主は心を見る    ルカ16:14~18

 イエス様は御許に集まった人々にたとえをもって話されました(15:1~32)。

そして弟子達にも話されました(16:1~13)。 

一部始終を聞いていた「金の好きなパリサイ人たち」が「イエスをあざ笑った」と記されてあります(同14節)。

彼らはイエス様が救い主であることを信じていませんでした。

「金の好きな・・」とはこの世と心の望むままに歩んでいた私達の姿でもあります。

そのような彼らにイエス様はなおもねんごろに語りかけられたことが分かります。

あなたがたは、人の前で自分を正しいとするものです」(15節)

確かに人は教えられなくても都合の悪い事を隠し、うそをついてまでも自分を正しいとします。

しかし神は、あなたがたの心をご存知です」(15節)

自分を正しいとしたい・・・それは自覚しなくても神はご存知です。

名誉や評判を欲し、それが満たされることがいつしか喜びとなります。

その心を神はご存知です。

律法と預言者はヨハネまでです

それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでもこれに入ろうとしています

しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びる方がやさしいのです」(16~17節)。

神の御旨である律法に従うように勧められました。

そして、福音を信じて救われる道があることを示されました。

イエス様は私達の心がいかに神の前で「憎まれ、きらわれ」ていることを見ておられます(15節)。

そのような私達にイエス様は語り掛け、教え、導いてくださいました。

このイエス様の慈愛と寛容(ローマ2:4)の故に、私達はイエス様を信じることが出来ました。

ダビデのように神の前に祈りましょう。

神よ

私を探り、私の心を知ってください

私を調べ、私の思い煩いを知ってください

私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

(詩篇139:23~24)
スポンサーサイト

走り続けよう(2)   ヘブル12:1~3

 私達の人生はマラソンのようなものです。

1節でパウロは「私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」と言っています。

このことから二つの事が教えられます。

第一に

もしパウロがキリストを知らず、復活の信仰を持っていなかったら、彼はどこに向かって走り続けよと言っているのでしょうか? 

それは、この世の終着点である「墓」に向かって走り続けよと言っていることになります。

私達の人生が単に死に向かって走り続けるのだったら空しいものです。

走ろうと言う気力がありません。

パウロは十字架に架かられ、復活されたキリストを信じた人です。

この世の人生の出発点は誕生の時です。

そして、ゴールは死です。

しかし、パウロの「走り続けなさい」の出発点はキリストによって救われた時です。

つまり、キリストを救い主として信じて生まれ変わった時です(ヨハネ1:12)。

ゴールは永遠の御国です。

そこに向かって走り続けよと私達を励ましているのです。

このコースを思うと走り続けたいと思います。

このコースには様々な試練や慰めがあります。

ペテロがガリラヤ湖で取り扱われ、信仰が成長したように、私達のコースも主の恵みで満ちています。
 
第二に

私達が走り続けるのは、1人で走るのではありません。

マラソン競技も多くの人々と共に走ります。また監督の励ましがあります。

さらに、「多くの証人たちが、雲のように私達を取り巻いている」とあります。

「証人」は「殉教者」の意味であり、広い意味では信仰のコースを走り終えてすでにキリストの元にある人々の事です。

このような人々が私達を応援していてくれます。 

私達の教会の納骨堂には8名の方々が納骨されています。

その他、主にあって召された教会関係者の方々がおられます。

勿論、何よりもやがてキリストとお会いできるという希望があります。

そして、すでに召された家族や兄弟姉妹と会えるという希望も励ましとなります。

  御国に向かって共に走り続けましょう。

走り続けよう   ヘブル12:2~3  

 信仰生活は独りで走る競走ではなく、兄弟姉妹と助け合いながら走る“協走”であることを述べました。

さらに信仰生活は監督との“協走”です。

どの音楽学校を卒業したかよりも、誰に師事したかが大切ある・・・これは、ある音楽家の話です。

私たちの監督はイエス・キリストです。

[1]監督に目を留めましょう(ヘブル12:2)

ペテロは水の上を歩くキリストのことばを信じ、湖面を歩きました。

キリストは信仰の創始者です。

キリストから目を離したときに溺れかけました。

キリストから目を離すべきではありません。

しかし、ペテロがキリストに助けを求めた時に彼は引き上げられました(マタイ14章)。

キリストは私達を成長させ、完成してくださる監督です。

このお方に目を留めましょう。

[2]監督に学びましょう(同2~3節)

 その監督であるキリストは私達のために模範となってくださいました。

「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座された」(2節)

監督に学びましょう。

[3]監督に従いましょう(ヨシュア記5;13~15)

