましょう。

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」
                          (ガラテヤ5:22~23)

きよい神の国を心の中に体験しましょう。
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求めよ・探せ・たたけ  マタイ7:7~11

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります」(7節)

 このみ言葉は神に対する私たちの態度を示しています。

それは、執拗(しつよう:容易に屈服しないこと)・堅忍(けんにん:つらいことに負けずに辛抱強く我慢すること)・しつこさです。

このような心を持って私達は神に求めていくことができます。

その“しつこさ”の出所があります。

[1]私達の必要(7~8節)。

つまり、私達にはあらゆるものが無いからです。

7章1節からさばきについて記してありますが、永遠の神の審きに対して何の備えもありません。

神のみこころにかなった生活をする力がありません。

自分は貧しい者であるとの自覚が神に求めようとの思いを生み出します。

[2]私たちの父なる神(9~10節)。

人は生まれながらのままでは神の子ではありません。

イエス・キリストを信じる時、神を「天のお父さま」と呼ぶことができます。

つまり、神の子としての特権が与えられます(ヨハネ1:12)。

これは奇跡です。

人間の父親でも、子供の求めることには何としても答えたいとの思いがあります。

私たちの父なる神はそれ以上のお方です。

この父なる神が私の心を捕らえるのです。

[3]神が与える「よい物」(11節)。

愚かにも私達は自分にとっておもしろくない事が起こると、それは「悪い物」に見えます。

そして、神が私達に敵対しているかのように思います。

しかし、実は反対です。

父なる神は私たちに「よい物」をお与えになっておられます。

私達をキリストのようにきよくする聖霊を与えられます(ルカ11:13)。

私達の心を神の子にふさわしいよい物で飾ってくださいます。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、柔和、自制です
                             (ガラテヤ5:22)

神に対して「求め、捜せ、たたけ」の生き方があります。

御手の中で  出エジプト記14:1~14

 前回、神が陶器師の仕事を通してエレミヤに語られた事を読みました(エレミヤ書18章)。 

「現実」というろくろの上で陶器師である神は、私達粘土を神の作品にして下さいます。

ただ問題は陶器師の手の働きを仕損じさせるような粘土にある固い異物です。

何が陶器師の仕事の妨げとなるのでしょうか?

①エジプト人の中にある固いもの。

エジプトを去ろうとするイスラエルの民をエジプトの王は軍勢を整えて後を追いました(5~6節)。

彼らの心がかたくなになり(8節)、彼らは神のご計画とは反対の道に進んでいました。

聖書で言う「罪(ハマルタ)」とは「的を外す」という意味です。

正に、これが生まれつきの人間の中にある“固いもの”です。

罪は私達をかたくなにし、神の目的に従い、神の栄光のために生きる道を閉ざすものです。

キリストはそんな私達を買い戻すために来られました(Ⅰコリント6:20)。

②イスラエルの持っている固いもの。

後を追ってきたエジプト兵を見て彼らは恐れ、叫び、モーセにつぶやきました(10~12節)。

神を信じているはずのイスラエルが不信仰になっている姿です。

エジプト兵よりも、目の前にある紅海を進めないという障害よりも、もっと大きな固い障害・・・それは「信じない」と言う頑固な心です。

神は人間のかたくなな心を砕いて下さいます

追い詰められた状況は、イスラエルにとってその頑固な心が砕かれるチャンスでもありました。

「恐れてはいけない」「しっかり立って・・・主の救いを見なさい」と神は言われました(13節)。

このみ言葉の前に、自らのかたくなさを認め、悔い改め、救い主であるキリストを見上げる時、私達は進んでいけます。

神の作品となります。

なぜなら、そのような人の中にキリストは住んで下さるからです。

十字架の上で、全く己を捨てて下さったキリストを見上げましょう。

「私は、キリストとともに十字架につけられました。

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちにいきておられるのです」
                                    (ガラテヤ2;20)

招かれている私達   ルカ14:15~24

 陶器師の姿を通して神がエレミヤに語られたように、キリストはしばしば例え話を通してメッセージしておられます。   

ルカ14章の記事も次のような例え話です。

盛大な宴会をある人が催しました。

しかし、その招きを断る人がいました。

これに怒った主人は別の人々を招きいれ、さらに「無理にでも」人々を宴会に招き入れました。

主人が怒ったのには理由があります。

それは当時の習慣で、宴会を催す際は、あらかじめ招待状を出し、出欠をもらった上で直前に再度誘うことにしておりました。

断った人は、出席を約束しておりながら、その約束を破ったのです。

しかも、断った理由は、「畑を買ったので、見に行かなければなりません」「牛を買ったので、ためしにいかなければなりません」「結婚したので・・」ということでした(18~20節)。

理由にならないことで、ドタキャンしたのです。

宴会の主人とは、イエス・キリストのことです。

私達に救いを与え、豊かな養いを与えるために、私達を招いておられる神です。

そのキリストを受け入れないことは、愛なる神に反していることです。信じないことは罪なのです。

断った人は、今欲しい“良いもの”のために、今必要な“一番良いもの”を失いました。

確かに畑も仕事も家庭も大切なものです。

しかし、宴会の主人であるキリストは、それらの土台です。

キリストが準備されたご馳走があります。

それは、「神の国の食事」(15節)です。

そこには、人を愛することのできるきよい食物、罪を赦していただき、永遠への希望を持って生きていける糧があります。

この糧が仕事の原動力となり、幸せな家庭の基となります。

キリストの宴会の招きを受け入れませんか?

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。

だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」                  (黙示録3:20)
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