神殿を建てよう  Ⅰコリント6:19~20

 ゼルバベルは困難な中で神殿を再建し、神の栄光(威厳、素晴らしさ)を現しました。

パウロは、こんな罪人のかしらが救われたという証しで神の栄光を現しました。

すべて「私の霊によって」です(ゼカリヤ書4:6)。

自然もその姿を通して神の栄光を現しています。

主は、ゼルバベルやパウロと同様に私達一人一人をも神の栄光を現す神殿としておられます。

どのようにして私達は神の栄光を現す器とされているでしょうか?

[1]私達のからだを通して

19、20節に「からだ」とあります。

「からだ」とはその人の歩み、生活を示しています。

私達は罪のために神の栄光を現すことの出来ない死んだものでした(ローマ6:23)。

救いは私達を生まれ変わらせました。

神の栄光を現す歩みが始まりました。

その歩みが神の栄光を現します。

[2]私達が聖霊を宿す神の神殿とされていることによって

 信じた者には聖霊が宿っておられます。

私達は「聖霊の宮」です(19節)。

居ながらにしてみ言葉を聞くことができます。

「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)に従って歩むことができます。

その歩みが神の栄光を現す神殿を築きます。

[3]自己を放棄することによって

「あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」(19節)。

生れつきのままの人は、自己を喜ばすことに夢中になります。

しかし、救われるとそのような生き方に空しさを感じるようになります。

神の栄光につながるものを求めましょう。

神の栄光と関係ないものは、喜んで捨てましょう。

[4]神のものとされていることによって

「あなたがたは代価を支払って買い取られたのです」とあります(20節)。

功のない罪汚れに満ちた私達を神はご自分のものとするために、キリストはご自分の血の代価を支払われました。

 私達は完全に神のものとされました(エペソ1:13)。

私達のからだ、全生涯をもって神の栄光を現しましょう
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立ちはだかる山    ゼカリヤ書4:1~9

 ここにオリーブの木と7本の管のある燭台の幻が記されてあります。

当時イスラエルは捕囚から帰還して神殿建築に取り掛かっていました。

指導者ゼルバベルは、敵の襲来、味方の疲労という困難の山々を前にしていました。

そのゼルバベルを励ますためにこの幻は示されたものです。

私達も様々な困難の山に遭遇しますが、勝利に進む秘訣があります。

それは、神の事実→信仰→体験の順序で進む事です。

[1]神の事実に根を張りましょう

神の前には困難の山もいかなる問題も平地となるという事実があります。

「大いなる山よ。おまえは何者だ。

ゼルバベルの前で平地となれ。」(7節)。

先週お話しいたしました兄息子は、放蕩して帰って来た弟が父に歓迎されるという驚きの山です。

そして、彼の内には「ねたみ」という山が隠されていました。

父といっしょに喜べない山もありました。

人間の内側にある様々な汚れた思いも、主は砕いてくださいます。

[2]「わたしの霊によって」と言われる主を信じましょう

「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる」(6節)。

以前お話ししましたように、ヤコブは「わたし(神)の霊」ではなく、自分の知恵と能力でやりくりして生きていました。

しかし、行き詰まります。

その彼に神は現われてくださいました(創世記28章)。

叔父ラバンのもとで彼は取り扱われました。

そして、神無しには生きられない自分の弱さを認めました。

全てを主に委ねて生きて行く信仰に立ちました(創世記32章)。

これが「わたしの霊によって」生きる人の信仰です。

「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)

[3]山が平地となる体験があります

「頭石」がはめ込まれて神殿建築は完成しました(7節)。

単に完成しただけでなく、人々は主の恵みによって完成したことを感謝しました。

困難に耐えられない手が神の栄光のために用いられたことを喜びました(9節)。

キリストに根を張り、神の栄光のために生かされている感謝と喜びの旅を続けましょう

いっしょに喜んでください(3)   ルカ15:25~32

 ルカ15章には、父の元を離れ放蕩の末に悔い改めて帰ってきた息子が登場します。

息子が帰って来たというので、父は祝宴を催しました。

しかし、兄息子はおこって家にも入りませんでした(28節)。

詩篇に「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」とあります(133:1)。

兄息子はその喜びと楽しみの場にいっしょに座れませんでした。

むしろ父に対して怒りをぶつけます。

「ご覧なさい。

長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。

その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊(こやぎ)一匹下さったことがありません」(29節)。

