エルサレムにとどまる人  ルカ24:44~53

エルサレムから離れる人、戻る人の姿を見たのですが、今日の箇所でイエスは弟子たちにエルサレムにとどまれと言っておられます(49節)。

とどまった彼らは、「非常な喜びを抱いて・・いつも宮にいて神をほめたたえていた」とあります(52~53節)。

この喜びはどこから来たのでしょうか。

[1]彼らがキリストの証人として召されたからです(44~48節)。

イエスはエルサレムに戻ってきた弟子たちに旧約聖書にあるキリストの十字架と復活について語り、

そのことが自分を通して成し遂げられたことを語り、

そのキリスト(救い主:メシヤ)が自分であることを悟らせました(46節)。

弟子たちはそのことの証人であると宣言されました。

聖書の歴史上大事な時に生きていただけでなく、エルサレムから去ろうとしていたような自分達がキリストの大事

な証人とされたことに彼らは喜びを見出しました。

[2]聖霊の約束を受けたからです(49節)。

イエスは単に彼らに命じたのではなく、命令を成し遂げられるような力を与えることを約束しました。

つまり聖霊が父なる神の約束に従って来て下さると言うことでした。

聖霊はみ言葉を通して働かれる神です。聖霊が下って下さった結果(使徒2:1)、

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)というパウロの確信を

私達も持つことができます。

弟子たちが使徒の働きの書で大胆に福音を語りましたが、私達も同じ大胆さでキリストを証しできるのです。

自分ではなく、自分を通して聖霊がして下さるからです。彼らはその喜びに満たされました。

[3]祝福しておられるキリストを見たからです(50~51節)。

 キリストは手をあげて弟子たちを祝福しながら天に帰られました。

このキリストの姿は旧約の幕屋で大祭司が贖いを成し遂げた時、人々を祝福した姿です(ヘブル9:11~12)。

そして、今も父なる神の前で大祭司となって私達の為にとりなしておられる姿です(ローマ8:33~34)。

キリストのとりなしの中に生かされていることを思うと、私達も弟子たちと同様に喜びを抱きつつ神をほめたたえ

ることができます。
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さばいてはいけません    マタイ7:1~2

 1節に「さばいてはいけません」とあります。

さばきとは何でしょうか?
①他人のかんばしくない情報を耳にした時、それをかすかでも喜ぶことからさばきが始まります。

②自分に無関係なことに軽はずみに口を出すことです(箴言26:17)。

③他の人の行動の動機や事情を見極めないで、批判的な事を言うことです。

④赦しと哀れみの心備えをしないで相手を批評することです。

なぜさばいてはいけないのでしょうか?

