招かれている私達  ルカ14:15~24

神は私達に聖書を通して語られます。

また自然を通して私達は神の偉大さを知ることができます。

自然が第2の聖書と言われる所以です。

今日の聖書の箇所で、神は預言者エレミヤに陶器師のすることを見てそこからメッセージを語りました。

「陶器師は粘土で製作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた」(4節)

 ここでエレミヤが見たものが3つあります。

[1]陶器師、つまり創造主である神です。

神は「手」を持っておられます。

大自然を造り、私達を創造した手です。

そして、私達を愛し、慰め励ます手があります。

何よりも、神から離れた罪人を救い神の聖徒とする手です。

[2]ろくろ、つまり私達が逃げることのできない現実です。

神は、実生活を通して私達を取り扱い、聖徒とするのです。

旧約聖書のヨセフは、奴隷として売られ、濡れ衣を着せられ、そしてエジプトの宰相となるという人生の舞台を神から与えられました。

そこで彼は忍耐を学び、謙遜を訓練され、神が共におられるという体験をしました。

私達は教会や家庭、職場という「ろくろ」の上でキリストの姿に変えられるのです。

[3]粘土、つまり神の手にある私達です。 

陶器師が取り上げた粘土は、特別なものです。

それは、陶器師の目にとまり、ろくろの上に取り上げられ、神の作品とされるものだからです。

もし、取り上げられなかったならば、ただの土くれです。

キリストを信じるとき、私達は私達を愛して下さる神の手にあるのです。

大事なことは、陶器師である神のの手に委ねることです。従うことです。

固い石や不純物等が入っていると、陶器師は「仕損じ」ます(口語訳)。

「私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。・・・兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい」(ローマ14:13)。

 
今生かされている所で、神の作品とさせていただきましょう。 
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価高き真珠  マタイ7:6 13:45~46

「豚に真珠」ということわざがありますが、これは次の聖書の言葉からきています。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません」(マタイ7:6)

ここで言う「聖なるもの」や「真珠」とは真理をさしています。

即ちキリストの福音、御国の福音のことです。

犬や豚に真珠を与えても無視するか、「足で踏みにじる」ように、神の真理に対して人間は反発するものを持っています。

それが、神を離れた人間の心の奥に存在する罪です。

聖書には「肉の思いは神に対して反抗するものだからです」(ローマ8:7)とあります。

キリストは「世は・・わたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行いが悪いことをあかしするからです」と言われました(ヨハネ7:7)。

私達もかつては、犬や豚のようにキリストの福音を踏みにじって生きておりました。

そのような私達がなぜ神のもとへ帰り救われるのでしょうか。

[1]神は私達を悔改めに導く慈愛に満ちたお方だからです

「神の慈愛があなたがたを悔改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」(ローマ2:4)。

[2]神の慈愛に導かれる者は、神を捜し求め、お会いすることができるからです

「彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。

彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう」(ホセア書5:15)。

それは、まるで価高き真珠を求めている商人のようなものです。

見つけると全てを犠牲にしてもそれを手に入れようと思います(マタイ13:45~46)。

価高き真珠であるイエス・キリストを見出した者は、変ります。

豊かになります。

「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われるキリストに従って生きていきたいと思うようになります(マタイ5:44)。

このブログを書いている私自身も高校の時、空しさと受験の苦しみの中で何度も死にたいと思っておりました。

卒業式の日にクリスチャンの同級生から一冊の新約聖書をもらいました。

信じる気持ちは全くありませんでしたが、読んでいるうちにイエス・キリストに出会いました。

その時から、私の人生は変わりました。

今、キリストを伝える牧師になっています。

生きていることが感謝です。

真の価高き真珠を求めませんか?。

救いの箱舟  創世記7:11~8:1

 先週、ノアが神の命令に従って箱舟を作り、洪水から救い出された記事を読みました。

もう一度、この箱舟の意味するところを考えて見ましょう。

[1]人間が介入できない神のさばきがある事を示しています。

16節に「主は、彼のうしろの戸を閉ざされた」とあります。

この箱舟の入り口は、「主」によって閉ざされました。

この後は「洪水」という神の審きの世界です。

それは「すべておおわれた」(19節)、「すべての生き物を・・消し去った」(23節)という厳しいものでした。

罪を憎み義である神のさばきがあります。

それは、誰も逃れることの出来ないきびしいものです。

[2]神のさばきに対して完全な救いがある事を示しています。

箱舟は、当時のハイテクである「木のやに」で完全防水されていました(6:14)。

つまり、箱舟の内側には、神のさばきの水が一滴も入らなかったのです。

しかも、その箱舟の中に居るものを「神は・・心に留めておられた」(8:1)とあるように、

舟に乗った者は神の特別な配慮の中にありました。

今でも神は、私達が安心して生きられる救われた生涯を準備しておられます。

それは「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヨシュア記1:5)という神の約束の世界です。

[3]信仰による救いがあることを示しています。

「ノアは・・・いっしょに箱舟にはいった」とあります(13節)。

つまり、ノアたちは自分の意志で入ったのです。

これは、彼らの信仰です。

ノアは「正しい人」と神に認められた人でした(6:9)。

彼は、神の前に罪を犯さない正しい人間ではないこと、そして神のさばきを受けなければならないことを認めて
いました。

だから、神のあわれみを求め、神が提供された救いの箱舟を信じたのです。

これが彼の「正しさ」です。


今、キリストは十字架の贖いという箱舟を提供しておられます

信じる全ての人の罪を赦し、御国への平安な旅を約束しておられます。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。

それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(エペソ2:8)

神とともに歩んだノア  創世記6:5~14

神がこの地を創造して、最初の大きな事件が起こりました。

それが、「ノアの洪水」と呼ばれるものです。

この洪水は、「人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」様子をご覧になった神によって起こされたものです(5節)。

世の中では、悪いことをした人を罪人としますが、聖書では全ての人を「罪人」としています。

なぜなら、全ての人は悪いことを教えなくても「悪に傾く」性質を持って生れているからです。

機会があれば、それは悪い行いや犯罪に向かいます。

「地は神の前に堕落し・・暴虐で満ち・・道を乱していた」(10節)の通りです。

そして、今もそのような世に私達は住んでいます。

ノアはそのような中にあって「神とともに歩んだ」とあります(8節)。

それは、彼が「信仰によって」生活していたからです(ヘブル11:7)。

彼は、堕落した世にあって、神と共に生きる道を選びました。

ノアが信じた神は

[1]人間の悪に「心を傷める」神です(6~7節)。

つまり、罪や汚れを嫌うきよい神なのです。

どんなに堕落した人間も、潔い生活をしたいとの願いがどこかにあります。

そんな神とともに生きることを望んでいるのです。

[2]悔改めた人々を救う、あわれみ深い神です(14節)。

その証拠に、信じたものを受け入れる巨大な箱舟を作るように神はノアに命じました。

イエス・キリストの十字架は、信じる者を受け入れる救いの箱舟です。

[3]何よりも、ともにいることが楽しいと感じさせる神です。

ノアは、世の楽しみよりも、神とともにいることが平安で楽しいということを知っていました。
 
あなたが何も出来なくなっても、全てを失っても、それでも平安ですという生き方があります。

それは、イエス・キリストを信じて神とともに歩むという人生です。

イエス・キリストの別名は「インマヌエル」つまり「神は私たちとともにおられる」です(マタイ1:23)。

キリストは、神とともに生きる人生を可能にします。

そして、このように言うことができます。

私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」(詩篇73:28)

エリムに向かって  出エジプト記15:22~27

エジプトから奇跡的に脱出したイスラエルの民が進む道は荒野でした。

この荒野は私達の人生と似ております。

[1]荒野もこの世も、神に対する不信仰の温床です(22~24節)

エジプトを脱出した時に追いかけてきたエジプト兵は、荒野にはいませんが、別の敵がいました。

それは、自分の思い通りにならない現実という敵です。

荒野に水がありませんでした。

マラに来て水がありましたが、それは飲めない苦(にが)い水でした。

紅海を渡った時神をほめたたえた民の心は消えうせ、彼らはつぶやきました。

しかも、指導者モーセにつぶやきました。

困難に耐える力を祈り求めるよりも、他人を責めるほうがたやすいことです。

荒野は、弱さを知り、神に助けを求める絶好の場所ですが、不信仰とつぶやきの温床でもあります。

[2]荒野にもこの世にも、キリストの十字架による解決があります(25~26節)。

民と違って、モーセは「主に叫んだ」とあります。

これが荒野を進む秘訣です。

主は彼に一本の木を示されました。

彼がそれをマラの水に投げ込むと、水は飲用に変えられました。

マラの苦い水は、人間の心の中にある苦々しい思いです。

愛せない、赦せない、つぶやき・・・など人間の手に負えない心です。

この世にも、不思議な木があります。

「すべての悪から私たちをきよめてくださる」(Ⅰヨハネ1:10)キリストの十字架という木です。

[3]荒野にもこの世にも、キリストの愛のご計画があります(27節)

「こうして彼らはエリムに着いた」(27節)とあります。

マラの次には、果物と水の豊富な土地が待っていました。

私達には見えない神のご計画です。

マラを通ったあなたの前にもエリムが待っています。

真のエリムである御国に向かって主に委ねつつ確実な歩みをさせていただきましょう。
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