 ここに彼の間違いがあります。

①私は真面目に正しく生きて来たという、自分の力に対する過信です。

神に創造されておりながら、人間は神無しに生きられるという傲慢に陥りました。

それは、自分を「神のように」思う罪です(創世記3:5~6)。

②「子山羊一匹」にも勝る父の愛を知りませんでした。

31節にある「子よ。

おまえはいつも私といっしょにいる。

私のものは、全部おまえのものだ」とういう父のことばは、何よりも勝る私達に対する神の愛を示しています。

この愛は平安と喜びの源です。

神のことばに対する従順と信頼の土台です。

③むしろ、兄息子は父に「お父さん。

子山羊一匹でいいですからください」と求めるべきでした。

「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」(ヤコブ4:2)。

私達には神と語り合う幸せがあるのです。

④父の喜びを共有できませんでした。

父は兄息子に言いました。

「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ・・・楽しんで喜ぶのは当然ではないか」(32節)。

この父の喜びに兄息子は預かれませんでした。 

私達を愛し導いておられる主に根を張りましょう。

実を結びましょう。

彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。

彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう
」(詩篇92:13~14)。

下に根 上に実(3)  Ⅰサムエル7:3~14

 旧約聖書には、信仰による体験を記念にして建てられた石があります。

ヤコブは家族のトラブルを起してしまい家を出ました。

神は不安と寂しさの中にある彼に「あなたがどこへ行っても、あなたを守る」と語られました(創世記28:15)。

彼は、そこに石を立て神を礼拝しました。

これが彼の臨在信仰の転機となりました。

イスラエルはエジプトを出て溢れ流れるヨルダン川を渡りました(ヨシュア記3章)。

彼らは命じられた通り、そこに石を記念として立てました。

道なきところに道を作られた神を覚える為です。

信仰の良き体験は、私達に確信と勝利の実を実らせます。

サムエルは「エベンエゼル」(助けの石)という石を記念に立てました(Ⅰサムエル7:12)。

それまで打ち負かされていたペリシテ人に勝利を得たからです。

その時、彼は「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言いました(12節)。

 「ここまで」という彼の言葉には深い思いが込められています。

[1]主はここまでなさるお方です

とても勝ち目のない相手に、主は雷鳴をとどろかせました。

敵をかき乱しました(10節)。

いざとなれば、神は何が何でもイスラエルを助けられます。

そこまでなさるお方です。

[2]主はここまで憐れんでくださるお方です

イスラエルは20年間契約の箱をペリシテ人に奪われていました(2節)。

彼らの不信仰なために、イスラエルは敗北の時を過ごしていました。

そこにペリシテ人が襲来してきました(7節)。

彼らはへりくだって主に叫びました。

主は彼らを憐れんでくださいました。

まことに主は憐れみ深いお方です(出エジプト34:6)。

[3]主はここまでずうっと助けてくださったお方です。
 
イスラエルが助けられたのは、この時ばかりではありません。

エジプトでも、荒野でも、カナンの地に入っても今に至るまでずうっと助けられたお方です。

これからも助けられる神です。
 
エベンエゼルの神に根を降ろしましょう。

それが実を結ぶ私達の力となります

下に根 上に実(2)  ヨハネ10:7~16

 キリストは「わたしは、良い牧者です」と言われました(11節)。

この「良い」という原語には「魅力的」という意味が含まれています。

キリストには、この世にない素晴らしい「魅力」があります。

博士たちはその魅力に引かれて遠方からエルサレムに来ました。

そして幼子キリストを礼拝しました(マタイ2:11)。

一見幼子、しかしその中にかれらは魅力を見出したのです。

「下に根を張る」とは、キリストの魅力を見出す事です。

今日の聖書に、私達がキリストに引きつけられる理由があります。

[1]キリストは羊の門です(7~10節)

 キリストという門を入ると、救われて「豊かに」生きる事ができます。

勿論、門を入った為の困難もあります。

世の習わしとの戦いがあります。

しかし、この門の中には平安があります。

イスラエルは、神に選ばれてこの門を通りました。

しかし、その魅力を見失いました(マラキ3:14~15)。

あらたに、この門であるキリストに目を向けましょう。

[2]キリストは羊の牧者です(11~15節)

しかも「良い牧者」です。

その理由があります。

①羊の為にいのちを捨ててくださいました(11節)。

②狼が来ても逃げませんでした(12節)。

つまり、決して見捨てないという魅力です。

③どんな時にも羊を心に掛けておられます(13節)。

④羊を真に知っておられます(14~15節)。

自分の事でありながら、私達は自分を知らないものです。

しかし、私達の牧者は私達の能力、弱さ、欠点を知っておられます。

どのように生きるべきか、真に知っておられるのはイエス・キリストです。

[3]キリストには存在の素晴らしさがあります

 今日の聖書の個所に「わたし」という語が18回でてきます。

「わたし」というキリストの存在そのものが私達にとって真の魅力です。

キリストの存在が私達の力す。

しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」(詩篇73:28)。

 キリストに根を張りましょう。

豊かな実がみのります。
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