①他人の非を見て非難するとき、その人を軽蔑して自らの正しさに満足しやすいものです(箴言11:12)。

それは、神を離れた人間の奥底に存在する己の表れです。

②真の批評は人を活かしますが、程度を超えた批判は破壊的となります。

Ⅰコリント13章にある愛に反した行いです。

③他人のささいな事がらにこだわり、それを重大なことに仕立て上げてしまいやすいからです(ローマ14:1~13 17)。

人をさばき、非難することは恐ろしいことです。

マタイ7章1~12節は対人関係について書いてありますが、その土台となるのが神との関係です。

「さばいてはいけません」の教えの根本も同じです。

間違ったさばき(ヨハネ7:24)をしないために神との関係が大切です。

神のみ言葉を聞いて従うことが私達を過ちから守ります。

旧約聖書のヨセフがそのことを示しています。

彼は兄たちに憎まれ、エジプトの奴隷に売り渡されました。

不思議な神の摂理でヨセフはエジプトの宰相となります。

後になって、飢饉を逃れて食料を求めてエジプトにやってきた兄たちとヨセフは奇跡的な再会をします。

ヨセフはその兄たちをさばかず赦しました。

「どうして、私が神の代わりでしょうか」(創世記50:20)という言葉が彼の信仰を表しています。

さばきは人間ではなく、神がなさることです。

私達は、その神に赦され罪のさばきを免れた者です。

さばきをその神に委ねて愛なる神の前を歩みましょう。

エルサレムに戻る  ルカ24:33~43

聖書には、当時の礼拝の場所であるエルサレムに向かった人の賛美(詩篇120~134篇)があります。

しかし、エルサレムを去って苦しみにあった人がいます。

ルカ24章に出てくる二人の弟子たちもそのような人でした(13~17節)。

その彼らが復活のキリストに出会い「すぐさま・・エルサレムに戻った」とあります(33節)。

彼らにキリストはエルサレムに帰ることを求められました。

私達も「エルサレム」に戻る時が必要です。

[1]エルサレムは、キリストが十字架につけられた場所です。

キリストは私達の罪を負って下さいました。

十字架を見上げる時、私達は罪赦された神の子であるとの信仰に立てます。

愛されていることがわかります。

自分が赦されているから、人も許すことができます(マタイ18:33)。

愛することができます。エルサレムは愛とゆるしの原点です。

批判するよりも、不平を言うよりもここに戻りましょう。

[2]エルサレムで彼らは弟子たちとの出会いがありました(33~36節)。

彼らの話していたことはキリストのことでした。

これが教会という集まりです。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:20)。

教会の中心はキリストです。そこで励まされ信仰が養われ、成長します。

産経新聞に被災地である石巻のあるキリスト教会礼拝に始めて来られた一般の方のコメントが載っておりました。

「自分は礼拝など来たことはなかったが、皆さんと賛美して話していると心が落ち着きます」

 教会というエルサレムはキリストが働いておられる不思議な場所です。

[3]エルサレムはキリストとの出会いがある場所です(37~43節)。

彼らが話している時に、キリストが「彼らの真ん中に立たれた」とあります(36節)。

彼らはそれが幽霊だと思いました。

それに対して、キリストは自分にさわって、自分をよく見なさいと言われました。

食事も彼らとなさいました。

キリストは幽霊のような存在ではありません。

実体のある、よみがえられて、今も語ってくださる共におられる神です。

あなたも、このキリストに触れることができます。

あなたにも、帰ることのできるエルサレムがあります。


語ってくださるキリスト  ルカ24:13~32

 キリストが復活された朝、それを信じない女性たちが墓に向かっていました。

そして、空の墓を見て途方にくれました(3節)。

復活のキリストに目を向けないと途方にくれ、絶望に陥ることがありあます。

しかし、そのような私達を決して見捨てない復活のキリストがおられることも事実です。

彼女たちはキリストに出会い、信仰をリバイブされました。

彼女たちと同様、復活のキリストに出会った弟子たちがおりました。

[1]彼らは最初、女性たちの話したキリストの復活を「たわごと」として信用しませんでした(11節)。

私達も同様です。キリストの復活は現実のものではなく、おとぎ話しのように思えたのです。

しかし、キリストは現実に生きて働かれておられる神です。

職場に、家庭に・・様々な私達の現実の問題の中におられる神です。

[2]彼らは「論じ合ったりして」いました。(14~15節)

キリストは議論や説得されて分かる神ではありません。

み言葉により、信仰によって私達はキリストとお会いすることができるのです。

不信仰な彼らですが、少しは変化がありました。

彼らにとってキリストはおとぎ話しの世界から、議論の対象になりました。

幾分、キリストに対して心が開かれたのです。

[3]その時、キリストは彼らに近づいて下さいました(15節)。

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます」(ヤコブ4:8)とある通りです。

それでも彼らの目はさえぎられていました(16節)。

[4]キリストはさらにかれらに近づかれました(17節)

それは、「歩きながら、ふたりで話し合っているその話は、なんのことですか」(17節)というキリストの問いかけです。

キリストは、まず彼らの心配事の中に入っていかれたのです。

それだけで、彼らは安心し、彼らの心はさらにキリストに向かって開かれました。
 
[5]その時、キリストは、彼らに聖書を解き明かしました(25~27節)

実は、キリストが彼らに言いたかったのは、このメッセージでした。

今度は、彼らがキリストのメッセジに耳を傾けました。

そして、目が開かれました(31節)。いつの間にか彼らの心が燃やされていました(32節)。

信仰がリバイブされたのです。

あきらめず、寛容に私達に語りかけられる復活のキリストがおられます。

復活の朝  ルカ24:1~10

十字架につけられ、死んで墓に葬られたキリストがよみがえり、天に帰られて今も私達のために生きて働いておら
れる・・・そんな事を聞くと、人間には馬鹿らしく信じられないことと思います。

それは、復活を目撃した2千年前の人々も同じです

キリストが復活された朝、墓に向かっている女性たちがいました。 
  
彼女たちは「香料をもって」墓に向かいました(1節)。

香料は当時死体に塗るものでした。

彼女たちは、疑いなくキリストは死んだと思い込んでいました。

ただ亡くなったキリストに香料を塗って自分達の悲しみの心を表そうと思っておりました。

彼女たちが向かった墓にキリストの体はなく、空っぽでした。(3節)。

その信じられない現実を見て、彼女たちは「途方にくれた」とあります(4節)。

それは、目の前にある現実を受け入れられない姿です。

私達も、突然の災難や想定外の事に直面する時、それを受け入れられないで途方にくれることがあります。

キリストの復活の出来事は、正にそのようなものです。

しかし、その現実を受け入れられる恵みがあります

それがキリストの語ったみことばです。

彼女たちはそれを「思い出した」とあります(8節)。

キリストの復活の出来事は、突然の出来事ではなく、前もってキリストが語っておられた、神のご計画であったこ

とを彼女たちは知り安心しました。

そして、その復活の出来事を受け入れ、キリストを信じました。

その時、彼女たちは変りました

キリストは死んだと思い込んでいた彼女たちが、キリストの復活の事実を弟子たちに報告しました(9節)。

人々にも信じて欲しかったからです。

聖書のみことばは、「途方にくれる」者を解放し、キリストを信じて進んでいこうとの思いを与えます。

人々にも、勇気と平安を与えようという人間に造り変えます。

ここに、聖書の言葉の偉大さがあります。

死んだキリストの言葉ではなく、今も生きておられることが実証された神の言葉だからです。

聖書のみ言葉はあなたにも勇気と平安を与えます。

あなたに与えられた現実を受け止め、感謝しつつ生きるものとさせてくださいます。

信じないものにならないで、信じるものになりなさい」(ヨハネ20:27)

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