勝つためには、監督の指示に従う事です。

 エリコの戦いを前に、ヨシュアの前に「抜き身の剣」を手に持った「ひとりの人」が現われました。

受肉前のキリストと言われています。

ヨシュアは「あなたは・・味方ですか・・敵ですか」と尋ねました。

しかし、「その人」は「わたしは主の軍の将」であると言いました。

私達の人生にも敵、味方があります。

追い風や向かい風があります。

しかし、キリストは、敵味方以上の存在です。

追い風や向かい風の中で私達を勝利に導く監督です。

そのキリストにヨシュアは尋ねました。

「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか」と。

さらに、キリストは言われました。

「あなたの足のはきものを脱げ」と。

ヨシュアは「そのようにした」とあります。

はきものを脱ぐとは、下駄を預ける事です。

自分の権利を放棄することです。

監督イエス・キリストにしもべとなって仕えましょう。

キリストに全てを委ねて従いましょう。

信仰は“協走”  ヘブル10:19~25

 パウロは信仰生活を当時から行われていたオリンピックのマラソン競走に譬えて話しています(Ⅰコリント9:24, ヘブル12:1)。

[1]信仰生活は“協走”です

信仰生活は、一人では走れない競技です。

キリストとの二人三脚であり、信仰の兄弟姉妹と共に進むものです。

つまり、信仰生活は“協走”です。

冬季オリンピックに3人一組でリンクを滑るパシュートが行われました。

疲れたら先頭を代わり、協力しながらスピードを競います。

もし、パウロの時代に冬季オリンピックがあったら彼はパシュートのように走れと言ったでしょう。

[2]誰と一緒に走るのでしょうか

 主にある兄弟姉妹と共に走ります。

私達が後ろ、上、前を見る時に同じものを見ます。

ですから一緒に走れます。

①私達が後ろを見る時に見えるもの・・・

 それは共通の、そして確実な出発点である「イエスの血」です(19節)。

また、私達すべての後ろには「新しい生ける道」があります(20節)。

それは、キリストに守られた恵みの道であり、エベーンエゼルの道です(Ⅰサムエル7:12)。

②私達が上を見上げる時に見えるもの・・

 それは、今も私達を執成しておられる「偉大な祭司であるイエス・キリストです(21節)。

③私達が前を見る時に見えるもの・・

 それは、約束の御国です。

キリストにお会いできる希望です(22~23節)。

[3]どのように一緒に走るのでしょうか

 共に集まり、励まし合いながら走る事が出来ます(24~25節)。

キリストの血潮を仰ぎましょう。

大祭司であるキリストを見上げましょう。

そして御国への希望を告白しながら一緒に走りましょう。

その時に大きな励ましがあります。

このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか

                                    (ヘブル12:1)

神のうちにある幸い    エペソ3:14~19

天国には夜がありませんが、この世には闇が存在します(黙示録22:5)。

私達は信仰によって、その闇の世で天国の光の恩恵に与ることが出来ます。

エペソ人への手紙を記したパウロもその光の中にありました。

彼は「ひざをかがめて」エペソの信徒達の為に祈ったとあります(14節)。

当時、彼は不当な審きでローマの牢獄で捕らわれの身でした。

その不自由さの闇をかき消す光の中にありました。

そして、エペソの信徒や私達も彼のように生きる事をパウロは祈っています。

[1]神が私達の内なる人を強くしてくださるように(16節)。

「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント4:16)。

外なる人とは、年とともに衰えていく体です。

しかし、内なる人は信仰によって新たにされます。

道徳的な判断力です。

また自分が立たされた境遇の中でどのように生きるかの判断力です。

パウロは内なる人が強められておりました。

アブラハムは争いを避ける賢い判断をしました(創世記13章)。

聖書は外側の衰えは認めよと言います。

しかし、内なる人は信仰によって日々新しくされます。

[2]キリストが私達の内に住み続けてくださるように(17節)

17節の「住み」は「住み続ける」という意味です。

キリストは信仰によって私達の内に入って住んでくださいます(黙示録3:20)。

そして、私達が信じ続ける限り、住み続けてくださるお方です。

神が共に居られるという平安を与え続けてくださいます(マタイ28:20)。

[3]私達がキリストのもので満たされるように(19節)

NHKの連続ドラマ「わろてんか」では、笑いを人々の心に満たす主人公の生き様が取り上げられています。

確かに笑いや音楽など良いものですが、人間の心から憎しみ、恐れを完全に取り除くことはできません。

パウロはキリストの愛と恵みで満たされることを祈っています。

そして、その愛で

いつも喜んでいなさい

絶えず祈りなさい

すべての事について、感謝しなさい。」

と勧めています(Ⅰテサロニケ5:16~18)。
プロフィール

sawakei1

Author:sawakei1
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR