さばいてはいけない   マタイ7:1~5

 この聖書の箇所に「さばいてはいけません」とあります(1節)。 

「さばく」とは、人を非難し、悪いと決め付けることです。

「さばく」ことは、本来神がなさることです。

それは、①この世において、神が愛の故に神の子たちをこらしめというさばき(黙示録3:19)

②人間の最終的な行く先を決めるさばき(ヘブル9:27)。

③キリストに従ってきた神の子に神が報いをあたえるさばきです。

人間が最初に否定したことは、神のさばきの言葉です(創世記2:16~17)。

ここで、神は「善悪の知識の木」の実は食べてはいけないことと、食べると必ず死ぬというさばきを人(アダム)に伝えました。

しかし、彼は「決して死にません」、つまり神はさばかないという悪魔の声を受け入れ、「食べるによく、目に慕わしく、賢くする」ような善悪の知識の木の実を食べて神の言葉に背きました(同3:1~6)。

この結果、①思い上がった心で人が神に代わり②表面的に見た目で人のあら捜しをし、さばき、非難するようになりました。

しかし、聖書は人を「さばいてはいけません」と言っています。
神である「神のことば」でまず自分を照らすべきです。

「神のことばは生きていて・・心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」(ヘブル4:12)。

「まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(マタイ6:5)。

神に背いたために失ったものを取り返しましょう

それはイエス・キリストにつながることで可能です。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネ15:12 17)

「愛は寛容であり、愛は親切です・・・人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます」(Ⅰコリント13:4~6)

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鳴り渡るラッパ(2)  ルカ15:11~24

 民数記10章で読んだように、神様は2つのラッパの鳴らし方によって、民にご自分の意思を伝えました。

その響きは、今教会を通して人々に伝えなければならないものです。

その響きとはⅠコリント1章17~18にあるように「十字架のことば」つまり、福音です。

この事実は、信じない人には「愚か」ですが、「救いを受ける私たち」つまり、信じる者には、「神の力です」。

ルカ15章にある「放蕩息子のたとえ」にこの力が表されています。

[1]逃げないで苦しみに耐える力です(12~16節)

放蕩息子は、①父の元であくせく働く苦しみから逃げようとしました。

②困り果てると人に助けを求めました。

③豚の食べる物で腹を満たしたいとの一時的な満足に逃げました。

キリストは、十字架から逃げないで私達の罪を負って死ぬという働きを成し遂げて下さいました。

そのキリストが私達にとって力となります。

[2]決断の力です(17~19節)

苦しみの中で、放蕩息子は父の元に帰ろうとの決断をします。

これは、彼にとって再出発のチャンスとなりました。

ゲッセマネの園で、父の御心に従うとの決断をされたキリストによって、私達は何が真実な生き方かの大事な決断をすることができます。

[3]へりくだる力、己に勝つ力です(20節)

放蕩息子は、決断しただけでなく父の前に出ました。

父の財産を使い果たした者にとっては勇気のいることです。

「己」は自らの失敗を認めたくありません。

何とか自分の業績を認めてもらいたいとの思いがあります。

しかし、彼はそれを捨てました。

全てを捨てて十字架に架かられたキリストは、そのような力を私達に与えられます。

そして、何よりも十字架のキリストを見上げる時、私達は罪を赦された神の子であるとの力と確信に満たされます。

この力が私達を前進させる力となります。

あなたの力の出所は何でしょうか?

鳴り渡るラッパ 民数記10:1~10

 神はイスラエルに、音色の違う2本のラッパを作らせて、その響きでご自身の意思を伝えました。

これは「代々(よよ)にわたる永遠の定め」(8節)とありますので、今もこのラッパの響きが聞こえます。

[1]教会は、み言葉により召し集められた群れです(3~4節)。

キリストは、今「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)と世の人々を招いておられます。

クリスチャンは、どこかでこのラッパの響きを聞いて信じたのです。

クリスチャンでない人も、このキリストの招きのラッパの響きをどこかで聞いているのです。

[2]教会は、み言葉により進んで行く群れです(5節)。

進むためには、出発と目的地があります。

進めというラッパの音は、単なる命令ではなく、立ち上がろうという勇気を与えるものです。

ギデオンは、ミデアン人を恐れている臆病者でしたが「勇士よ」という主の声で立ち上がりました(士師記6:12)。

さらに、私達には死を乗り越えた「永遠の都」という目的地が備えられています(ヘブル11:16)。

みことばを聞いて進みましょう。

[3]教会は、戦う群れです(9節)。

世のスポーツは、戦って見なければ勝敗がわかりません。

だから面白いのかもしれません。

しかしこの戦いは、勝敗が決まった戦いであり、勝つための戦いです。

「敵から救われる」為の戦いです。

平安を勝ち取ることのできる戦いです。

失望しないで信仰とみ言葉によって戦うように、ラッパの音が響いています。

[4]教会は、礼拝する群れです(10節)。

礼拝とは「わたしはあなたがたの神、主である」という神に対して、アアメン、そのとおりですと私達の信仰を告白する場です。

礼拝の最中にラッパが鳴り渡りました。

それは、主が私達の礼拝を受け入れ、あなたは「神に覚え」られている、私があなたと共にいるという主の臨在を表す響きです。

神のラッパの響きを聞きましょう。世から招かれ、永遠に向かって進んでいることがわかります

主が共におられる事を確信しながら過ごすことができます。

嵐が来る  マタイ7:24~29

 賢い人と愚かな人が家を作ったという話です。

どちらも、自分の家を建てました。

そして、洪水が来ました。

その後の結果が違いました。

愚かな人の家は倒れ、賢い人の建てた家は倒れませんでした。

この違いの原因は、土台にありました。

賢い人は岩の上に、愚かな人は砂の上に建てたからです。

家を建てるのにも、人生を築くのにも土台が肝心です。

岩の上に家を建てた人の心には、土台となるものがありました。

[1]嵐が来るという土台です。

ことわざで言うならば「犬も歩けば棒に当たる」です。

自分の歩く道には様々な試練という棒がある。

自分は間違いを犯す、人を傷つけるかもしれない、自分が倒れるような嵐が来る、

神の審きがある・・・このような前提という土台の上に立って、彼はどこに家を建てるべきかを考えました。

逆に愚かな人は、私は当面元気に仕事ができる、嵐は来ないだろう・・という考えでした。

原発は安全だという前提も同じです。

一番愚かな考えは、神は自分に必要ないという前提です(詩篇53:1)。

[2]「鼻で息をする人間をたよりにするな」(イザヤ2:22)という土台です

勿論私達は人の助けや家族の交わりの中で生きています。

しかし、イザという時に自分も人も当てにならないことがあるという現実も受け入れるべきです。

そして、そのことに備えるべきです。

[3]何よりも聖書のみ言葉という土台です

み言葉は「転ばぬ先の杖」です。

賢い人は、どこに建てるか、自分の思いつきや考えでなく、

専門家に聞いたり、祈ったりして決めたことと思われます。

嵐が来ても、倒れなかった岩の上に建てられた家は、み言葉と信仰という岩の上に立てられた人生を表しているようです。

イザという時に祈れる人、み言葉が支えとなるは幸いです。

転ばぬ前から、私達はそのような生活をさせていただきましょう。

「あなたのみ言葉によって私を生かしてください」(詩篇119:25)
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