危機に備えて(ルカ12:16~21)

今回の東日本大震災を通して、普段から緊急用の食料や日用品を備えておくことの重要性を知りました。

しかし、それだけで大丈夫でしょうか。

今日の聖書の箇所にある金持ちの話がでてきます。

彼は普段から持ち物が豊かでしたが、豊作のためにさらに沢山の穀物と財産を得ました。

そこで倉を建て直して蓄えて「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言っています(19節)。

神は、これをご覧になって言われました「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」と(20節)。

この世が全てであるならば、食物や財産の蓄えで十分です。しかし、死や永遠に対しては、それだけでは不十分です。

[1]祈りの蓄えが必要です。

今回の地震、津波を体験した人が言っていました。

「いざというときに自分が出来たのは『主よ』と叫ぶことだった」と。

大災害の前に、人間はただただ無力を感じるばかりです。

しかし、だからこそ祈ることができます。

普段から祈る習慣を身につけ、祈りを蓄えておくことが大切です。


[2]愛ととりなしの蓄えが必要です。

被災者の方々のために、救援活動と義援金による励ましがなされております。

私達は祈りによるとりなしができます。

これらの愛の行いが積み蓄えられて、未来への備えとなっていることを覚えましょう(Ⅰテモテ6:18~19)


[3]み言葉の蓄えが必要です。

剣道には面や竹刀という武具がありますが、空手や柔道は自分自身を武具として戦います。

クリスチャンには、み言葉という武具があります。

想定外の出来事の中で、それ以上の想定外の神の力を受け止めるられるのが神のみ言葉です。

このみ言葉を蓄えましょう。

あなたは、危機に備えて何を蓄えておられるでしょうか。
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神のなさること(申命記30:1~10)


聖書は、誤りのない神のみ言葉です。

そして、私達にとって地図のように私達を正しく導くものです(詩篇119:105)。

又、一方聖書は難しいものではなく、「ごく身近にある」親しい神からの問いかけでもあります(申命記30:11、「14)。

さらに聖書は、神が何をなさったかの歴史書(ヒズ・ストーリー)です。


[1]神の創造の業について記してあります。

天地、宇宙だけでなく私達は創造されたものです。

先週のメッセージにありました、神を知らない「異邦人」の信じるものは、偶然と運命です。

しかし、創造の神を信じると、摂理があり希望があります。


[2]神のさばきの業について記してあります。

聖書は、神に背くものに対する裁きが記されてあります。

イスラエルは、不信仰のために「追い散らされ」「捕らわれ」そして「天の果てに追いやられ」てしまいました(1~4節)。

今でも、神を離れた人間、つまり全ての人は罪人であり罪に捕らわれた「奴隷」です(ヨハネ8:31~34)。

このように正しい裁きをされる神であるからこそ、私達はその神に信頼することができるのです。


[3]神の救いの業について記されてあります。

不信仰のイスラエルが、神に心を留め(1節)、「主に立ち返る」時(10節)、神の救いの業が始まります。

それは以下のようなものです。

「捕らわれの身から帰らせ・・あわれみ・・集める」「連れ戻す」「生きるようにされる」「栄えさせて(主が)喜ばれる」(3~9節)。

神の確かな歴史、神が何をされたかを知りましょう。自分がどんなに愛されているかがわかります。

まず第一に

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。

しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。

そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(新約聖書 マタイ6章31~33) 




32節に「異邦人」という言葉が出てきます。

かつて同名の歌を歌った歌手がクリスチャンになったことで有名です。

異邦人とは、イスラエルにとって外国人という意味です。

私達日本人も異邦人ですが、霊的な意味では“神を知らない者”ということになります(エペソ2:12)。



神を知らない異邦人は「偶然」を信じます。

また「運命」を信じます。

ルカ12章には、ある金持ちの畑が豊作であったので、彼は倉を建て直してまでも、穀物を保管して安心したという記事があります。

彼は来るべき“運の悪さ”に立ち向かったつもりでしたが、永遠に対する備えが無かったことを神に責められています。



では、神を知っているクリスチャンはどのように生きるのでしょうか。

[1]何事かが起こった時、それを偶然とは考えないで主の御旨が何であるかを考えます。

それは愛である神の自分に対する訓練であるかも知れません(ヘブル12:6)。


[2]何事が起こっても天の父に絶対的により頼むことができます。

父なる神は私達に必要なものを知っておられるからです(マタイ6:32)。

また、絶対に見捨てないからです(ヨハネ14:18)。


[3]何事よりも「神の国とその義」を第一に求めます。 (マタイ6:33)

「求める」とは、他の何ものよりも優先して、その為に生きるという姿です。

31節にある「食べる」ことや「飲む」こと「着る」ことは必要なものですが、私達の生きる目的とはなりません。

「神の国」とは神の御支配という意味です。

「神の義」はキリストを信じる者に与えられるものです。

自分の生き方、夫婦や家庭のあり方が神に従っているかということを第一とし、キリストを信じて神との関係を優先させるのがクリスチャンの生き方です。



計り知れない神のご配慮の中を過ごさせていただきましょう。

何のために生まれたのか

  
 キリストに洗礼を授けたヨハネの生涯は、私達が何のために生まれたかを考えさせられます。

[1]神がヨハネに与えられた特別な働きがあった(マタイ3:13~17)。

それは、約束された救い主に洗礼を授けて、このお方がキリストであることを人々に示すことでした。

私達にも、一人一人に賜物が与えられて、その人にしかできない大事な働きがあります。

親として、子として、あるいは社会の中で、信じた私達は特別神に召されている者です。



[2]ヨハネにも、私達にも共通した働きがある(ヨハネ1:26~34)。

ヨハネは、キリストを「世の罪を取り除く神の子羊」として紹介しました。

「罪を取り除く」ためにキリストは十字架にかかられて贖いを完成してくださいました。

また、私達のうちに内住することにより、私達の内側をきよめ、罪を憎み、罪から離れたいとの性質を与えられます。

私達自身には、罪を解決する力はありませんが、罪を始末してくださる救い主を紹介することはできます。

つまり、キリストの証人です。このために召されたお互いです。



[3]ヨハネは、キリストのため満足した(ヨハネ3:26~30)。ヨハネがキリストを救い主として紹介した結果、ヨハネのメッセージを聞いていた人々はヨハネを離れてキリストの元にいくようになります。

そのことを彼は「あの方(キリスト)は盛んになり私は衰えなければなりません」と言いました。

つまり、自分は人から誉れを受けるためではなく、キリストの栄光のために生かされているということです。

そこに、彼は喜びを見出していたのです。

キリストが喜んでくだされば、私も満足です・・・そのような生き方をヨハネは貫き通した幸いな人です。

あなたは、どのような働きのために召されているでしょうか。

何を喜びとして生きているでしょうか。




キリスト兄弟団 鹿児島教会
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